はあ、とは大きなため息を吐いた。賑わう食堂の片隅で吐くため息など誰も気に留めやしないからと、は思う存分盛大に息を吐く。そうでもしないとやってられないのだ。
 つくづく自分には料理の才能がない。
 メルセデスにさえ「人には向き不向きがあるもの、仕方がないわ~」と、さじを投げられた。一口食べて青ざめたクロードに言わせてみれば、これもある意味才能で、立派な兵器になり得るらしい。ちっとも嬉しくない。

 の眼前にあるカップケーキは、お店で買いましたと言われても疑わないほど、美味しそうな出来栄えである。匂いを嗅いでみても甘い香りがするだけだ。
 けれども、確かにこれは食べられるものではない。
 もう一度深くため息を吐いて、はこれをどう処分しようかと考える。

 まんまとアンナに乗せられてしまって、安くはない材料費とそれなりの時間を費やした結果がこれとは、あんまりである。こんなことならば、初めから手作りなどに拘らず、既製品を買うべきだった。買い直すにもすでに遅く、チョコレートはもう完売御礼していた。アンナの輝かしい笑顔に対し、の顔は曇りに曇った。

 ──愛する人に、到底渡せる代物ではない。

 捨てるに忍びないと思っていたが、自分で食べることすら躊躇うものを残しておいても仕方がない。はようやく、もはや食べ物とは呼べないカップケーキを捨てる決意をする。
 もしかしたら、想いを告げるべきではないという女神様の思し召しなのかもしれない。
 はあまり信心深いほうではないが、安易に神頼みするたちだ。そう考えれば、傷ついた心が少しばかり軽くなるような気がした。


「……えっ?」

 ふいに名前を呼ばれ、は俯かせた顔を上げた。目が合って、ディミトリがほっとしたように頬を緩ませる。

「殿下、」
「よかった、まだ処分していなかったか」
「……クロードめ」

 たまたま居合わせたからといって、クロードに味見を頼むべきではなかった。権謀術数に長け、人心掌握にも優れるクロードには、の想いなど筒抜けのようなものだ。
 
 慌ててカップケーキに伸ばした手は、届く前にディミトリに捕らわれる。痛みはなかったが、ディミトリの加減された力でさえも振り解くことなど叶わない。

「あの、クロードに何を聞いたか知りませんけど、これは誰にも食べさせるつもりはありませんから」
「クロードには食べさせたんだろう?」

 ディミトリに顔を覗き込まれ、は言葉に詰まる。宝石のように澄んだ青い瞳に見つめられると、何故だかひどい悪行を働いたような気分なる。無論、クロードには味見をして貰っただけで特別な意味などない。

「ならば、俺が食べても問題ないはずだ」
「も、問題大ありです!」

 焦るを無視して、ディミトリが隣に腰を下ろした。肩が触れ合うほどの距離だ。その上、捕われた手がそのままである。は恥ずかしさと緊張に顔を伏せた。

「クロードは、とんでもない失敗作だと言っていたが……美味しそうにできてるじゃないか」

 ディミトリがしげしげとカップケーキを見つめ、首を傾げる。
 の料理の腕前を知らぬわけではないだろうが、そういえばこうしてディミトリに手料理を振る舞うのは初めてのことかもしれなかった。先生が士官学校に来たばかりの頃、一緒に料理をしたのだが、それ以降誘われなくなったのは正しい判断と言えよう。
 先生曰く、見た目が美味しそうだからこそ、よりたちが悪い。

 はちら、と俯きがちにディミトリの横顔を見やる。
 金髪蒼眼の見目麗しい姿は、絵に描いたような王子である。誠実で優しく、武芸にも秀でるなんて、まさに非の打ち所がない。

 身分の差に尻込みする女生徒も今日は勇気を振り絞って、愛のこもった贈り物を渡していることを、は知っている。ディミトリが困ったように微笑んで、受け取っていたところを至る所で目にしたのだから、当たりまえだ。
 その贈り物は、のカップケーキと違ってちゃんと中身も美味しいに違いない。わざわざこんな、とんでもない失敗作を口にしなくともよいはずだ。

「や、やっぱり、殿下にはとても食べさせられません!」

 が伸ばした手はカップケーキに届かず、ディミトリが素早く攫っていく。
 あ、と思う間もなく、カップケーキがディミトリの口へと消える。なんて大きな一口だろう──が思わず呆気にとられていると、止める間もなくすべてディミトリが完食してしまう。
 口の端についた食べ屑をディミトリの指が拭う様を、はただ見つめることしかできなかった。

「何だ、食べられるじゃないか。クロードは大袈裟だな」

 ディミトリが穏やかに笑った。対して、は青ざめる。

「そ、そんなわけ、ああっもう……こんな時に限ってなんでドゥドゥーがいないの!」
「ドゥドゥー? 本命はドゥドゥーか?」
「違います! ドゥドゥーなら絶対殿下を止めてくれたのに……まさか、全部召し上がるなんてっ」

 出来上がったカップケーキは三つで、作ったもクロードも一口食べて身の危険を感じたほどだ。それなのに、ディミトリの胃に一つ丸々収まってしまった。
 最後の一つだけ、奇跡が起きたなんてことがあり得るわけがない。生地はすべて同じなのだ。

