いつもより目線が高い。振動で狙いがぶれる。弓をつがえた途端に、ブルルっと鼻を鳴らして馬が不機嫌そうに身体を揺らす。振り落とされないよう、は慌てて手綱を握った。
 馬が次第に落ち着きを取り戻していくのを感じて、は安堵のため息を漏らす。ぐっと手綱を引けば、の指示通りにきちんと馬が足を止めた。こうして普通に乗馬するだけならば何の問題もない。弓を引くときに変に力んでしまうのか、バランスを取ろうと重心がずれるのか、いまだは馬上で矢を放つことができなかった。

「大丈夫?」

 軽快な蹄音とともに、クリスが駆け寄ってくる。
 同時期に馬に乗る練習を始めたのに、彼女はもはや自分の足のように乗りこなしている。クリスとの差をつくづく実感する。才能、努力、実力──近衛騎士とただの騎士の差は、確かに存在しているのだ。

「はい、平気です」
「うーん、やっぱり剣や槍とは勝手が違うのね。ルークたちに教わるのも限界がありそうだし」

 アリティア騎士として、マルスのために日々精進を重ねるのは当たり前のことである。機動力に優れる馬を扱えるようになれば、進軍も素早く進められ、よりお役に立てる。弓を得手とするには、今さら剣を振って戦うような筋力がない。
 馬から降りて鹿毛を撫でていると「そうだ!」と、ふいにクリスがぽんと手を叩いた。

「ウルフ殿かザガロ殿に力添えしていただいたらいいんじゃない?」

 妙案だとばかりに満足気にクリスが頷くが、は不安に顔を曇らせる。分け隔てなく誰とでも親しいクリスと違って、はどちらかといえば内気で人付き合いが苦手だ。しかも、狼騎士団の彼らには、わざとではないとはいえクリスお手製鋼味焼き菓子を渡してしまった手前、合わせる顔がない。




 愛馬を連れ立ったザガロの顔に笑みはなかったが、かといって嫌そうではなく、穏やかな雰囲気を纏っていた。ウルフではなかったことに内心でほっとして、は丁寧に頭を下げた。

「お手数をおかけしてすみません。ご指導よろしくお願いします」
「畏まらなくていい」

 ふ、と微かにザガロの口角が上がる。
 そうして、の馬へと近づいて、鼻先を撫でる。その眼差しがあまりにやわらかくて、に向けられたものではないのに、思わずどきりとする。

「馬上で弓を引けないと聞いたが、馬に乗ることはできるんだな?」
「は、はい」
「では、少し駆けよう。付いてきてくれ」

 当たり前のことなのだが、ザガロが慣れた様子でひょいと馬に跨る。もそれに倣って鞍に足をかけるのだが、もたついてしまう。

「焦る必要はない。初めは誰しも上手くはいかないものだ」

 ザガロの落ち着いた声音に不思議と焦りがなくなる。自然な動作で馬に乗ることができて、は小さく息を吐いた。がしっかりと手綱を握ったことを確認して、「よし、行こう」とザガロが馬の腹を蹴った。
 ゆるやかな速度はどこかのんびりと遠乗りするようにも思えて、の過度な緊張がほぐれていく。

 クリスと並ばなければ、追いつかなければ──いつもそんなふうに気を張っていたせいか、馬に乗って走るのがこんなに気持ちいいと感じたことがなかった。
 は風を受けて、目を眇めた。

殿、花は好きか?」
「えっ」

 ザガロが速度をゆるめて、横に並んだ。声をかけられたことに驚いたわけではなくて、内容が突飛だったためにはすぐに返事ができなかった。目的地に着くまでの世間話かもしれない。はもう一度ザガロの言葉を脳内で反芻させる。

「えっと、詳しくはないのですが、人並みに好きです」

 答えてから、普通に好きだと言ったほうがよかっただろうか、と不安になる。は窺うようにザガロを見やった。

「そうか」

 ザガロが吐息を乗せるように笑った。
 思わず、手綱を握る手にぎゅっと力がこもって、それに反応して馬が鼻を鳴らした。

 それからは並走して、とりとめのない話をした。弓や馬具の手入れのコツ、馬に乗るときの心得、互いの騎士団についてなどである。理知的で落ち着いた印象のため、はてっきりザガロを寡黙な人とばかり思っていたが、想像よりもずっと気さくであった。


「ああ、そろそろだな」

 ふいに、ザガロが呟きを落とした。
 長い間走っていたわけではないので、陣営からそう距離はない。ザガロが手綱を引くと馬が立ち止まった。も同じようにしたはずなのだが、付き合いの浅いこの馬は不服そうにちょっとだけ暴れるようなそぶりをして、ようやく足を止める。

「はは、気の強い馬だな」

 一足先に馬から降りたザガロが手を差し出してくれる。「ありがとうございます」と、は礼を告げながらその手を借りて、下馬する。
 重ねた手が握られて、はザガロを仰ぎ見た。髪よりも青みがかった瞳がやさしくを見つめ返す。

「騙し討ちのようですまないが、少し付き合ってくれ」
「え? あ、はい……?」

 いつの間にか、二頭の馬は木に繋がれている。
 訳がわからないまま、はザガロに手を引かれて歩く。

 馬を繋いだ場所から程なくして、何を言われるわけでもなく、は自然に足を止めた。木々をかき分けた先は場所が開けていて、草花が風に揺らめいていた。
 ふわ、と花弁が舞い上がる。
 花は好きか、と先ほどの突飛な問いを思い出して、は合点がいった。

「すごく綺麗です」

 繋いだままの手を意識してしまって、ザガロの顔を見ることができないは、目の前の光景に視線を向けた。「殿が花を嫌いでなくてよかったよ」と、ザガロが冗談めかして言った。
 そうして、騎士らしく武骨な手が足元の花を丁寧な手つきで摘み取った。

「こんなことが、菓子の礼になればいいのだが」
「そ、そんな……お礼なんて、だってあれはわたしだけが作ったのではないですし、狼騎士団の皆さんにはクリスの…………あ、えっと、その失礼をしてしまって」

 の慌てぶりが可笑しかったのか、ザガロがすこし噴き出すように笑った。
 ザガロの手が離れた拍子に、ぎゅっと拳を作ってしまっていたの手を開かせて、ザガロがそこに花束を乗せる。野花を摘んで無造作に作られた花束は、決して華美なものではなかったが、瑞々しくて可愛らしい。

「……菓子の礼などは口実で、殿とこの景色が見たかっただけさ」
「え?」
「今度はオレルアン草原の花を贈らせてくれ」

 やさしく見つめられて、は顔を真っ赤にしながら小さく頷いた。ホースメンの手技を教わる、という目的など、とっくのとうに忘れてしまっていた。

花束を抱えて

(ザガロの言う今度、が待ち遠しくて仕方がない)