最高のディナーを用意している、と煙が自慢げに言っていたが、はいまいち気分が乗らなかった。心も能井も、仕事でいないとわかっているからだ。
ドレスのファスナーを上げられず、は鏡の前で小さく唸る。
ちらりと時計を見やると、は慌てることなく唇に紅を引いた。そろそろ鳥太が訪ねてくるだろう。
ガチャ、とノックもなく開かれたドアを振り向くことなく「ごめん。鳥太くん、ファスナー上げてくれる?」と、は声をかけた。いつもならすぐに文句が飛んでくるはずだが、何も返事がない。
は不思議に思い、首を捻って振り返った。
「えっ……心さん?」
は唖然と呟いてから、剥き出しの背中に気づいて慌ててショールを肩に巻きつけた。
「~見て見て、オレの卸たての服! 超イカすだろ?」
「鳥太くん」
くるりと回りながら部屋に入ってきた鳥太が「アレ? なんで心くんがいるの?」と、怪訝そうに心を見つめる。
血みどろのマスクを投げ捨てた心が、鳥太を廊下に蹴り出した。そうして、大きくため息を吐きながらドアを後ろ手に閉める。痛いと叫ぶ鳥太の声がドア越しに聞こえてきて、はさすがに不憫に思った。
「やっぱり、わざとか……煙さんの奴」
「煙が待ってるよ、!」
「鳥太。煙さんに遅れるってのと、一人分料理追加するように伝えてくれ」
「えーーー!」
煙が不機嫌になることは目に見えている。しかし、その分二人きりの時間が増えると考えたのか、少しの沈黙ののちに返ってきた鳥太の声は明るかった。
「しょうがないなァ。じゃあ、なるべく遅くきてねっ」
鼻歌と共に、鳥太の軽い足音が遠ざかっていく。
そのあまりの切り替えの早さに、悪いことをしたなという気持ちがわずかに萎んでいくようだった。は鏡の前で立ち尽くしたまま、心が眼鏡を掛ける様をただ見つめる。
「?」
「あ……ごめんなさい、びっくりしちゃって。今日はもう、会えないと思ってたから」
「フーン? で、ファスナーを上げればいいのか?」
ハッと息を呑んだときには、すでに心が近くに迫っていた。
「わっ、やだ、心さん……!」
心の手が何の躊躇いもなく、のショールを剥ぎ取ってしまう。つい、と指先が背中をなぞる。
「し、心さんにそんなこと、頼めない……」
「じっとしてろよ」
思わず、逃れるように身をよじるが、心に肩を掴まれて身動きが取れない。
恥ずかしさに俯きながら、は無意識に息を詰めた。
ファスナーがゆっくりと上げられていく。ジジジ、と音が止まって、ほっと息を吐いたのうなじに唇が触れた。びくりと跳ねた肩を、心の手が撫でる。
「……煙さんに、怒られちゃう」
「今さらだな。どうせ怒られるんだったら、遅くなってもいいだろ。鳥太もそのほうが喜ぶ」
「っ、心さ……」
うなじに吸いつかれ、小さな痛みが走る。
ぐい、と心の手がの顎を掴んで無理やり顔を振り向かせる。咎めようとして開いた口は、心の唇が覆いかぶさって、の声を奪った。
心から、血と汗の匂いがする。
掃除屋としての仕事を終えてきた証拠だ。「いくらアイツらだろうと、しばらく帰って来れんだろう」と高笑いする煙の姿を思い起こして、心と能井が相当無理をしたからこそ、心がこの場にいるのだと思い至る。
能井がいるのだから傷があるわけがない。そうとわかっても、は不安を覚える。
能井のケムリはどんな怪我だって治癒するけれど、傷を負えば痛みがあるし、失血もする。煙が言うのだから、“今日この日“に心を屋敷から追い出すため、相当の仕事を詰め込まれたはずである。
「ん、っふ……」
心の舌が口腔内を這って、強張っていたはずの身体から力が抜けていく。くたりと寄りかかりそうになったの身体を、肩に添えられた心の手が支えた。
