イベントごとには、あまりいい思い出がない。
浮ついた空気が苦手だったし、何かを期待するような視線が嫌だった。街の煌びやかなイルミネーションを見上げて、は白い息を吐き出した。仕事が忙しいし、恋人には縁がないせいで意識していなかったが、もうすぐクリスマス、と至る所の装飾や流れる音楽が知らしめるようだった。
仲睦まじく身を寄せる男女を傍目に、はマフラーに顔を埋めた。
師走というだけあって、年の瀬が迫るせいか仕事が山積みだ。毎年のことながら、クリスマスイブもクリスマスも学校で仕事の予定しかない。
そういえば、生徒たちもソワソワした雰囲気だったように思う。自分には経験がないが、存分に青春を謳歌してもらいたいものだ。
吐息で眼鏡が曇ったが、イルミネーションだけはキラキラと輝いて、眩しかった。
椅子に座ったまま、ぐっと背筋を伸ばす。ふう、と一息ついたところで手を伸ばしたコーヒーがすでに冷めてしまっていることに気づいた。
「今日は寒いな……」
膝掛けをしていても、つま先が冷え冷えとする。
「雪が降っているせいでしょう」
「ああなるほど、雪が……」
コーヒーを淹れ直そうと立ち上がって、ははっと振り向く。
戸口に背を預けた相澤がにやりと口元を歪ませて「こんな日も仕事ですか」と、揶揄うように言った。こんな日、と思わずカレンダーに視線を向けて、今日がクリスマスイブであると思い至る。
こんな日に仕事をしていたのは、相澤も同様だろう。
「相変わらず色気のない」
ひどい言われようである。答えあぐねるうちに、近づいてきた相澤にマグカップを取り上げられる。
「コーヒーなら淹れますよ。俺の分も貰いますが」
「え? あ、いや、」
「それにしても、随分手が冷たい。冷え症ですか?」
一瞬だけ触れた指先が、今度は確認するようにの手を取った。相澤の乾燥した手は、に比べるとずっと温かかった。
相澤が背を屈めて、顔を覗き込んでくる。は慌てて顔を俯かせた。
「そ、そうです、冷え性で! お言葉に甘えてコーヒーをお願いします!」
リカバリーガールも生徒もいない静かな保健室に、の声がやけに大きく響いた。手を離したかったのに、ぎゅうと掴まれて叶わない。
眼鏡の奥の瞳を探るようにじっと見つめられて、落ち着かない。
ちら、とは俯きがちに視線を上げる。相澤の目元にある傷痕を、やはり直視することができない。はさっと再び目を伏せる。いつまでも離れてくれない手を引いてみるも、さらにきつく握られてますます困惑する。
「相澤先生、あの……」
「ああ、コーヒーでしたね」
何事もなかったのように相澤が離れていく。ほっと息を吐いて、は「お願いします」と小さく頭を下げた。じんわりと指先が熱を持つのは、相澤の手の温度がうつったのだろうか。
湯気の立つカップをに手渡して、空いている椅子に相澤が腰を下ろす。
ふー、と長いため息を吐いた相澤の眼の下には、くっきりと隈が刻まれている。担任を務める相澤は、よりもよほど忙しいはずだ。ヴィラン連合の動きやインターンの再開など、悩みの種が尽きないだろう。
「すみません、わたしがコーヒーを淹れるべきでしたね」
「何故です?」
「わたしよりも、お疲れでしょう。もしかして、リカバリーガールに用事がありました?」
カップを両手に抱えたまま、相澤がを見つめる。にこりともしないが、愛想がないのはいつものことだ。
「いいや。ただ、あなたの顔が見たかったので」
「……は、」
思わず、喘ぐような声が漏れた。
眼鏡の奥で、は何度も瞬きを繰り返す。
「ばあさんが居ないのは好都合です」
畳み掛けるように言って、相澤がコーヒーに口をつける。混乱したまま飲んだコーヒーのせいで、は舌を火傷してしまった。
けれど、それすら些細なことのように思えるのは、顔が燃えるように熱いせいだ。寒いと感じていたのが嘘のようだった。ふいに、身を乗り出した相澤に手を重ねられる。手の甲から指の先へ、相澤の指が撫でていく。
「冷え性なのでは?」
ほとんど相澤と同じ体温だった。もしかしたら、相澤よりも温かかったかもしれない。
