火急の用事で実家に帰る、と一週間ほどガルグ=マクを空けていたが帰ってきたと聞いたのは、少し前のことだった。
 アッシュは慌てての部屋を訪ねたが、主は不在だった。食堂や大聖堂まで足を運んだが、の姿を見つけることはできなかった。

 浮かれていた気持ちが、急にしぼんでいくような気がした。
 小さく溜息を吐きながら、アッシュは釣り池を横目にトボトボと歩く。が花を好むと聞いたことはなかったが、温室の扉を開けて草花の香りを胸いっぱいに吸い込む。

「アッシュ」
「うわっ、?」

 思いがけず、目的の人物がいたことが信じられない。アッシュは目を丸くして、何度も瞬きをする。
 くす、とが小さく笑った。

「久しぶり。でも、そんなに驚かなくてもいいのに」
「あっ! すみません、いや、君がここにいるのが意外とかではなくて」
「いいのよ、気を遣わなくて。花を見に来たわけでもないのだし」

 くすくすと笑う声が、静かな温室に響く。口元を指先で隠した笑い方はたおやかで、貴族らしい。
 しかし、アッシュの知る限り、が当番以外で温室を訪れることはないはずだ。よく男子生徒から花を贈られているが、そのほとんどの花の名前も知らないのだ。

「植物に興味はないけれど、ここの空気は好きなの。心が洗われるような、俗世の煩わしさを忘れられるような、そんな気がして」

 が瞳を伏せて、恐らく名も知らぬであろう花に視線を落とす。どこか憂い顔に見えて、アッシュは眉尻を下げた。

「……何か、あったんですか?」

 自分が踏み込むべきではないのかもしれない。
 平民の出であるアッシュには到底わからないような悩みを、貴族令嬢であるにはあるのかもしれなかった。けれど、アッシュはに悲しい顔をして欲しくはないし、辛い思いをして欲しくなかった。
 思わず咄嗟に後ろ手に隠した、アンナの特別なお菓子──チョコレートを使って作った焼き菓子を入れた袋が、かさりと音を立てる。アッシュはしまったと思ったが、がそれに注視することはなかった。

「父は、わたしが士官学校を卒業したら、すぐに結婚させる心づもりみたいで」
「結婚……」
「勝手に縁談を進められて、顔合わせのために実家に帰っていたのだけれど、破談にしてきたところ」

 が目を細めて、悪戯っぽく笑った。
 士官学校には貴族の子息、息女が数多く在籍している。黒鷲の学級など、ほとんどが貴族で平民は数えるほどだ。
 話を聴いていれば、アッシュでもわかる。彼らの婚姻は、家のためであり、当人同士の意思は二の次であることが多い。「自由に恋愛できるのなんて、今だけだ」と、シルヴァンの言うことも最もなのかもしれない。だからといって、彼の行いは許容されることではないだろう。

「破談!? だ、大丈夫なんですか?」
「父は相当お冠だったけど、わたしだって腹が立ってるのよ」

 が柳眉をひそめ、花弁に指を這わせる。苛立ちながらもその手つきはやさしい。

「貴族の娘として、務めであるとは理解してるわ。だからって、何も言わずに断れないところまで話を詰めるなんて冗談じゃない! 百歩譲って、ロドリグ様の子息なら受け入れたかもしれないけど、土台無理な話よね」

 ロドリグの子息──フェリクスのことだ。
 が騎士になりたいのは、ファーガスの盾と称されるロドリグに憧れてだと聞いている。「フェリクス……ですか」とアッシュが呟けば、が苦笑を漏らす。

「冗談よ、冗談。ロドリグ様の義娘になれるならなりたいけど、フェリクスと結婚なんて無理ね」

 が肩を竦め「いまだにロドリグ様の子息だなんて信じたくないくらいよ」と、指先でそっと花弁を弾いた。
 フェリクスが耳にすれば「こっちだってお前など願い下げだ」と、舌打ちの一つでもされそうな台詞である。入学したばかりの頃、フェリクスに意気揚々と話しかけ、すげなくされていたの姿を思い出す。少し経ってからは、いい剣の相手としてお互い切磋琢磨する関係になっていた。そこに恋愛感情は芽生えなかったのだろう。アッシュはそれに、内心で安堵する。

「騎士になれるわけがない、ということも、わかってはいるのよ」

 ふう、とがため息を吐く。

「というか、わたしが騎士になりたいなんて世迷いごとを言わせないように、さっさと嫁がせようとしているんでしょうね」
の意思が尊重されないなんて……」

 アッシュは憤りを覚える。これも、平民ゆえの考えや感覚なのだろう。
 が困ったように眉を下げて、アッシュを見る。「ほんとうよね」と口にしながらも、彼女は立派に貴族の務めを果たすのだ。

