暖房が必要ないといわれる璃月でも、ときには冷え込むこともあるものだ。
ひゅう、と吹き抜けた風に、は首を竦めた。昼間はそれほど感じなかった寒さが、夜になるにつれて増し、指先がキンと冷えるような気がした。早く宿に戻ろう、とは足を速める。
テイワット中を旅するだが、モンド城で生まれ育った身体は寒さに弱い。ドラゴンスパインには滅多なことがない限り、近づかない程度には寒いのは苦手だった。
「か?」
ふと、かけられた声に足を止める。
「あなたは……鍾離さん」
はその名を口にしながら、とても不思議な気持ちになる。
鍾離と呼んでくれと言ったのは本人だが、彼はかの岩王帝君なのだ。本来なら、こんなふうに言葉を交わすことはおろか、姿を拝むことさえ難しい存在のはずだ。は風神バルバトスを敬愛している。それは各国の七神も同様だ。
「今夜は冷えるな。一杯どうだ」
「まあ、鍾離さんのお誘いは断れませんね」
くすりと笑って、手招きする鍾離のもとへは足を運んだ。
冷えるな、と言った割には、たいして寒そうでもない。冷たい風が吹きつけるせいか、三杯酔のテラス席には、鍾離の姿しかなかった。
「彼女にも同じものを」
そう言って、運ばれてきた酒を鍾離手ずから注いでくれるので、は恐縮した。
「すみません、いただきます」
土地が違えば、酒の味も異なる。当然ながら、璃月の酒はモンドのものは違う。はそうっと小さな盃を持ち上げて、口をつけた。
「おいしいです」
「そうか、口に合ったのならよかった」
ふ、と鍾離が笑みをこぼす。赤く彩られたそのまなじりが、やさしく細められる。
これが凡人を名乗るとは──鍾離は、どこを切りとっても美しい。その顔もスタイルも、姿勢や仕草、話し方ひとつとっても、凡人とは言い難い。
冷たい風に、片方だけの耳飾りが揺れる。はそれを見つめながら、ぎゅっと盃を握りしめた。
「ん? ああ、もしかして寒いのか」
鍾離が席を立ち、の肩へ自身の上着を掛けた。「鍾離さん、」慌てて返そうと上着に手をかけるが、鍾離の手が重なって阻まれる。
「俺は問題ない。少し待っていろ」
「え、あっ」
鍾離が席を離れてしまったので、はありがたく上着を借りながらちびちびと酒に口をつける。
上着のおかげか、アルコールが身体を回り始めたのか、寒さが和らいだような気がした。ふう、と吐いた息が白く靄となって立ち上る。それを見つめながら、は璃月に雪は降るのだろうかと考える。
「待たせたな」
コトン、と鍾離がテーブルに置いたのは、腌篤鮮だった。にはあまり馴染みのない璃月料理である。ホカホカと湯気が立っていて、は「まあ」と感嘆した。
「いただいてよろしいのですか?」
「勿論だ。お前のために用意したものだ。時間があれば、俺が作ってやりたかったんだがな」
「では、またの機会に是非」
いただきます、とはレンゲを手にとった。すくったスープにふうふうと息をかけてから、口にする。
「ん……とてもおいしいです! 身体が温まります」
「そうか」
もう一度すくってふうふうしていると、視線を感じては顔をあげた。鍾離の顔は明後日の方向を向いている。
見られているように感じたのは気のせいだったかな、とはスープをすすった。温かいスープが食道を流れていって、身体中に染み渡る心地がした。
「あっ、すみません、わたしばっかり。鍾離さんもお食べになりますよね?」
「いや、俺はいい。腌篤鮮ならいつでも食べれるし、寒くもないからな」
首を横に振って、鍾離が盃を傾ける。
「でも……あ、上着をお返ししますね」
「いや」