「……これを飲んだら帰りませんか? 送ります」
本音は、もうすこしきりの良いところまで仕事を終わらせたかった。しかし、はこくりと頷いてしまっていて「はい」と答えるほかなかった。
相澤に家まで送ってもらうのは初めてではない。
いつもより緊張してしまうのは、眩いばかりのイルミネーションで、暗い中でも互いの顔がはっきり見えるからだろうか。
相澤の言葉通り、ちらちらと雪が降っている。
「……寒いですね」
は当たり障りのないことを口にして、隣を歩く相澤を見上げた。「まあ、もう12月ですから」と、相澤が前を向いたまま答える。
緊張を覚えているのは自分ばかりのようで、は恥ずかしさからマフラーに顔を埋めた。眼鏡が曇っていく。
相澤が足を止めたことに数歩歩いてから気づいて、は振り向く。
「相澤先生?」
「時間があるなら、すこし付き合ってくれませんか? 温かい飲み物でも買ってきます。そこのベンチで待っててください」
「えっ」
の返事を待たずに、相澤がさっさと踵を返して行ってしまう。言われた通りにベンチに腰を下ろして、は小さく口を尖らせる。
「……よく、わからない」
相澤が何を考えているのか。相澤のことを、自分がどう思っているのか。
ふっと影がかかって、は俯かせていた顔を上げた。
びくっと肩が跳ねる。目の前に立っていたのは、相澤ではなかった。見知らぬ男が怒りの表情を浮かべて、を見下ろす。
「あの男は誰だよ!」
男が唐突に声を荒げて、の肩を掴んだ。加減を知らないのか、怒り任せのせいか、指が食い込んで痛む。
「だ、誰って……やだ、ちょっと離して……!」
身をよじるが、そんな程度では男の手は離れてくれなかった。はぎゅっときつく目を瞑る。
──イベントごとには、いい思い出どころか悪い思い出ばかりだ。
「うわっ!」
身体に巻きついた布に引っ張られ、男が地面に伏した。「婦女暴行で現行犯逮捕だな」男の上に乗った相澤が、冷ややかに告げる。
「お、お前は……! クソっ、離せ! 彼女は俺とクリスマスイブを過ごすんだっ」
「ほう、初耳だな。予定もなく、侘しく仕事に励んでいたようだが?」
「ううう、うるさい! 黙れっ、暴行しているのはお前のほうだろう! こんなことが許されるわけ……」
何事かと周囲に人が集まってくることに気づいてか、男が大人しくなる。
相澤がを見た。
「警察に引き渡すか?」
「け、警察……っ」
男が引きつった声を上げる。
は首を横に振った。相澤の捕縛布から解放された男が、転がるように逃げていく。興味をなくした周囲の人だかりも、すぐに散っていく。
ベンチから立ち上がる気力がなかった。の手に、相澤があたたかい缶を握らせる。隣に座るのではなく、相澤がしゃがみこんでの顔を下から覗き込む。
「悪い。尾けられていること、伝えるべきだった」
「……いえ」
慣れてますから、とは言えなかった。
じわ、と涙が滲むが怖かったからではない。ただ男をおびき寄せるためだけだったのだ、と思うとひどく胸が痛む。すこし付き合ってくれませんか、なんて言われてわずかでも期待していた自分が馬鹿馬鹿しい。
「帰りましょう」
手の内の缶がどんどんと冷えていく。同時にの指先も、心臓も冷たくなっていく気がした。
「そんな顔をされたら帰したくなくなる」
相澤の手が顔に伸びて、の眼鏡を上にずらした。潤んだ瞳と、相澤の赤く光る瞳がぶつかる。
「やっ……」
はぎゅうと目を閉じて顔を背ける。目尻から涙粒が落ちて、相澤の指先がそれを拭った。ぞ、との背筋に冷たいものが走る。
の体液には催淫効果が含まれていることを、相澤だって知っているはずだ。
「せ、先生、」
「安心してください。初めから、こうしたかった」
相澤の顔が近づいてくる。そっと手が頬に添えられただけで固定されているわけでもないのに、は顔を動かすことができなかった。
やわらかい感触が唇に触れる。
吹きつける風の冷たさも、手に触れる缶の冷たさも変わらないのに、の体温があっという間に上昇していく。