ゴトンゴトン、と眠気を誘うような規則的な揺れだが、の瞼が重くなる気配はなかった。さして興味もなく、はただぼんやりと窓の外へと視線を投げる。暗闇の中にいくつか明かりが見えるばかりで、楽しい景色などひとつもなかった。
はパーティを変えながら、何度も迷宮に潜ってきたが、ここまで奥深くまで来たのは初めてだ。これからのことを考えると、鉛を呑んだような気分になる。
「ところでライオス、おまえたち兄妹はなぜ冒険者に?」
センシの問いかけに、はようやく視線を動かした。
はライオスの幼なじみだが、彼よりもずっと早く村を出ているので、詳しい経緯を知らない。いまさら知る必要もないと思っているし、自身の経緯だって話そうとも思わない。
ライオスと目が合って、はすぐに瞼を下ろした。そうして、窓に寄りかかる。
ファリンのことは、ほんとうの妹のように大事に思っている。だからこそ、こうなってしまったことがひどく悔しくて悲しくて、どこにもぶつけることのできない憤りがの胸を重くさせる。
正しいことをしたとは思えないし、思わない。けれど、間違っていたとも断言できない。
ファリンを助けたい。
しかし、人ならざるものとなった姿を思い出すと──ぞくりと背筋に冷たいものが走って、は己の腕をぎゅうと抱いた。おぞましい。あれは、もはやファリンと呼べるのかすらわからない。理を捻じりに捻じ曲げた結果なのかもしれなかった。
けれども、どうしたらよかったのかなんて、にだってわからないのだ。
「今に至る、と」
そう言葉を区切ったライオスに対し、「なんという将来設計のなさよ」とセンシが呆れたように言った。
ライオスが冒険者になったいきさつは、だいたいが思っていた通りだった。村の閉鎖的なところを嫌っていたことを知っているし、わりといい加減な性格も理解しているため、ライオスが無計画に流れ着くように島へやってきたことは想像に難くはなかった。
とはいえ、も似たようなものだ。母から逃れたい一心で、ただただ遠くへやってきた。そして体良く仕事にありつけただけである。センシの言葉が、当人でもないのに耳が痛い。
は瞼をぴったりと閉じて、揺れに身を任せる。それでも眠気がやってくることはなくて、ライオスの話し声が嫌でも耳に入ってくる。
「おまえはともかく、なぜ妹まで。学校のほうがいい暮らしができただろうに」
「ファリンの子ども時代はあまり恵まれたものではなかった」
ファリンが不遇だったかどうかは、には判断がつかない。少なくともには、ファリンが自分を不幸と思っているようには見えなかった。けれど、見えないものが見えることで恐れられて、村人たちが彼女に近づかなかったのは事実だ。
村にいた頃は、いつもファリンと一緒になって、ライオスの後ろをついて回ったものだ。
懐かしい記憶が、瞼の裏に蘇る。は、村には二度と戻りたくないと思っている。あまりいい記憶がないけれど、ライオスたちと過ごした時間は、たしかに楽しいものだった。
それなのに、は別れの挨拶も告げずに村を出た。そして、ライオスもファリンをおいて家を出た。
「魔術学校へ入るまで……いや、マルシルに会うまでずっとひとりで食事をとってたんだ。その姿を思うと胸が痛くなる」
ライオスの声が沈痛げに響く。できるなら、は耳を塞いでしまいたかった。
“ライオス、黒魔術で蘇生するなんて、理に反してる。”
そう言ったの気持ちは、いまだって同じだ。迷宮内では、たしかに命を失っても損傷の状態によっては蘇生が可能である。それゆえに、生死が曖昧になってしまうが、本来ならば死んだら終わりなのだ。失われた命は戻らない。
──ファリンの死を受け入れることが、果たしてできるだろうか。
「わっ、なんだよばっちいな」
マルシルの膝から飛び起きたイヅツミに視線を向ける。ウトウトと船を漕いでいるとばかり思っていたマルシルの瞳から、大粒の涙が溢れていた。
は魔術学校でのファリンを知らないが、こんなふうに涙を流してくれる友人に出会えて、心の底からよかったと思える。「早くまた一緒にご飯を食べたい」と、マルシルが鼻をすすりながら言った。
「すぐに食えるよ」
ライオスの穏やかな声を聞きながら、はそっと、再び目を閉じた。そうかな、と浮かんでしまった言葉を、ぐっと呑み込んで心の奥底にしまい込む。
「……わしが思うに、いまのファリンはベーコンエッグだ」
