は上機嫌だった。
 気分としてはスキップでもしたいくらいだったが、さすがに人目が気になるので、跳ねそうになるつま先を理性で抑え込む。大人としての分別はあるのだ、と妙に誇らしく思っていたら「何か嬉しいことでもあった?」と、リンディスに声をかけられた。

「えっ! リンディスさま、何故わかったのです?」
「ふふっ、見ればわかるわ。顔が綻んでるし、身体も揺れているんだもの」

 は小首を傾げながら、頬に手を添えた。
 完璧に取り繕っているつもりだったが、この喜びは内に秘めることはできなかったらしい。
 上機嫌であることを見破られたからといって、恥じることでもない。は先ほどまで抱いていた誇らしさを放り投げると、破顔一笑した。

「聞いてください、リンディスさま! 実は、ウーゼルさまからチョコレートを賜ったんです」
「……オスティア侯から?」

 ジャーン、とはサプライズプレゼントを披露するがごとく、大きな紙袋を取り出した。

「食べ切れないほど頂いたみたいで、軍のみんなで食べるようにとおっしゃってくださったんです」

 不思議そうに瞳を瞬かせていたリンディスだったが「そういえば、はオスティアの密偵だったわね」と、思い出したようにひとつ頷く。マシューのように素性を隠しているわけではないのに、こうも認知されないのは、の振る舞いが密偵らしからぬせいだろうか。
 腑に落ちた顔をするリンディスに対し、は納得のいかない顔を浮かべる。

「こう見えて、とってもとっても優秀な密偵なので、お忘れなく!」
「え、ええ、わかってるわ」
「マシューさんよりずっと、お役に立ちますから!」
「それより、チョコレートって?」

 胸を張るをやんわりとあしらい、リンディスが袋の中を覗き込んだ。

「飴……じゃ、ないのよね?」
「はい、おひとつどうぞ!」

 リンディスが訝しげに、紙袋の中から一粒を摘み上げる。キャンディ型の包みを開くと、茶色い球が現れた。

「これは……焦げてるわけでは、ない?」

 リンディスの様子からして、サカには馴染みのない菓子なのだろう。

「もちろんです。さあ、一思いにパクリと」

 疑わしげに球体を見つめていたリンディスが、意を決したような顔でそれを口に放った。
 ぎゅっと瞑られていた瞳が、鮮やかに見開かれる。思わず、といったふうにを見たリンディスの頬が、興奮で赤みを帯びる。

「おいしい……!」

 チョコレートを初めて食べるこの新鮮な反応が、は好きだった。
 見た目こそ黒っぽく、あまり食欲をそそるものではないが、一口食べれば皆リンディスのようによい驚きを得るのだ。

「お口に合ってよかったです! これから軍師殿に会いに行かれるんですよね? お二人でどうぞ」

 はリンディスに、いくつかチョコレートを握らせる。

「そうだけど、どうしてわかったの?」
「え? やだなあ、リンディスさまこそ見ていたらわかりますよ」

 「お二人は仲良しですもんね」と、はにっこり笑って別れを告げた。
 は今度こそ、人目を憚らずに鼻歌を歌いながらスキップをする。こういうところが密偵らしくない、と思われていることを、は知らない。




 皆に配り終える頃には、空が茜色に染まっていた。
 は踊るような華麗さを持って、天幕の垂れ幕を開けると、くるりとターンをしながら中へと足を踏み入れた。
 サカ出身のギィはリンディスと同じような反応をしてくれたし、甘いものを好まないひと以外はチョコレートを喜んで受け取ってくれた。シスターのくせに欲深いセーラがごっそりとチョコレートを持っていったせいで、紙袋は随分と軽い。

 天幕に入ってすぐ、は違和感に気づいて、ぴたりと動きを止めた。
 けれど、違和感の正体に、は気の抜けた声を出した。

「なぁんだ、マシューさん。もしかして、チョコレートを貰いに来たんですか?」

 そういえば、今日はまだ一度もマシューの姿を見ていなかったことを思い出す。
 暗闇に紛れていたマシューが肩を竦めながら、明かりを灯した。薄暗かったあたりが橙色に照らされる。

