何もセインばかりに非があるわけではないと、頭ではわかっている。それにしたって、あまりにも無神経ではないだろうか。
美しいやら可愛いやらと、挨拶のように口から飛び出るのは、もう慣れっこである。
あれはセインの悪癖ではあるが、もはや性質と言っても過言ではない。
女性から感謝の気持ちや、愛を込めて菓子を贈る日──も例に漏れず、セインに焼き菓子を用意していた。
けれども「いやあ! 皆さんの愛がこんなにたくさん、俺は幸せ者ですね」と、浮かれるセインが目に入り、は閉口してしまった。仮にも恋人がありながら、他の女性からもらった菓子をひけらかすなんて、セインの頭はとことんお花畑である。
サカの民らしい血が騒いで、思わず頭にカッと血が昇った。反射的に握りしめた手のひらの中で、手作りした焼き菓子がぐしゃりと潰れる。
にやけたその横っ面を思い切り引っ叩いてやりたい気持ちを、は拳を握って抑えつける。
「セイン、いい加減にしないか」
セインの言葉を聞き流していたケントが、眉間を押さえてため息を吐いた。
「何だ、ケント? 俺より数が少ないからって、妬むなよ」
「……数など重要か?」
やれやれ、というようにケントがかぶりを振る。
「まったく、浮かれるのも程々にしてくれ」
はセインとケントに気づかれる前に、その場をそっと離れる。
とてもじゃないけれど、セインと顔を合わせる気にはなれなかった。手を開くと、焼き菓子が無残な姿になっていた。
粉々になった焼き菓子を、一人さみしく平らげて、は大きくため息を吐く。
セインの浮かれように腹が立って仕方がないが、それ以上に素直になれない自分にうんざりする。
普段から、好きだの愛してるだのと口にするのは、セインばかりだ。いつも恥ずかしくてうまく答えることができないからこそ、こんな日くらいはから愛を伝えたかった。
それなのに──ぐ、とは唇を噛みしめる。
こんなはずではなかった、とセインと恋仲になってからは、よく思う。
セインには自分だけを見ていてほしい。そんな嫉妬心が、の心を醜くさせる。
「……可愛くないなぁ」
は小さく呟いて、自嘲の笑みをこぼした。
皆さんの愛がこんなにたくさん、と言ったセインのそれは、ただの軽口だとわかっている。けれど、他のひとからの”愛”なんて、受け取ってほしくないと思ってしまうのだ。
くだらない意地みたいなものが邪魔をして、は結局セインに”愛”を渡すことができなかった。
それどころか、顔を合わせるたび反射的に逃げ出してしまって、ここしばらくまともに口を利いていない。そのせいで、また何かしたのだろうとセインを責めるような空気が、次第についに破局したのではというものに変わってしまっていた。
こんなはずではなかった、とは強く思いながら項垂れる。
明日こそはこれまでのことを謝って、いつも通りに。そう思って、もうあの日から一ヶ月が過ぎてしまった。
セインが話したがっているのはわかっている。
周囲も気を遣って、仲を取り持とうとしてくれているのもわかっている。
早く何とかしなければと思えば思うほど、あの日の腹立たしさや悔しさがよみがえり、セインと向き合う勇気がなくなっていくような気がした。
このままでは、セインに嫌われてしまうかもしれない。
「さん」
はっと顔をあげたときには、はセインの腕の中にいた。
状況が理解できずに、抵抗することもできなかった。「やっと捕まえた」と、セインが腕の力を強めながら、安堵のため息を吐きながら呟く。
この腕のぬくもりも、頬に当たる鎧の硬い感触も、鼻先に触れるにおいも、はよく知っていた。
「……今日こそ、逃がしませんよ」
セインが珍しく真面目な顔をして、真面目な声音で告げる。
は驚いて、思わずじっとセインを見つめた。
「すみません。あまり、手荒な真似はしたくなかったんですが、さすがに俺も限界で」
「…………」
「だって! 一ヶ月ももうまともにさんの顔を見てないんですよ? 愛しいさんがすぐそこにいるのに、声も聴けない、触れることもできない。耐えられるわけないですよ!」
はセインを見つめたまま「愛しい、」と、ぽつりと落とした。
「まだ、そんなふうに思ってくれるの?」
「当たり前です! さんは、俺がどれだけあなたを愛しているのか、わかっていなかったんですか?」
に逃げるつもりがないとわかったのか、セインが腕を緩めて顔を覗き込んでくる。