耳を傾けるべきではないとわかっていながら、は瞼を押し上げた。欠伸をしていたチルチャックも、涙をわずかに残したマルシルも、イヅツミもライオスも、センシを不思議そうに見つめていた。
「以前魂を卵に喩えただろう」
それを思い出したのかイヅツミが顔をしかめる。
ファリンやイヅツミは、ひとつの殻に二つの中身が入っている状態で、一度混ざってしまった魂は──二度と、元の形には戻れない。
センシ曰く、ファリンの魂はベーコンに卵が乗っていて、くっついているが綺麗に剥がせそう。一方イヅツミは具入りオムレツで、具を取り除けたとしても卵はボロボロになってしまう。
「……それはつまり、下半身の竜を切り離せばファリンの姿を人に戻せると?」
さすがにそう単純じゃないだろう、とライオスが戸惑うように言った。じ、とライオスを見つめたセンシが、視線を落とす。
「あの時……わしは竜の肉で保存食を作ったが、それらはすべて血肉へと戻りファリンと融合してしまった。一方で、竜に戻らなかった肉もあった」
は、と息を呑んだのは誰だったのだろうか。
「わしらが夕食で食べた部位だ」
はファリンと囲んだ食卓を思い出す。「おいしい!」と頬を紅潮させて、目を輝かせたファリンの顔が、すぐに思い起こされた。
センシが言わんとしていることを察して、は口を開きかける。
けれど、「やめて」と言葉にするのは、またライオスを傷つけるのではないかとを躊躇わせた。
「他の生物に消化された肉は自己を失う。それはこの生と死が曖昧な迷宮の中で、唯一明確な掟なのだと思う。それでは、竜の部分をすべて食べてしまえば、竜の魂の身を追い払うことができるのではないか?」
沈黙が落ちる。コポコポと湯が沸く音が、やけに耳についた。
はは、とライオスが取り繕うように笑った。
「なんというか……センシがそんなことを言うなんて。そういうことには反対かと」
「わしは今でも人の蘇生には反対だ」
答えながら、センシが席を立つ。
「しかし、ファリンはいま生きているし、おまえたちはただ彼女を迷宮から解放してやりたいのだろう。その手伝いなら喜んでやろう」
ふわ、とお茶の香りが鼻先に触れる。
は窓の外に向けていた視線を、ライオスへと向けた。センシの話を聞いた彼が、どういう反応をするのか知りたかった。
「竜の部分を食べる……し、しかし、それは……」
ライオスは神妙な顔をして──
「いったい何食分なんだ……?」
「そこじゃねーだろ!!」
チルチャックとマルシルとイヅツミが、声を揃えて噛みついた。「いやそこだろ!!」と、ライオスが間髪入れずに叫び返した。そのあまりの勢いに、マルシルが「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。チルチャックとイヅツミも全力で引いている。
「いままでで最も望みのある方法じゃないか! 他に何か代案あるか!?」
「…………」
顔を見合わせたマルシルたちは、呆れと諦めにため息を吐く。
センシが淹れてくれたお茶を受け取って、はふ、と小さく笑みを零した。すでにライオスの思考は、どうやってあの巨体を食べきるか、で埋め尽くされているようだ。前向きだと感心すればいいのか、倫理観のなさに呆れればいいのか。わからない、とは内心で首を傾げる。
「……ねぇ、」
マルシルの声に振り向く。その瞳に涙は残っていないが、鼻先が少しだけ赤い。
を苦手に思っているはずのマルシルが、声をかけてくるなんて珍しい。そう思いつつ「なぁに?」と、は微笑んだ。妙に神妙な顔つきで、マルシルがごくりと固唾を飲む。
「チルチャックと喧嘩でもした?」
マルシルが手を口元に当てて、声を潜めて尋ねた。
は伏し目がちにチルチャックを一瞥する。ハーフフットの聴覚は鋭い。いくら声を小さくしようとも、この距離なら聞こえているかもしれない。
「喧嘩なんてしてないけど、どうして?」
「だって、いつもだったらチルチャックの隣に行くでしょ? それに、なんか妙に静かじゃない?」
不可解そうに眉をひそめたマルシルが、ふいにはっと瞠目する。そして、気まずそうに目線を落とした。
「まあ、たしかにあの姿は衝撃的だったけど……あれはチェンジリングのせいだし」
「え?」
「あ、あれ? 違うの?」
マルシルが己の失言に気づいて、手のひらで口元を抑える。
チェンジリングで、たちの姿が変わってしまったことは記憶に新しい。ちなみにはノームに姿を変えていて、いつもより身長がだいぶ低かった。衝撃的、と言われたチルチャックはトールマンとなって、すらりと背丈が伸びてついでに髭も伸びていた。ふふ、とは小さく声を立てて笑った。
