士官学校時代には、名前や姿こそ拝見していたが、一言だって言葉を交わしたことはなかった。学級も違えば、立場も大きく違っていたのだから、当然といえば当然である。
不思議だな、と伏せられた長い睫毛を見ながら、はつくづく思う。の手を包み込むこの大きな手は、槍を握ってその切っ先をに振るわんとしていた。凶刃に倒れなかったのは幸運と呼ぶほかない。そう思うほどに、人を殺すことを躊躇していなかった。彼の目には、など映っていなかった。学生の時と同じように──
ディミトリの前髪を掬って、閉じた瞳の隈を指先で優しくなぞる。ディミトリはぴくりとも動かない。あまりに静かな呼吸は、眠っているのか不安になるくらいだった。
寝台のすぐ傍で膝をついていると、足元から冷たさが這い上がってくるようだった。帝国で生まれ育ったは、ファーガスの冬がこんなにも寒いと知らなかった。
肩にかけているショールを引き寄せて、は小さく息を吐いた。そうっとディミトリの手を外す。
いつも、この瞬間は緊張する。目を覚まさないように慎重に、ディミトリの指を持ち上げて、はそろそろと手を引き抜いた。ディミトリの睫毛は動かない。指先にも力はないままだ。
こんなふうに、人前で安心しきった姿を見せることがあるのか、といまだに信じがたい気持ちだ。それも、己の前で、ということがますます不可解である。
お前が傍にいるときだけは、よく眠れる。
シルヴァンのお得意の誘い文句みたいだったのに、ディミトリには一切の下心がなかったのが可笑しい。あまりに真剣な目をしていたので、は緊張に何も答えられなかったくらいだ。ふふ、とその時のことを思い出して、は小さく笑いながら立ち上がる。
王族らしい広い寝室の窓辺に寄ると、冷たい空気を感じた。分厚いカーテンをすこし捲って、外を見やる。雪が降ってきているようだった。
経験したことのない寒さに身震いして、はカーテンを元に戻す。
いつまでもここにいるわけにはいかなかった。戦場で恩師に再会したことをきっかけに、は帝国軍から旧王国軍に身を置くことになった。昨日の敵は今日の友とはよく言ったものだ。
手紙のやり取りこそすれ、もう何節も親とは顔を合わせていない。ここよりずっと暖かい場所で、の帰りを待っているはずだ。
「……身体が冷えるだろう」
静かな寝室に、静かな声が落ちる。
衣擦れの音は聞こえなかったが、天蓋の向こうでディミトリが身体を起こしていた。
「ごめんなさい。お暇するところだったんですが、起こしてしまいましたね」
「いや、お前のせいでは……」
ディミトリがゆるくかぶりを振る。
こっちへ、と招かれるままに、は寝台へと近づいた。
ディミトリの手がの頬に触れて「やはり冷えている」と、眉をひそめた。ため息を吐きながら、肩からずり落ちていたショールを直してくれる。
「帝国とは違うんだ。風邪を引くだろう」
「平気ですよ。行軍で鍛えられたせいか、とても丈夫になったと思います」
はあ、とディミトリがもう一度ため息を吐く。
「、傍にいてくれるのはありがたいが、せめてお前もベッドに入ってくれ」
「ええっ? そ、そんなこと、できませんよ」
「誓って何もしない。本当にただ横にいるだけでいい、それだけで俺は十分だ」
ディミトリの隻眼がゆっくりと瞬く。
目が冴えてしまったかと思ったが、眠気がまたすぐにやってきたようだ。刻まれていた眉間の皺も和らぐ。
「殿下、とりあえず横になってください」
「すまない。お前がいると……」
の言う通り、ディミトリが再び寝台に身を沈める。
「安心する……」
口の中で呟くように、ほとんど消えそうな声が告げた。ディミトリの瞳はすでに閉じられていた。
