弱肉強食というのは、真理だ。
 尾形のあとに続く、土を踏みしめる足音は覚束ない。時おり、何かを思い出した様子で掴んだ手が握り返される。俯いたまま終始無言でいるに対して、思うところがないわけではないが、尾形はわざわざ口を開く真似はしなかった。
 軽口を叩く気にもならないし、詰問するような心づもりもなければ、慰めるつもりなど更々なかった。

 重なる手のひらにはべとりと血が付着している。それを不快に感じようとも、この手を離すわけにはいかなかった。そこに彼女がいないのではないか、と馬鹿馬鹿しくもそんな風に感じるほどに、の気配が希薄なのだ。

 着物はのものではない血で汚れ、乱暴に掴まれたせいでところどころ破れてしまっている。尾形は己の外套を被せることですべてを覆ったが、それでどうにかなる有様ではなかった。を襲ったのはそこいらの暴漢だ。刺青人皮など何の関係もない破落戸は、恐らく女を売り飛ばそうとしたのか、良いように性の捌け口にしたかったのか定かではない。死人に口なしである。
 尾形にとってみれば、破落戸をぶっ飛ばすことなど造作もないことだ。しかし、地に伏したを見たとき、拳よりも先に短剣を手にしていた。派手に血を被ってしまったのはそのせいである。

 ──我ながら、いつになく執着している。尾形は唇を歪めた。

 尾形は足を止めて、を振り返った。女ののろのろとした歩みが止まって、これまたのろのろと面を上げる。伏せられていた瞳がようやく尾形を見た。
 泣きも喚きもしない。そのほうが余程不気味だ。

「……尾形さん」

 久方ぶりに聞いたその声は、微かに掠れていた。

「どうして、助けてくださったのですか?」
「俺を何だと思っているんだ?」
「だって、尾形さんはわたしを快く思っていらっしゃらない」

 確かに銃口を額に突き付けたことは、記憶に新しい。「さあ、どうだろうな」くつりと喉の奥で低く笑って、尾形は肩をすくめた。

「チョコレートの礼だと思えばいい」

 尾形は素っ気なく告げると、再びの手を引いて歩き出した。女が再び俯いたが、そこには確かな存在感があった。

「意地悪なのか、やさしいのか、わかりません」

 困惑したように呟いて、が手を握り返した。この小さな手を尾形は知っている。

「助けてくれて、ありがとうございました」

 その声は震えていたが、尾形は気づかぬふりをして振り返らなかった。



「のこのこ男の部屋に上がるな、と忠告したはずなんだがな」

 髪を撫でつけながら、尾形はため息交じりに告げた。
 血色のいい頬をしているが、着物で隠れた部分には青痣でも残っていることだろう。顔を傷つけまい、という破落戸の浅知恵が幸いだ。

「……どうしても、もう一度きちんとお礼を申し上げたくて」
「それはまあ律儀なこった」

 気丈な女である。あんな目に合ったのに、尾形が近づいても怯えをおくびにも出さない。尾形を見上げる瞳が伏せられることもない。
 腕に抱えた尾形の外套をぎゅうと握りしめて、が頭を下げる。

「本当にありがとうございました」
「チョコレートの礼でいい、と言っただろう」

 ふん、と尾形は鼻を鳴らした。
 いつかと同じように壁際に追い詰めようとも、が恐怖に震えることはなかった。す、と指先で頬を撫でると、ぴくりと睫毛が細かく震える。

「それとも、この間の続きでもお望みか?」

 小さく結ばれた唇を親指の腹で軽く押せば、そのときのことを思い出したのか、の頬が赤みを帯びた。しかし、何も言い返しては来ない。尾形は軽く肩をすくめる。

「隙が多すぎる」

 これではいくら杉元やアシパに守られていようとも、尾形が目を光らせていようとも、今後も同じようなことが続きそうである。
 気丈に見えていようとも、平気なわけがないということくらい、尾形にはわかっている。傷つけて、いたぶるような気分ではなかった。むしろ、あの光景を思い出すと反吐が出る。

 の手から外套を奪い取って、背を向ける。これ以上ちょっかいを出すつもりはなかった。けれども、ひどく控えめにの指先が尾形の服の裾を掴んだ。

「尾形さんなら、構いません」
「…………」
「ひどい嫌悪感でした。女である身を恨みました。でも、尾形さんに触れられたとき──

 が迷うように唇を結んで、不安そうに尾形を見上げた。
 チョコレートの礼が思わぬ礼で返って来た。尾形はふ、と鼻で笑い飛ばすと立ち尽くすの腕を掴んだ。素早く錠をして、ひどく軽い身体を寝台へと放る。
 尾形を見つめる瞳には、やはり怯えなどは一切見受けられない。この女は馬鹿なのか。

「今さら、泣いても喚いてもやめられないぞ」

 の身体に覆いかぶさると、甘い金木犀の香りがした。

これはほんもの

(貪るような唇が、触れる)