「チルチャックを見上げるっていうのも、すごく良かった」
「ええっ? そ、そう……かな」
納得のいかない顔をしたマルシルが、彷徨わせた視線をそろりとチルチャックに向ける。いつの間にか、再びマルシルの膝で丸くなっていたイヅツミもぴくりと耳を動かしたかと思えば、苦虫を噛み潰したような顔でを見やる。
チルチャックのトールマン姿は、皆に不評だったらしい。は軽く肩を竦める。
「とにかく、喧嘩なんてしてないから大丈夫。心配してくれてありがとう、マルシル」
「し、心配っていうか、調子が狂うっていうか」
途端にワタワタするマルシルに微笑ましい気持ちになりながら、はカップに口づける。それ以上話す気にはなれなくて、また意味もなく窓の外を見つめる。
チルチャックの近くには、行けない。
は漏れそうになるため息を、唇を結んで呑み込んだ。
「チルチャック!」
の悲鳴じみた声が辺りに響く。
バイコーンに噛まれた腕がミシミシと音を立てるのが聞こえる。そのまま手を口に持っていかれたまま、チルチャックの身体が玩具のようにブンブンと振り回される。
ゾッと背筋に寒気が走った。が武器を手にするより早く、イヅツミの投擲が命中して、バイコーンの口からチルチャックが放り出される。
チルチャックに駈け寄ろうにも、暴れるバイコーンの足元にいては近づけない。もどかしく思いながら、ライオスがバイコーンにかけた縄をセンシたちと一緒になって、も引っ張る。
「せえの!」
ようやくバイコーンがくりと膝をつく。ライオスが剣を振り下ろすのを傍目に、は慌ててチルチャックに駆け寄った。地面に叩きつけられたチルチャックの頭部からも流血しているし、腕に至っては噛みちぎられる寸前だったようである。
マルシルが「すぐに治してあげるからっ!」と、チルチャックの腕をとって治癒を始める。
「……ライオス」
は涙目でライオスを睨みつけた。非戦闘員であるチルチャックをこんな目に遭わせるなんて、と非難を浴びせるとライオスがしゅんと肩を落とす。
「本当にすまない。バイコーンはときに人間をも食う魔物だと忘れていた」
「そこ忘れるか……?」
力ないチルチャックのツッコミとともに、は思い切りライオスの脛を蹴ってやる。「いてっ」とライオスが小さく声を上げるが、チルチャックの痛みはその比にならないのだ。
「一説にはバイコーンが食うのは善良な夫だけだ。浮気で別居中なら関係ないかと……」
チルチャックの身体がギクリと強張るのが、にもわかった。
チルチャックが浮気をして妻子を捨てるほど無責任ではないことぐらい、はわかっていた。だから、長いこと妻にも子どもにも会っていない本当の理由を聞いたって、別段驚きはなかった。
チルチャックの妻の気持ちは、いくら考えたってわかりやしない。
チルチャックの昔の仲間たちとの食事会で、マルシルの言うように劣等感を覚えたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。わかるのは、ある日突然チルチャックの前から忽然と姿を消したことだけだ。には、少しも彼女の気持ちを想像することができなかった。
ぐいっと手を引かれて、掴む手の小ささにそれが誰かすぐにわかってしまう。ちょっと前までの自分だったなら、素直に喜んで舞い上がっていたに違いない。チルチャックから声をかけてくれるなんて滅多にないことだ。
「チルチャック? なぁに?」
以前と変わりなく笑えたのか、には自信がなかった。
「……怒ってんのかよ。妻子持ちだって、黙ってたから」
「えっ、どうして? 怒るわけないでしょう。あんまり自分のことを話したくないのはわかるし、チルチャックは嘘をついていたわけでもないし……」
は苦く笑って、少しだけ声のトーンを落として続ける。
「チルチャックのこと、ほんとうになんにも知らなかったね」
「ミミック嫌いは知ってるって?」
チルチャックが皮肉げに口角を上げた。
は小さく笑って頷き、壁際に腰を下ろした。チルチャックの手を引っ張れば、文句も言わずに隣に座ってくれる。
「わたしね、お母さんのことが大嫌いだった。だからたまたま村に立ち寄った旅人と駆け落ち同然に、逃げるように町を出たの。その人と一緒に島に来たけど、すぐにさよなら。ライオスより禄でもない経緯でしょう」
チルチャックが言葉もなく、顔を引き攣らせている。辛うじて「やっぱ魔性の女?」と、胡乱な目を向けてきた。