帝国との戦争は終結し、ディミトリはファーガス神聖王国の王位を正式に継承した。そのため、正確にはもうすでに殿下ではない。陛下と呼ぶべきなのだが、は昔からずっと、青獅子の学級の皆が呼ぶように殿下と呼び慕いたいと思っていた。
「おやすみなさい、殿下」
国王となったディミトリには、ゆっくり休める時間は少ない。主人の疲労を見かねて、ドゥドゥーが時々こうしてに傍にいてほしいと頼むのだ。
この寝顔を見るのが自分だけだったらいい。
そんな気持ちに蓋をするように、は目蓋を下ろして息を吐いた。
士官学校では学業に専念することよりも、人生の伴侶を見つけることを両親には期待されていた。いまもなお、はその期待を裏切り続けている。
すこしだけ胸が痛い。
両親からの手紙を読んだ後は、いつも申し訳ない気持ちになる。
「いい縁談かぁ」
共に戦った仲間たちも愛を育み、結ばれた者もいる。残念ながらには縁がなかった。貴族に生まれたのだから、いずれは貴族の子息と結婚するのだろうと思いながら、いつの間にかこんな年齢だ。
焦る気持ちがないのだけは幸いだ。
「……女々しいな」
五年も経つというのに、まだ同じ人の背中を見ている。
冬の季節になると思い出す。大広間に流れる音楽と、それに合わせて踊る生徒たち。そして、女神の塔の伝説。
は女神の塔に呼び出すことなんてできなかったし、踊ることすらできなかった。
だって、わかっていたのだ。
いずれは王位を継ぐような手の届かない存在であることを、は知っていた。その姿を目で追えるのは士官学校で過ごす一年だけだということを、は理解していた。
はあ、と無意識にため息が漏れる。
「浮かない顔をしてどうした?」
「わっ、で、殿下」
ディミトリの背後に控えるドゥドゥーが、眉間に皺を寄せる。は慌てて「ディミトリ陛下」と、言い直した。
「呼び方なんてどうとでもいいだろう。誰が聞いているわけでもないんだ」
「そういうわけにはいきません。それに、は誰かが聞いている前でも殿下と口にしそうだ」
う、と言葉に詰まるを見て、ディミトリが肩を叩いてくれる。
「はは。俺は構わん、そう気に病むな」
「いえ、気をつけます……」
ドゥドゥーの言う通り、うっかり口走りそうである。いつまでも級友のような態度ではいられない。
「それより、」
ディミトリの言葉が途切れる。
訝しんで顔を上げたは、ディミトリの視線が手元に落ちていることに気づく。広げたままだった両親からの手紙を手で隠してみるが、時すでに遅しである。
「そうか。いつまでも、ここに留まるわけにもいかないよな」
縁談話にどう答えるべきか返事を考えあぐねるうちに、帰宅を促す手紙が届いたばかりだった。
戦争が終わってからは、ガルグ=マク大修道院で先生の手伝いをしたり、修繕に勤めたりしていたが、ドゥドゥーに請われてファーガスに来た。
「今すぐに、というわけでは!」
「無理はしなくてもいい。まさかとは思うが、一度も家に帰っていないのか?」
「……なんていうか、気まずくて」
帝国貴族でありながら、旧王国軍としてアドラステア帝国と戦うことになってしまった。には、後ろめたいような気持ちがずっと付いて回っている。
ディミトリが呆れたと言わんばかりに、深いため息を吐いた。
「早く帰って、顔を見せてやれ。俺のことなど気にしなくていい」
を思っての言葉だとわかる。ディミトリの顔を見ることができずに、は曖昧に笑って頷いた。
月明かりが差し込む廊下は、ひんやりと冷たい。風邪は引かないと豪語したが、それも怪しい。は小さくくしゃみをして、腕をさする。
眠れない。
安眠効果のあるハーブティーでも、と思ったがよけいに目が冴えてしまいそうな寒さだ。足早にキッチンへ向かう途中、ぼんやりと浮かぶ人影を見つけて、は小さく息を飲んだ。ガルグ=マク大修道院ほどではないが、夜の王城も得体の知れない恐ろしさがある気がする。