セインの瞳が柔らかく細められる。
「愛しています」
それはおよそ一ヶ月ぶりになる、愛の囁きだった。
セインが事あるごとに思いを告げてくるので、いつもは照れ臭くなって「知ってる」「わかってる」としか言えなかった。
はきゅっと唇を結ぶ。
まなじりに力がこもるのは、怒りのためではなく、こみ上げる涙を抑え込むためだ。
「わたしも、セインさんが好き」
情けなく、声が震えてしまった。きょとんと瞳を丸くしたセインが、瞬きののちに、破顔一笑した。
「よかった! ついに俺はさんに嫌われてしまったのかと」
「嫌いになんてならないよ」
「……じゃあ、何故俺を避けていたんですか?」
セインの声がわずかに沈む。
「それに、俺はさんからお菓子をもらっていません」
どくん、と心臓が大きく音を立てて跳ねた。セインが他の女性から菓子をもらって喜ぶ姿が思い起こされて、そのときの醜い気持ちがわっと湧いてくるようだった。
の目尻に滲んだ涙を、セインの指先がやさしく拭った。
「だって、セインさんは」
顔を合わせれば、ひどい言葉をぶつけてしまうとわかっていた。そんなことはしたくない。こんなこと言いたくない。
でも、セインのことが好きだからこそ──
「他のひとに、たくさんもらって、幸せ者だって言っていたじゃない。わたしから一つもらえなかったくらい、何でもないでしょ」
「み、見ていたんですか」
「ケントさんより多くもらえたんでしょ。よかったじゃない。わたしが作ったものより、きっとずっと美味しいでしょうし」
言葉が止まらない。涙も止まらなかった。
「わたしだって、こんなふうに思いたくないよ。だって、女性にやさしくて、女性を褒めたたえるのがセインさんなんだもの。でも、それでも、セインさんにはわたしだけ見てほしい」
はセインの顔を見る勇気がなくて、ぎゅっと目を瞑った。ぽろぽろと涙が落ちる。
「あー……可愛いなあ、さん」
セインの腕が再びを包み、柔らかい声は耳元で響いた。
どこが可愛いというのだ。嫉妬して、変に意固地になってしまって、子どものように泣きじゃくってしまう面倒な女だ。
言いたいことは言葉にならず、嗚咽ばかりが漏れてしまう。
「不安にさせてすみません。でも俺が愛しているのは、さんだけですよ」
ちゅ、と目尻に口づけが落ちる。
はおもむろに瞳を開けて、そろりと視線を上げた。
「好きも、愛してるも、さんだけにしか言ってません」
つまり、可愛いや綺麗はやはり、セインにとってそれほど特別ではないのだ。
セインの親指が目尻を這う。「さん」と、囁く声に従って、は瞼を下ろした。
「俺、さんからもらえるお菓子、めちゃくちゃ楽しみにしていたんですよ」
少しだけ恨みがましい言い方をしたその唇が、の口元に迫る。ふ、と吐息が触れる。「俺からの愛は、受け取ってくださいね」と、言葉とともに唇が重なった。
「いやあ、軍師殿に相談して正解でした!」
先日までの落ち込みようとは打って変わって、セインが晴れやかな笑顔で告げる。その手には、クッキーの入った可愛らしい包みを持っている。
「これはさんからの俺への愛なんで、軍師殿にも差し上げるわけにはいかないんですよ」
頬を緩ませるセインに対し、ケントが深くため息を吐く。「それが拝謝する態度か」と、剣の柄で強めに小突いているが、セインの頬は緩んだままだ。
さんが俺を避けるんです、と泣きそうな顔で言った人物と同一とは思えない。
ケントの言う通り、礼を言っているようでただとの惚気を聞かせているだけに過ぎないようだが、丸く収まったのならそれでよいだろう。セインとの連携がうまくいかないと、多大な戦力低下に繋がる。
と、軍師的な思考を言えばそれまでだが、二人の関係がぎくしゃくしたことでみんなの雰囲気も穏やかではなかった。
「……まったく、懲りないな」
呆れたように言うケントの顔も、少し緩んでいる。
「あっ、セインさん! やだ、あんまり上手じゃないんだから、見せびらかさないでって言ったのに」
「いやいや、そんな勿体ないことができるわけないじゃないですか」
「セインさんっ」
見慣れた光景が戻ってきたことに、ほっとしているのは本人たちばかりではない。
セインのムードメーカーには助けられている部分も多いのだ。それだけで十分、礼など不要なくらいだ。
ふ、と軍師の口元も自然と緩んでいた。