「魔性の女って、お母さんが呼ばれていたの。東方人の母はたしかに美しかったかもしれない。でも、若さや美貌に執着してそういう魔術の研究ばかりで、わたしのことなんて気にもかけなかった」
おかげで多少は魔術に精通しているので、そこだけは感謝している。ふうん、とチルチャックが相槌を打つので、ははそのまま話を続ける。
「母は不倫しては人様の家庭を壊して、村八分状態だったけど、一部の男の人が庇ってくれていたから村にいられた。わたしはいまでも、母のことを軽蔑してるし嫌悪してる」
そうやって母に入れ込み擁護する男たちは、母によく似たにも手を出そうとしてきた。可愛い可愛いと猫なで声で近づいてくる男たちを思い出し、は無意識に二の腕をさすった。
母のようには絶対になりたくない。
はそう強く思って、生きてきた。
「島に来てからしばらくは、死体回収屋に身を置いていたの。簡単な魔術なら扱えたから……チルチャックを初めて見たとき、こんな小さい子どもまでいるの? って、すごくびっくりした。すぐに違うってわかったけどね」
「おま……俺を回収してたのかよ」
「ふふ、そうだよ。あんまりミミックにやられてるし、挙句に宝箱の普通の罠でもやられてるしで、なんだか不憫に思うようになってきちゃって。気づいたら、あの人居ないかなぁって思うようになってたなぁ」
懐かしい、とは目を細めた。冒険者に転身してからはめっきりその姿を見かけなくなっていたが、思わぬところで再会できて内心すごく嬉しかったのだ。
は立てた膝に伏せた顔を埋める。
「……わたし、お母さんと、おんなじことしてる」
それが、何よりもは許せない。
「おまえの母親とは全然違うだろ」
「わたしにとっては一緒なの! 知らなかったけど、もう知ってる。それなのに、」
まだ、チルチャックのことが好きだ。
それを言葉にはできなくて、はぎゅっと膝を抱える。
チルチャックは善良な夫だ。不貞もしていない。長らく会っていないだけで、会おうと思えばいつだって妻にも娘にも会える。もっと早くにチルチャックに妻と娘がいると知っていれば、シュローやカブルーたちとともに地上に戻っていただろう。そうしたら、この気持ちも諦めることができたかもしれない。
「おい! 俺にはもう壊れる家庭なんてないんだよ。だから、お前は母親と同じじゃない」
チルチャックに肩を掴まれ、は顔をあげた。涙で滲んでチルチャックの顔がよく見えない。びくりと身体を震わせたチルチャックが恐々した様子で、の頬に手を伸ばした。
「」
ひどく慎重な手つきで、チルチャックの小さな指先が涙の粒を拭った。
「いまさら、好きじゃないとか言うなよ」
「…………」
「散々ちょっかいかけて、人をその気にさせておいて、それはないだろうが」
人をその気にさせておいて。は真意を探るように、チルチャックを見つめた。
水分を含んだ睫毛が瞬きのたびに重たげに揺れる。チルチャックが焦れったそうに小さな舌打ちをして、ぐいっと肩を引き寄せた。均衡を崩した身体が傾いて、はチルチャックの腕の中に収まる。
「ああもう、ほんとうに調子が狂う! なんで俺が、よりにもよってパーティ内で恋愛しなきゃなんねぇんだよ……クソっ」
チルチャックが苛立たしげに吐き捨てて、抱きしめる腕に力を込めた。ハーフフットの腕力などたかが知れているため、苦しくも痛くもなかった。
けれど、の胸はぎゅうと掴まれたように、一瞬だけ息が詰まった。
「好きだよ。いまだって、あなたが好き」
は投げ出していた手を持ち上げて、チルチャックの背に回した。「好きでいてもいいの?」問いかける声は、情けなくも震えていた。
「……いい」
ぼそ、とチルチャックが短く答える。
好きになってはいけない人だった、早く諦めなければ、とここ最近はずっと自分に言い聞かせてきた。でも、もうその必要はないらしい。じわ、と先刻とはまた違った意味で涙が滲む。
はそっと目を閉じてチルチャックに身を預けた。ドキドキと高鳴る心臓の音は、だけのものではないことに気がつく。
「チルチャ……」
顔をあげるが視線がぶつかるまえに、唇が重なった。一瞬だけ見えたチルチャックの顔は赤かったようだが、気のせいかもしれない。唇が離れると、後頭部を抑えられて再び抱きすくめられる。
鼓動の音が、先ほどよりも早いように感じる。
「……照れてる?」
「うるさい」
チルチャックの腕がきつく絡んだが、やはり苦しくはなかった。