よく知った気配と足音だったが、アイクはすぐには彼女と認識できなかった。いつもの重たげな白いローブ姿ではないせいかもしれなかった。一度向けた視線を、確かめるためにもう一度向ける。
廊下の端を小走りに駆けていたが歩調を緩めて、顔を上げる。
「わあっ、アイクさん!?」
丸く見開かれた瞳がアイクを映し、それから慌てたように視線を彷徨わせる。
真っ赤な衣装には見覚えがあった。この季節、冬祭りを楽しむシャロンや英雄たちが身に纏っている。の頭には先の垂れた赤い三角帽子、足元は赤いロングブーツで彩られている。
上から下まで視線をやって、アイクは思わず眉をひそめて目を逸らした。
「い、いやこれは、シャロン王女に無理やり……うう、恥ずかしい」
帽子を目元まで引き下げて、が赤い顔をうつむかせた。
サーリャに比べれば布面積は多いし、セシリアのように胸元が大きく開いているわけではない。しかし、ぴったりとしたスカートは腰から臀部にかけてのラインをあらわにしていたし、短い丈のせいで柔らかそうな白い太ももが見えてしまっている。
「、来い」
の腕を掴んで、アイクは足早に歩き出す。まばらな足音を鳴らして、よろめきながらが付いてくる。ほとんど引きずるのと変わりなかったかもしれない。
「アイクさ……」
幸にして、廊下に人気はなかった。アイクは無言のまま、が向かっていただろう彼女の執務室の扉を開け放つ。アルフォンスもアンナの姿も見えない。を押し込むように部屋に入れ、扉を閉める。
つんのめったが机に手をついた拍子に、重なっていた書物が均衡を崩して床に散らばった。
「ああっ、傷ついたりしたらアンナさんに怒られる~」
が床に膝をつき、慌てて拾い上げる。前屈みになるとスカートがずり上がって、危うく下着が見えそうで「待て、俺が拾う!」と、アイクもまた慌てた。
「す、すみません……」
しゅん、と萎むように身を竦めて、が脇に逸れた。
無愛想である自覚はあるし、言葉足らずであることもわかっている。だが、気の利いた言葉の一つも出てこなければ、笑いかけることもできなかった。眉間に皺が寄ってしまう。
「その格好は、いくらなんでもどうかと思うが」
「そ、そうですよね、わかります。英雄の皆さんは、背がすらっとしててスタイルも良いし、何を着てもお似合いですけど」
「似合う似合わない問題じゃないだろう」
「え……」
ため息をつきながら、アイクは机の上に落ちた書物を乗せる。振り向けば、不思議そうな顔がアイクを見ていた。
「えーと、指揮官が浮かれた格好では示しがつかないとか……?」
が首を傾げる。
この召喚師は、他者にはよく心を砕いて親身になってくれるが、自分のことは蔑ろにしがちだ。朴念仁と言われるアイクに負けないくらい、は鈍感なところがある。
──それとも、英雄から向けられる好意は全て、召喚の影響によるものと考えているのだろうか。
「……アイクさん?」
距離を詰める。が後退りして、壁に背をぶつけた。
の顔の横に片手をついて、もう一方の手を腰元に伸ばす。びくっと跳ねた身体はしかし、それ以上は逃げることなど不可能だった。
手をわずかに下げるだけで、剥き出しの太ももに触れる。
「そんな格好で、警戒もしない。襲われても文句は言えんぞ」
「お、襲われ……」
スカートの端に指を引っ掛ける。の顔が見る間に真っ赤に染まって、わずかに潤んだ瞳がアイクを見つめる。この期に及んで、そこに恐怖心など見出せなかった。
アイクは思わず吐きそうになったため息を飲み込んで、外套の留め具をパチンと外す。それをぐるりとの身体に巻きつけて、赤い服装を隠してしまう。
無論、目に毒だった太ももも覆い隠されている。
「もう少し、危機感を持ったほうがいい。英雄が召喚師に手を出さない、とは限らないだろうしな」
あり得ないことではない。英雄から召喚師に向ける好意が、弾みで情欲に変わったって可笑しなことではない。英雄と呼ばれながらも、軽薄そうな男はごまんと居る。
がアイクの外套を指先で摘んで引き寄せる。
「アイクさんは?」
の顔はうつむいていて、どんな表情をしているのか見えない。
質問の意味がわからずに、アイクはむっと眉根を寄せて首を傾げる。どういう意味だ、と言いかけた唇は、中途半端に開いたままに終わる。
上げられた顔は、先ほどよりもよほど赤かった。
「アイクさんは、手を出しませんか?」
ごくり、と音を立てて喉仏が上下する。握り締めた拳にじわりと汗が滲むのがわかった。アイクを見上げるの瞳が、揺れる。
「後悔しても知らんぞ」
贈り物のリボンを解くように、巻きつけたばかりの己の外套を取り払う。現れた赤い装いは、熟れた果実のようだった。
せっかく拾い上げた書物がまた床に転がっている。
いつもの白いローブ姿のが、器用にその隙間を縫って窓に近づく。すこしだけ窓を開けて、が振り向いた。室内に冷気が流れ込んでくるが、それほど不快ではないのは、部屋に熱気がこもっているせいだろうか。
「アイクさん、雪が降ってます!」
の傍に寄り、アイクも窓の外へ視線を向ける。ふわふわと雪が舞い落ちている。
「積もりますかね?」
「どうだろうな。すぐに止みそうだが……」
見上げた空は、雲の切れ目から陽射しが降り注いでいる。舞い散る雪が、キラキラと輝くように見えるのはそのせいだ。
の吐き出す息が白い。
アイクは窓を閉めて、を抱き寄せた。「風邪を引く」と、尤もらしいことを言ったが、ただもうすこしくっついていたかっただけだ。が小さく笑って、素直に身を寄せてくる。
「思わぬクリスマスプレゼントだったな……」
小さく呟く声が聞き取れずに、アイクは顔を覗き込む。
「あ、何でもないんです。そうだ、あとで外に出ませんか? あまり雪の降らないところに住んでいたので、雪が降るとなんだか嬉しくなるんですよね」
ふふ、と緩んだ頬に手を這わし、アイクは唇を奪った。こつり、と額を合わせて近距離で視線を交わす。
「構わない。だが、まだもう少し、このままで頼む」
「……はい、わたしも同じ気持ちです」
恥ずかしそうに顔を伏せたのうなじに、真っ赤な衣装の名残りのように鬱血痕が刻まれていた。
太陽が陰る。視界はすこし暗くなったが、アイクは眩しげに目を細めた。