頼りない月明かりだった。細長い月が、雲間から時折顔を覗かせる。
 手にしたランタンをいくら掲げようとも、遠くまで見渡すことは不可能だった。リュシオンは柳眉をひそめ、薄暗い廊下の先を睨むように見つめる。しかし、目を凝らしても何も変わらなかった。
 鳥翼族は夜目が効かない。あのヤナフでさえも夜には、無用の長物と化す。

 リュシオンは、壁に手のひらを這わせながら、壁伝いに廊下を進む。何度も通い慣れた道だというのに、昼間と夜とではこうも違うとは、不便なものである。
 等間隔に設置された燭台では、リュシオンの視界を開くには不十分だ。
 このような夜更けに出歩くべきではないということは、リュシオンは百も承知だった。

「……ティバーンめ、を働かせすぎだ」

 不満をあらわに小さく呟く。
 グレイル傭兵団の一員であったは、紆余曲折あってフェニキスに身を置き、ティバーンのために尽力してくれている。近頃は、ほとんどフェニキスに居ることがない──鷹の民だけではなく、鴉の民と鷺の民を含めた新たな国を築き始めたばかりで、忙しなくするのは仕方のないことだと理解はしている。
 ただ、納得はしていない。何も、ばかりが各地を駆け回ることはないだろう。彼女には翼がない。

「リュシオン? こんな時間に何しているんですか!」

 駆ける足音が近づいて、リュシオンの前で止まった。リュシオンはランタンを持ち上げて、相手の顔を照らす。「う、まぶしい」と顔の前に手をかざし、怪訝そうにリュシオンを見やるのは、紛れもなくだった。

 壁に伝わせていた手を取ったの手は、外気のせいかひんやりと冷たい。リュシオンはその手を握り返し、の顔をよく見るために近く。

「ひょえ、」

 奇妙な声を発して身を仰け反らそうとしたを、手を引くことでそれを阻む。「こ、これはこれでまぶしい」ごにょごにょと口を動かして、が視線を彷徨わせる。
 外套を纏ったままのの鼻先が、赤いような気がした。

「ティバーンの言葉通りだったな。今日中には帰る予定だと」
「まあ、急いで帰ってきましたから……」
「ほう。では、約束は覚えていたということだな」

 リュシオンは満足に頷いた。がリュシオンの手を引いて、ゆっくりと歩き出す。

「そりゃあ、忘れませんよ。いくら忙しくたって、リュシオンとの約束を違えたりしません」

 ふふん、と得意げにが振り返る。
 リュシオンはもう一度頷くと、口元を綻ばせた。暗い中、こうして歩いた甲斐があったと言うものだ。
 前をゆくの足取りは、すこしも迷いがない。その華奢な背に翼はないのだ。

「リアーネはネサラさんと楽しく過ごせましたかね?」
「……知りたくもない」
「心配する気持ちはわかりますけど、あんまり過保護なこと言ってるとリアーネに嫌がられますよ」

 あはは、とが声を抑えつつも、笑いを堪えきれない様子でリュシオンに釘を刺す。
 いかなる理由があろうとも、リュシオンはネサラにはひどい目に遭わされてきた。その時の怒りや悔しさが全て消えてなくなるほど、残念ながらリュシオンは穏やかではないのだ。

 いずれは許すのだろう。
 結局のところ、リュシオンはリアーネの思いを尊重するし、ネサラを心根から嫌っているわけではない。すぐには受け入れることが難しいだけだ。
 とてそれを理解しているからこそ、軽口を言うのだ。

「リアーネは悪い男に捕まってしまった」
「それは、ネサラさんには悪いけど否定できませんね」

 前を向いたままのの肩が、細かく震えていた。



 の部屋は、しばらく主が居なかったせいか少々埃っぽい気がした。「うわ、寒いですねぇ」と、が灯りをつけて、すぐに薪ストーブの火をつける。そしてストーブの上のケトルに、腰にくくりつけていた水筒から水を注ぐ。

「温かい飲み物、煎れますね。というか、いつ帰ってくるかわからなかったんですから、部屋で待っていてくださってよかったんですよ」
「婚前の異性の部屋に、勝手に入ることは許されないだろう」
「うっ、お堅いですね……いや、この場合は古風と言ったほうが正しいですかねぇ」

 がのんびりと呟きながら、外套を脱ぐ。
 明るくなったおかげで、リュシオンはようやくの姿形をはっきりと捉えることができた。赤いのは鼻先だけではなく、頬と耳も色づいていた。