「おっと。悪い、汚れるところだったな」
パッと手を離して、心が眉尻を下げて笑う。
心の服が汚れているのはいつものことである。特に破れたところもないので、大きな怪我をしたわけでもなさそうだ。「シャワー浴びて、着替えてくるよ」と、心が踵を返した。
「待って、心さん」
「あ、忘れてた」
が心を引き留めようと踏み出したのと、心が立ち止まって振り返ったのはほぼ同時だった。
踏み込んだ勢いを止められず、の鼻先が心の胸板にぶつかる。
「……」
は鼻を押さえ、心を見あげた。「大丈夫か?」と、心が顔を覗き込んでくるので、は小さく頷く。
「バレンタインデーのお返し。能井がうるさくて」
心がポケットから取り出したのは、リボンに包まれた小さな箱だった。
はきょとんとして、その箱と心の顔とを見比べた。あまりに意外すぎた。ホワイトデーに何かを期待していたわけではないが、貰えるとしてもせいぜいクッキーなどの菓子だと思っていたのだ。
「開けてもいいですか?」
「期待すンなよ」
「……それは、無理です」
は小さく笑いながら、リボンを解いて箱を開ける。中に入っていたのは、シンプルなデザインのピアスだった。心の瞳とよく似たブルーの宝石が揺れている。
「きれい。心さんの目の色に似てる」
「……そーか?」
心が怪訝そうに眉をひそめる。はピアスを戻すと、箱を大事に胸に抱いた。
「ありがとう、心さん。うれしいです」
「ん。じゃあ、行くわ。煙さんにキノコにされたくねェからな」
「あっ、待って!」
は心に向かって両手を広げた。
「服、汚れたら着替えるから……あの、ぎゅって、してください」
眼鏡の奥で心の瞳が瞠った。けれども、次にはやさしく目を細めて、心の腕はを包み込んだ。
心のぬくもりを確かめるように、はぎゅうと抱きつき、その胸に顔を埋めた。
「心さん……会いたかった」
ホワイトデーの贈りものより何より、それが一番にとってはうれしいことなのだ。心は何も言わなかったが、腕の力がわずかに強まった。
「」
身を離した心が、とんとの首の後ろを突いた。
「首のとこ、隠れる服にしろよ」
すぐには意味がわからなかったが、小さな痛みを思い出し、は慌ててうなじを手のひらで押さえた。こんなものが煙の目に入ったら、本当に心がキノコにされかねない。
は赤くなった顔を俯かせ「わ、わかりました」と、上ずった声で答える。
「すぐ戻る」
心の背を見送ってから、は姿見の前に立った。
先ほどもらったばかりのピアスを身につけて、少し揺らしてみる。ピアスに似合うドレスを見繕い、はすぐに着替えを済ませた。ファスナーが上げられない、というトラブルもなく、そわそわと心が戻ってくるのを待つ。
服装に無頓着な心は、ピアスにはすぐに気づかないかもしれない。それでも、心の反応に想像を巡らせ、は頬を緩ませた。
能井に感謝しなければいけない。もっと言えば、煙にだって礼を言いたいくらいだ。
思惑と外れてしまったかもしれないが、煙が意地の悪いことをしたからこそ、心だってムキになってくれたのだ。本来、心はイベントごとなど興味はない。
「悪い、待たせた。行こうぜ」
急いで来たのだろう、心の髪はわずかに水分を含んでいた。
正装姿の心が、慣れない仕草でに腕を差し出す。ブルーナイトを思い出しながら、は心の腕に手を絡めた。
「…………似合ってる」
ぼそ、と告げられた言葉は、ピアスのことかドレスのことか定かではなかった。
はぎゅっと心の腕に抱きついて「うれしいです」と、笑った。
煙がお冠だったのは、言うまでもない。