ゴーティエの冬の寒さは、ファーガスの人間にとっても厳しい。
 気温差で曇った窓へと指を這わせると、指先の温度がみるみる奪われていく。窓には、陰鬱そうな女の顔が映っていた。はそれをじっと睨んでから、窓帷をぴたりと閉めた。
 この時期になると、思い出される記憶がある。もう何年も経つというのに、我ながら恨みがましいものだ。

 は今夜も、広い寝台を独り占めして眠る。
 初夜でさえも夫は、この寝台に上がらなかった。それどころか、夫婦の寝室として誂えられたはずのこの部屋に、一度だって足を踏み入れたことはない。
 にこの部屋は広すぎるけれども、いまとなってはなくてはならない城塞のようなものだ。もはや夫の立ち入る隙はない。

 目を閉じる。には、近年の夫の顔も声も思い出せなかった。脳裏によみがえるのは、士官学校の制服を着た──

「シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ」

 は寝台の中で小さく呟く。いつかその名前すらも忘れてしまうのでは、と思ってはみるも、いつもこの口は滑らかに動くから不思議だった。
 それは、の夫となった者の名前である。


 領内の視察などいつもひとりで勝手に行って、知らぬ間に屋敷に戻っているくせに、何故か今回に限ってを同伴させるという。は真意を探るようにその垂れた瞳を見つめたが、視線を逸らすばかりである。
 は細くため息を吐いた。

「わかりました」

 ゴーティエの家督がやれと言うのならばやる、それだけのことだ。
 は夫に失望しているが、己の立場や務めを忘れたことは、一度たりともない。

「……その、悪いな。急で」

 歯切れの悪いその言葉が、自分に向けられたのだということに、はすぐには気づけなかった。は紅茶に落とした視線をおもむろに上げる。
 悪いと思う心があったのか。はまじまじと夫の顔を見つめた。

 記憶の中よりも年を重ねている。そんな当たり前のことを、は時間をかけて飲み込んだ。

「構いません。ゴーティエ夫人として、当然のことですから」
「奥様! 街に出られるのでしたら、毛皮を用意しませんと。この時期はとてもお寒いですよ」

 二杯目の紅茶を注いで、侍女がニコニコと言う。悪気は一切ない。
 は確かに、とふと衣裳部屋にある冬服を思い浮かべた。寒さの厳しいこの時期、が屋敷を出ることなどない。必要がなかったのだ。

「商人を呼ぶから、新調すればいいんじゃないか?」
「あら、ずいぶんと気前がよろしいのですね」
「……まあ、そのくらいはするさ」

 嫌味のつもりはなかったが、夫の顔が苦虫を噛み潰したように歪んだ。
 はす、と目を細めた。”そのくらい”のことを、これまでやってもこなかったくせに。正真正銘の嫌味を、は紅茶で流し込む。

「そういうことだから、頼んだぜ」

 茶杯を空にして立ち上がる夫を、は視線だけで追いかける。こうして二人でお茶を飲むのもいつ振りかと思うほどなのに、慌ただしいひとだ。
 と呼ばれることもなければ、シルヴァンと口にすることもなかった。
 もはや、仮面夫婦ですらないのかもしれない。

「……女神の塔、」

 ぽつり、と落ちた言葉を拾い上げる者は、いなかった。




 ふわふわの毛皮に包まれたが、それでも寒そうに顔をしかめるのを、シルヴァンは黙って見ていた。ゴーティエで生まれ育ったシルヴァンでさえもこの寒さは堪えるのだから、には相当のはずだ。
 落成を記念する周年祭はガルグ=マク大修道院から離れたこの地でも、ささやかに行われている。なにせ、ファーガスの国教はセイロス教であるし、現国王は大司教と繋がりが深い。すでにゴーティエは雪に覆われていたが、こんな日くらいは人であふれていた。