寒くないと言う言葉がにわかには信じがたく、は上着を返すために腰を浮かせた。しかし、鍾離がまたも首を横に振ったので、は困惑しながら座り直す。
元、神様の身体のつくりは、たちとは違うのだろう。やはり凡人とは程遠い。
はそう思うことで、自分を納得させる。そうでもしなければ、鍾離の優しさに甘んじれない。
「そうしていると、お前が俺のものになったようで気分がいい」
ずり、と肩から上着が落ちそうになって「おっと」と、鍾離の手が伸びる。は呆然と、近づく琥珀色の瞳を見つめた。
「だから着ていろ」
上着を肩に掛け直した鍾離が、満足げに微笑む。
「そ、それは、」
「ん?」
「いえ……」
とんでもない殺し文句なのでは、と思ったが口にしたら藪蛇になりそうで、は曖昧に笑った。誤魔化すためにもレンゲを口元へ運ぶ。
ふう、と息を吹きかけると白い吐息が湯気と共に消えていく。ちらりと鍾離を見やると横目でこちらを見て、笑っていた──動揺して、は慌てて口にしたスープで舌先を火傷してしまった。
「っ、ん」
「どうした?」
「いえ、なんでも」
ありません、と答えようとした言葉が途切れた。鍾離が身を乗り出して顔を覗き込みながら、の口元へ指を這わせる。
「だいぶ、温まってきたようだな」
すり、と指先が頬をひと撫でして離れていく。はその指先を視線で追いかけながら、鍾離が触れたところを手で押さえた。確かに頬は熱を持っているのに、手のひらに伝わる温度はほとんど変わらない。
あれだけ指先が冷えていたはずなのに、とは瞳を瞬いた。
「この腌篤鮮然り、この酒然り、お前はまだ璃月を知らないだろう。璃月のいいところを知って、好きになってもらえたら嬉しい。いつか、モンドよりも璃月に帰りたいと思うほどに」
顔の熱がちっとも引いていかない。そんな言い方はずるい、と心の中で呟いて、は俯いた。
「ほら。冷めないうちに食べるといい」
「……鍾離さん」
すい、とレンゲを差し出されて、は当惑した。責めるように見つめてみても、鍾離は微笑んだまま頑なにレンゲを下げようとしない。しばし見つめ合った末に、は根負けして口を開いた。
レンゲが優しく口に運ばれる。
鍾離がそのまま二口目をすくおうとしたので、は慌ててその手を止めた。
「じ、自分で食べれますから」
「そうか?」
「……もう、意地悪しないでください」
がふいと顔を背ければ、鍾離が小さく声を立てて笑った。
「店主、勘定を頼む」
そう言って、立ち上がったその姿はとてもスマートだったが、懐に手を入れたところでふと鍾離が動きを止めた。腕を組んで、指先を顎に添える。
「ふむ……モラがない」
「まあ」
元より、鍾離に奢らせるつもりなど毛頭なかったは財布を取り出した。「ああ、すまない」と、口にしながらも鍾離には少しも悪びれる様子がないので、はくすりと笑ってしまった。
「……お前の笑った顔をようやく見ることができた」
鍾離が噛みしめるように呟いて、嬉しくてたまらないというふうに笑みをこぼす。
は思わず、手にしたモラを落としてしまった。
「」
モラを拾い上げた際に、肩から借りた上着が落ちそうになって、鍾離の手が伸びてくる。ぎゅ、と襟を引き寄せて、ぱちんと留め具を止めてしまう。
「お前が風邪を引くかもしれないからな。着ていくといい」
「でも……」
「こんな時間までつき合わせてしまったのは俺だ」
じっと見つめる琥珀色が有無を言わせず、は小さく頷いた。
「洗ってお返しします」
「ああ。今度は、明るいうちに璃月を案内しよう」
鍾離の指が、自然な仕草で頬を撫でる。のもたついた指がモラを離してしまうより早く、ぎゅうと鍾離の手が包み込んだ。どうやら、が風邪を引く心配はなさそうである。