「外は寒かったか?」
「冬ですから。でも、デインに比べたら全然ですよ。山とはいえ、やっぱり南の国ですね」

 ぽんぽんと軽く手で埃を叩いてから、がベッドに腰を下ろす。入り口付近で立ち尽くしたままのリュシオンを、不思議そうに首を傾げて見やる。

「座ってください。ほら、こっち」

 の真横を手のひらで二度叩いて、示す。
 リュシオンはランタンをテーブルに置いて、の隣に座った。が身を寄せて「久しぶりです」と、だらしなく頬を緩ませる。

「働きすぎじゃないか。休めているのか?」
「大丈夫ですよ、このくらい。元々根無草だったので歩き回るのは慣れてますし、何だかんだわたしのほうが動きやすいですから」

 リュシオンはの頬に手を伸ばす。先ほど触れた手と同じように、ひんやりとしていた。

「あ、でも今回は約束を果たすために、すごく急いだんですよ。褒めてくれます?」

 が悪戯っ子のように目を細めて、笑う。
 弧を描く唇を親指の腹でやさしくなぞり、リュシオンは指を離すと同時に唇を触れさせた。二、三度啄むように口付けてから、角度を変えて唇を食む。

「んん……ッ」

 舌を侵入させても、が拒むことはない。ふにゃりと力の抜けた身体が後方に傾いて、リュシオンが覆い被さるような形でがベッドに背を預けた。

「ま、まって、」
「ああ、そうだった。まずはこれを渡さなければ」

 リュシオンは懐から小さな包みを取り出し、の手のひらに乗せた。
 包みの小ささと重さを確かめるを視線だけで促せば「あ、開けろってことか」と、苦笑と共に身体を起こす。
 の指先がリボンを解いて、包装紙を剥がす。そうして現れた小さな箱を手に、が視線を上げた。

「開けちゃっていいんです?」
「ああ」

 ぱか、と箱を開けて、が瞠目する。

「指輪、」

 が呆然と呟く。
 リュシオンはの前に跪き、左手を取る。小箱の中央に鎮座する指輪を、ほっそりとした薬指へとはめる。

「ひ、左手の薬指? 意味わかってます?」
「勿論だ」

 リュシオンはむっと眉を寄せたが、すぐに咳払いをして仕切り直す。

、私と結婚してほしい」
「……」

 ぽかんと開いた唇がおもむろに動く。
 しかし、が何かを言う前に、ケトルがけたたましい音を立てて沸騰を知らせた。ハッとして、が慌てて立ち上がる。

「お茶を」
「後にしろ。まず、返事を聞かせてくれ」

 の手からケトルを取り上げ、テーブルに置く。

「よ、喜んで……いやいや、でもいいんです? リュシオンは鷺の王子で、わたしなんて親なしですし」

 頬を紅潮させた顔は困惑に満ちており、が右耳の後ろを指で触れる。そこには小さな痣がある。ベオクとラグズの混血である証だ。
 リュシオンは小さくため息をついた。

「お前は変なところで気を遣う。私はを愛している、それだけで十分だろう」

 が照れているのか呆れているのか、よくわからないヘンテコな顔をする。

「変ではないでしょう。ほら、ネサラさんなんて絶対認めないとか言いますよ」
「知ったことか」
「ティバーンさんだって、いい顔しないかもしれませんし」
「馬鹿を言え。ティバーンには事前に了承を得ている」

 は、とが気の抜けた声を上げて、それから悔しそうに唇を引き結ぶ。
 しかし、左手の薬指に落とした眼差しは、やわらかく愛しさに満ちていた。の答えなど、リュシオンはとうに知っていた。

「それにしてもリュシオン、これは冬祭りのプレゼントではなく、プロポーズですよ」
「……そう言われると、そうだな」

 冬祭りはベオク特有の文化なのか、少なくとも鳥翼族には贈り物をしあう習慣も、家族や恋人と過ごす特別な日もない。
 ミストからその話を聞いて、リアーネはネサラと過ごす今日を楽しみにしていたし、リュシオンとも共に過ごすと約束を交わしたのだ。

 が後ろ手にリボンのついた袋を取り出し、リュシオンに差し出した。

「まさか指輪がもらえるなんて思ってなかったので、釣り合いませんがわたしからのプレゼントです」
「ありがとう」

 袋の中には毛糸の手袋が入っていた。リュシオンは手につけてみる。

「似合ってます。まあ、来年も一緒に過ごすでしょうし、冬祭りについてもっと教えてあげますね」

 悪戯っ子のように幼さの滲む笑みを浮かべて、が薬指の指輪にキスを落とす。
 リュシオンは手袋越しに、の右耳の後ろを撫でた。がはにかみ、瞳を伏せる。睫毛の先を見つめながら、リュシオンは唇を合わせた。もう、待ったはなしだ。

鈴の音が聞こえる

(私たちを祝福するように)