「……賑やかね」

 人々のざわめきにかき消されそうな声が、傍らで落ちる。「はぐれてはなりませんね!」と侍女がぴたりとの傍に寄り添っているのを見て、シルヴァンは視線を市井へ向けた。
 雪を踏みしめながら歩く。
 が物珍しそうにあたりを見ながら、後に続いた。

 どうしたってこの時期になると、行われなかった千年祭のことを思い出す。そうすると、芋づる式に士官学校時代のことも思い出されるのだ。
 すでにシルヴァンの婚約者だったもまた、青獅子の学級の一員だった。

 けれど、シルヴァンはその頃ののことを、ほとんど覚えていない。それがどれだけ失礼で、最低なことなのか、一応は自覚している。

「あっ、奥様!」

 侍女の悲鳴じみた声に振り向けば、が人にぶつかってよろけたところだった。シルヴァンは咄嗟に手を伸ばして、その身体を抱きとめる。柔らかい毛皮の感触と、花のような匂いがした。

「ごめんなさい」

 腕の中で、小さく声がする。

 ──は、こんなに小さかっただろうか。
 シルヴァンはひどくぎこちない動きで、の顔を覗き込んだ。普段ではありえないその距離の近さに、シルヴァンはどうしていいかわからなくなったのだ。

「……? もう離していただいて結構よ」
「あ、ああ」

 ぱっ、と手を離せば、がくすりと笑った。

「こんなに近づいたのは、婚礼の日以来かしらね」

 その小さな冗談は、シルヴァンの胸を大きく軋ませる。
 シルヴァンは「ほら」と、女性に対するにしてはぶっきらぼうな物言いで、手を差し出した。が怪訝そうにその手を見つめている。

「掴まれよ。また同じ目に合うぞ」

 渋々、といったふうに乗せられた手を握ると「まあ」と、侍女が背後で目を輝かせた。期待させたようで悪いが、シルヴァンとの間に甘い雰囲気は一切ない。

「手を取ってすらくださらなかったくせに」

 小さく悔しげに呟くその顔が泣き出しそうに見えて、シルヴァンは思わずを見つめた。ふい、と顔が背けられる。

「ガルグ=マクのあの日の屈辱を、わたしは忘れていません」
「屈辱? 待ってくれ、なんのこと……」
「舞踏会では見せつけるようにわたし以外の方とたくさん踊られて、女神の塔では待ちぼうけさせられました」
「…………いや、その、……ぐうの音も出ないとはこのことか」

 シルヴァンは朧気ながらに当時のことを思い出して、青ざめた。
 よくもまあ、そんな男と結婚したもんだ。

「……だから、星辰の節は嫌いです」

 じろ、とが睨みつけてくる。ろくでもない記憶を思い出すたびに、夫となった男を嫌いになっただろうか。これ以上嫌われることなどないと思っていたが、それは勘違いかもしれない。
 シルヴァンは眉尻を下げて、笑んだ。

「好きになる努力、してみようぜ」
「……はい?」
「今さらかもしれないが、……お互いにさ」

 楽しげな音楽に乗って、の手を取って広場へと躍り出る。ふわふわと動きに合わせて揺れる毛皮が、羽根のように見えた。

「シルヴァン、」

 咎めるような声を出しながらも、の足がついてくる。
 舞踊なんて、シルヴァンにとっては息をするのと同じくらいに容易いことだ。これまでいったい何人の女性と踊ってきたか知らない。だというのに、の手を取るその指先が緊張で震えてしまいそうだった。
 ほんとうに、こんな距離でを見るのは、結婚式の日以来かもしれなかった。

「……仕様のないひとね」

 まったくその通りである。
 シルヴァンとて今さらこの関係を修復できるなんて、そんな身勝手なことは考えていない。ただ、この距離が案外悪くはないと思ってしまったのだ。それから、笑ったその顔を、もっと見てみたいとも──

「知ってて結婚したんだろ、

 思わず、というふうによろめいたを抱き寄せれば「馬鹿」と、恨みがましく呟かれた。

寒いんだってねだってくれよ

(そうすりゃ、躊躇いなく触れられるから)