 妙にやりきれない気持ちになってしまうのは、アッシュがを好きだからに他ならない。

「それにしても、今日は何だか賑やかね。今節は祭事はなかったと思うのだけど」

 辛気臭くなった雰囲気を変えるためか、が明るく言った。
 ガルグ=マクを離れていたが知らないのも無理はない。アンナが触れ回る愛の祭──女性が愛を告げる日だといい、特別なお菓子が飛ぶように売れていた。

 アッシュは緊張に身を強張らせる。への贈り物を手にしている以上、平気な顔で事情を説明できそうにはなかった。

「……今日は、愛の日だそうです」
「愛の?」
「女性が贈り物をして、愛を告げる……と、アンナさんが」
「アンナさん? 信憑性に欠けるわね」

 の言葉は最もだ。アッシュとて、これは彼女の特別なお菓子を売り込む商法なのだとわかっている。

「愛の日にかこつけるなんて、情けないとは自分でも思います。でも、こうして君といられるのもあと僅かなのだと思うと、居ても立っても居られなくて」

 の目が溢れんばかりに見開かれる。
 アッシュは驚きに満ちたその顔を見つめながら、後ろに隠し持っていた包みを差し出す。

が好きです。僕は、君に相応しい貴族子息ではないけど、この気持ちは誰にも負けたくないと思ってます」

 瞬きを忘れたかのように、包みを凝視する瞳がおもむろにアッシュを移す。
 視線が合った瞬間に、の頬がさっと紅潮した。「まっ、ま、待って!」と、がくるりと背を向けた。

「えっ? あ、アッシュは、わたしのことが好きなの?」
「はい。迷惑でしたか?」
「め、迷惑だなんて、そんなことは」

 ない、という言葉が尻つぼみに消えていった。
 アッシュはを後ろから抱きすくめ「好きです」と、もう一度告げた。近づいて触れて初めて、が自分よりもよほど小さくて、ずっと華奢なのだと知った。

 飛び出しそうなほどに早鐘を打っているのは、どちらの心臓なのかわからない。
 の手がそっと、アッシュの腕に触れた。

「……アッシュ」
「はい」
「わたしは縁談を破談にするくらい気が強いし、フェリクスに負けず劣らず腕っぷしも強いし、あなたが思うよりずっとじゃじゃ馬娘なのよ」
「はは、そんなの今更ですよ」

 すぐ傍の耳朶が赤く、熱を持っているのがわかった。アッシュはぎゅっとを抱きしめる腕に力を込める。やろうと思えば、にはアッシュを突き飛ばすことなど容易なはずだった。

、こっちを向いてください」
「う……」

 珍しくがたじろぎながら、しぶしぶといった様子で身体ごと振り向く。恥ずかしそうに顔を伏せるなんて、初めて見る。
 アッシュはその顔をよく見ようと、下から覗き込んだ。すかさず、の手のひらが視界を遮る。

「アッシュ! 調子に乗らないで、わたしを揶揄う気?」
「ま、まさか……僕はただ、の可愛い顔が見たかっただけで、」
「アッシュ!! そ、そんなことを正直に言わないでくれる!?」

 注文が多いな、と思いながら頷いて、アッシュはの手を目の前から退かした。

「あの、もしかして脈ありだと思っても、いいんですか?」

 がアッシュの手から、包みをひったくるようにして奪い取る。一見乱暴めいていたけれども、中身を潰さぬように気をつけている。
 真っ赤な顔をしながらも、が挑発的な瞳をアッシュに向けた。

「だったら、わたしに相応しい殿方になって、父を納得させることね」

 回りくどい言い方だが、つまりアッシュの気持ちを迷惑がっているわけでも、拒否するわけでもないということだ。むしろ、自身は受け入れてくれるということだろうか。
 そう思ったら、じわじわと頬が熱を持ち始める。アッシュは口元を手で覆い、目を逸らした。

「嬉しいな……」
「だ、だからアッシュ、あなたは正直に口にしすぎよ!」

 の慌てた声が温室に響いて、アッシュは笑った。「それからアッシュ、あなたは情けなくなんかないわ。だって、ロナート卿から逃げなかった」と、笑い声に紛れるようにが囁く。小さくともその言葉はアッシュの耳に届いた。
 自分を見ていてくれたのだと思うと、やはり嬉しくて、頬が緩んで仕方がなかった。

バレンタインがただの商戦戦略だろうとチャンスをありがとうございます

(好きだと口にできたのは、紛れもなくそのおかげなのだ)