 このカップケーキが原因でディミトリが倒れでもしたら、はどうすればいいのだろう。何しろ、クロード曰く立派な兵器なのだ。

「殿下、身体の調子はおかしくありませんか? 医務室に行ったほうが」
? 泣いているのか?」
「だ、だって、殿下の身に何かあったら、わたし……」
「お前も大袈裟だな」

 ふ、と笑みをこぼして、ディミトリがの頬に手を伸ばす。落ちた涙を指先がやさしく拭う。

「大袈裟じゃないです! わたしも味見しました……クロードの言う通りなんです。先生にも厨房に立つなって言われたくらいで」
「そ、そうだったのか」

 さすがのディミトリも顔を引きつらせている。は申し訳なさや至らなさで胸がいっぱいになり、さらに涙を増してしまう。
 困ったように眉尻を下げて、ディミトリが親指を目尻に這わす。

「お、見せつけてくれるねえ。お二人さん」
「クロード」

 ディミトリの声には怒気が含まれていた。それを間近で感じて、は身を強張らせる。
 掴まれた手からそれが伝わったのか、ディミトリの視線がに移る。

「……ディミトリ、全部食べちまったのか?」
「当たり前だ」

 すげなく答えて、ディミトリが立ち上がる。もまた、手を引かれて席を立った。

「……感謝している。ただ、本来なら一口だってお前に食べる権利はなかったはずだ」
「わかってるって。一口も食えたもんじゃなかったけどな」
を辱めるな。お前は大袈裟すぎる」

 は俯いて、ぐすっと鼻をすすった。
 今更クロードの言葉に傷ついたりはしないが、ディミトリのやさしさや気遣いがを心苦しくさせて、涙が止まってくれない。

「行こう」

 ディミトリがの手を握りしめる。ほんの少しだけ、痛かった。


「ヒルダに頼んで正解だったな、無事にすり替えてたか」
「あっ、クロードくん! ごめーん、思ったよりディミトリくんが来るの早くて、取り替える時間がなかったんだよねー」

 ヒルダが手にしているのは、が作ったカップケーキと瓜二つだ。メルセデスお手製の、美味しそうな見た目だけではないカップケーキである。

「おいおい、じゃあディミトリが食べたのはの……王になる器か、いや愛の力ってやつかね」




 立ち止まった背中が振り返る。は顔を上げられずに、滲んでぼやけたつま先をじっと見つめた。

「参ったな……そろそろ泣き止んでくれないか? ほら、俺はこうしてピンピンしている」

 は俯いたまま、かぶりを振る。
 繋がっていた手が離れる。そうして、ディミトリの手のひらがの両頬を挟んで、顔を持ち上げた。

 青い瞳が、真っ直ぐにを見つめる。ディミトリの親指が目の縁をなぞると、困ったように微笑むその顔がよく見えた。背の高いディミトリが腰を屈めて、近い位置で顔を覗き込んでくるので、は顔を伏せる代わりに目を伏せる。

「俺は色恋は不得手だ。クロードに焚き付けられて、ようやくお前を好きだと自覚するくらいに」
「……っえ、」
「クロードにはああ言ったが、あの焼き菓子は俺が食べて良いものだっただろうか?」

 は言葉をなくして、思わずディミトリをまじまじと見つめた。照れ臭そうに視線を逸らしたその顔が、あっという間にぼやけて見えなくなる。

「な、何故泣くんだ? すまない、やはり他に渡す相手が」
「違いますっ、わたし、うれしいんです」

 はしゃくりあげながらも、口を開く。「焼き菓子は、殿下のために作ったもので間違いありません」と、嗚咽交じりの聞き辛い言葉を拾い上げて、ディミトリがほっと安堵の息を吐く。

「そうか」

 ディミトリが一層やさしい声音で呟いて、小さく笑う。
 目尻に押し当てられた指先を、涙が次から次へと濡らしていく。「嬉しくて、泣いているのか」ディミトリが感慨深げに漏らした。

 改めて言葉にされると恥ずかしく、は視線を彷徨わせる。

「で、殿下……」
「そういえば、は花が好きだったな? ドゥドゥーに頼んで白薔薇を」

 ディミトリの手が離れる。懐から取り出した白薔薇は、少しばかり潰れていた。慎重な手つきだったのにも関わらず、ディミトリの手の内でぐしゃりとひしゃげて、花弁が散った。
 は目を丸くする。

「す、すまない! まだ薔薇は温室に……」
「いえ、いいんです。今日は、贈り物をするのはわたしのほうですから」
「……それもそうか」

 ようやく涙も収まって、納得したように頷くディミトリの顔がよく見えた。

「あの、殿下」
「ん?」
「も、もう一度だけ、わたしを好きだと聞かせてください」

 ふ、とディミトリが吐息のように笑うのがわかったが、は恥ずかしさのあまり顔を上げられない。

が好きだ。お前が望むなら、何度でも言葉にしよう」

 その声は耳元に落ちた。
 ディミトリの腕の中は、薔薇の甘い香りがした。

花と甘いお菓子と君と

(今日は人生最良の日だな)