 マシューが何か悪意を持って天幕に潜んでいたなんてことはあり得ない、とわかっているからこそ、は別に気にも留めない。妙齢の男女ではあるが、マシューはにとって異性というよりも同僚という意識が強く、戦友という存在である。

「あ、ちょっと待ってくださいね。ウーゼルさまにお礼状を書きますから」

 はささっとペンを走らせる。チョコレートの礼を述べた紙を鳩の足に括り付けると、天幕の外へと飛ばした。

「伝書鳩をそんなことに使うんじゃねえよ……」

 はあ、とマシューが深いため息を吐く。
 言わんとしていることはわかる。伝書鳩を用いるには、あまりに内容のない手紙である。「でも、これはわたしにとって、とても大事なことなので」と、は少しも譲らずに、むしろ胸を張ってマシューに向き合った。

「マシューさん……まさかチョコレート、盗むつもりだったんですか?」
「ばか言え。そんなわけあるか」

 とて冗談のつもりだったのだが、マシューに強めに小突かれる。はむっと唇を尖らせた。

「暴力反対です。傷物になったらどうするんです?」

 マシューから返事はなかった。はますます唇を尖らせながら、紙袋を手にした。
 中身を確認していなかったが、コロコロと転がるチョコレートは最後のひとつだった。まだは口にしていなかったが、迷うことなくそれを手にして、マシューに差し出した。

「はい、マシューさん。最後のおひとつでしたよ、ラッキーでしたね!」

 あと少しでも遅ければ、そのチョコレートはの胃に収まっていたことだろう。

「あれ? いらないんですか?」

 マシューがなかなか受け取ろうとしないので、は首を傾げた。
 がチョコレートを配り歩いていることを知っているからこそ、この天幕で待ち伏せしていたとばかり思っていたのだが、違うのだろうか。

「おまえ、まだ食べてないだろ」
「わたしはいいんです。オスティアに戻れば、食べる機会なんていくらでもありますから」
「へえ、いやに殊勝だな」

 皮肉げに言って、マシューはひょいとチョコレートを摘んだ。カサカサと音を立てながらチョコレートの包みが開かれる。
 丸いチョコレートが、マシューの口の中へと消えていった。はマシューの「美味しい」が聞きたくて、口を噤んでじっと見つめた。

 ふいに、マシューの手がの腕を掴んだ。
 突然のことに反応できず、はされるがままにマシューに引き寄せられた。ふわ、とチョコレートの甘い香りが鼻先に触れる。
 あっと思ったときには、唇が重なっていた。

「っ……」

 反射的に結んだ唇を舌先がこじ開けてくる。ぬるりとした舌の感触と共に、半分溶けたチョコレートの塊が口腔内に入り込んでくる。
 絡み合う舌の上で、チョコレートが形をなくしていくのがわかった。
 甘みが余韻に変わっていく。それでもなお、唇が離れる気配がないので、はどんとマシューの胸を叩いた。
 最後の最後に、マシューの舌先がぺろりと唇を舐めていく。

「っな、何するんですか!」
「最後の一個を、二人で食べるにはこうするのが一番だろ?」
「わたしはいらないって言いましたっ」

 ごしごしと手の甲で唇を拭っていれば、手首を掴んで止められる。はマシューを睨みつけた。

「唇が赤くなる」
「……だから何だって言うんです。マシューさんには関係な──

 油断したつもりはなかったが、軽く足を払われて、は簡易ベッドの上へと転がされる。
 慌てて体勢を整わせようとしたときには、すでにマシューが馬乗りになっていた。してやられたことが悔しくて、はふいっと目を逸らした。

「なあ、さっきの話しだが」

 マシューの指が、そっとの唇をなぞる。

「もし傷物にでもしたら、責任はとってやるよ」
「……へ? マシューさん、わたしのことが好きだったんですか?」

 の目から鱗が落ちる。
 ふ、とマシューが苦笑を漏らした。

「密偵としては割と優秀なくせに、鈍すぎるだろ」

 褒めているのか貶しているのか、それを理解するより早く、落ちてきた影には目を閉じた。触れた唇からは、ふんわりとまだ、チョコレートの味がした。

copo di grazia

(トドメの一撃)