「……?」
ぽわ、と心許なさを感じる揺れる灯が持ち上がる。
「で、……陛下」
「こんな時間にどうした」
「陛下こそ、こんな時間までお務めですか? ドゥドゥーが心配する気持ちがわかります……」
は近くに駆け寄ると、背の高いディミトリを見上げた。橙色に照らされたディミトリの顔色は判別できないが、苦笑を零しているのはわかる。
「もう! 早くお部屋にお戻りください。陛下こそ風邪を召されますよ」
「、ドゥドゥーの言ったことは気にしなくていい」
背を押して急かすが、ディミトリがその場から動くことはなかった。
腰を屈めて目線を合わせてくる。距離が近づいて、互いの顔がよく見えた。頬に差す赤みが寒さのせいではないと気づかれてはいけない、とはすこし顔を伏せた。
「……殿下、いつまでも廊下にいるわけには」
「ああ、それもそうだな」
ディミトリの手が、の手を引いた。通い慣れたディミトリの寝室への道を進んでいることに気づくが、の足は導かれるまま止まらない。
繊細な装飾が施された大きく重厚な扉が開いて、暖炉で暖まった寝室に迎えられる。
「」
ディミトリの手が離れる。足元ばかりを見ていた視線を上げたが、の視界はぶれてディミトリの顔を見ることは叶わなかった。
拘束されているのかと思うほど、力強い抱擁だった。
「で、殿下? うっ、く、くるしい」
「す、すまない! どうも力加減がわからないな……これなら、大丈夫か?」
一度身を離したディミトリが、慎重に腕の中にを収めた。
「大丈夫ですけど、えっと……抱き枕ですか?」
羞恥と緊張をごまかすために、はわざとおどけて言った。ディミトリが、の耳元でため息を吐いた。吐息が触れて、の背がざわめく。
「悪いが前言を撤回する」
前言、とはディミトリの腕の中で、ぼんやりとおうむ返しに呟く。こんがらがった頭では、理解が及ばない。
「昼間は最もらしいことを言ったが、本音はこれからも俺と共にあって欲しい」
「えっ?」
「何もしないと誓っておきながら、すまない。本当は、ずっとこうしてお前に触れたかった」
「え、え? ええ!? 殿下、寝ぼけて……」
ぎゅ、と腕の力が強まる。
は口を噤んで、大人しく身を預けた。
「……好きだ、」
ディミトリの声が耳元に落ちる。混乱しながらも、は様々なことを考えた。ファーガスとアドラステアの関係、国王陛下とかたや一貴族、ドゥドゥーの怒っているのか怒っていないのかわからない顔と小言、恩師の無表情ながらもやさしい眼差し、そして伝わるディミトリの体温と鼓動──
「いや、忘れてくれ。俺には、お前と共にいる資格など」
「わたしは! ……五年前からずっと、あなたが好きです。でも、声すらかけれなかった。住む世界が違うと思ってたから」
ディミトリの腕が緩んで、顔を覗き込まれる。「本当か?」と、問いかけるディミトリの声がかすかに震えていた。
はそろりと視線を上げた。
「わたしだって、殿下に触れたくて堪らなかった。もっと言うなら、女神の塔に呼び出したかったし、舞踏会で一緒に踊りたかった!」
「……はは、それは知らなかったな」
どうせなら、と思いの丈をぶつけると、ディミトリが脱力したように笑った。「そうか、そういえば舞踏会の時期だったな」と、懐かしむようにやさしく目を細める。
「今からでも遅くはないだろう?」
「……十分、遅いと思いますけど。だって、五年ですよ、ごね──」
不服げに尖らせた唇は、ディミトリによって塞がれて文句も言えやしない。
途端に勢いをなくし、は真っ赤な顔を俯かせる。熱を帯びた頬を、ディミトリの手のひらがやさしく包んだ。
「これからは、殿下も陛下もなしだ。いいな?」
答えなどいらないというように、が何かを言う前に唇は再び重なった。