いけない、とわかっていた。
 LINEのトークルームを遡ると、「この問題がわかりません」やら「ここを教えてください」という質問に対する答えが淡々と並んでいた。当たり前である、このLINEは何かわからないことがあれば質問して欲しい、と言われて教えてもらった連絡先なのだから。

 プライベートなやりとりをしたことはない。だというのに「いきなりすみません。どうしても今日お会いしたいです。連絡待っています」という、質問もへったくれもない文字が並ぶ。
 まだ、既読はついていない。

 わたしはスマホを握りしめて、ため息を吐く。ふわっと白くなった吐息が消えていく。
 やっぱり、迷惑だったのだろうか。いや、迷惑であることぐらいは、百も承知している。それでも、わたしは先生に会いたくて仕方がなかったのだ。

「ベレト先生……」

 はあ、ともう一度ため息を吐く。
 メッセージを送った瞬間から、わたしの胸は期待と不安に震えている。指先が冷たいのは寒いからじゃなくて、緊張しているからだ。



 ベレト先生は、つい数ヶ月前までわたしの家庭教師をしてくれていた。
 2年生の夏の終わり、わたしは部活で次期部長を頼まれて、部活動でいっぱいいっぱいで勉強に手が回らなくなった。成績が下がったことを心配して、お母さんが家庭教師をつけてくれた──それが、ベレト先生だった。

 初めて先生を見たとき、人形みたいだと思った。表情筋がほとんど仕事をしていなかった気がする。
 硝子玉のような瞳に見つめられて、ひどく緊張したのを覚えている。

 「よろしく」と、先生はにこりともせずに言った。表情と言葉がちぐはぐだったせいで、わたしは差し出された右手の意味をすこし考えてから、握った。大きな、男らしい手だった。

 先生は寡黙だったし、表情もあまり変わらなかったけれど、勉強の教え方はとても上手だった。先生のおかげでわたしはとんとん拍子に成績を取り戻したし、むしろ以前よりもよくなった。
 そして、何より先生は聞き上手だった。
 わたしが部活動で悩んでいることや困っていること、友人関係での小さなトラブルなんかにも、先生はじっと耳を傾けてアドバイスをくれた。

はどうしたい」

 先生に問われると、わたしは自分でさえも見えていなかった心のうちに気づかされた。どうするべきか、ばかりを考えていたわたしにとって、どうしたいのかは難しい問いだった。


「先生……本当はわたし、部長になんてなりたくなかったんです。でも、みんながが適任だとかしかいないとか言うから、やるべきなんだろうなって」

 3年生になって部活を辞めたとき、わたしは先生にだけ、こっそりと胸の内を打ち明けた。
 先生はいつものように、相槌を打ちながらわたしの話を聞いてくれた。わたしが話し終えるまで、切れ長の瞳はじっとわたしを見つめていた。

「そうか。よく頑張ったな」

 その声は、いつもよりずっと柔らかかった。あれ、と思って、わたしはいつの間にか俯かせていた顔をあげた。先生の口元が、ほんのわずかに緩んでいた。
 先生の手がわたしの頭をやさしく撫でた。
 そんなふうにされたのは初めてのことだった。ぽかんとしていると、先生はいつもの調子で「残業を始めよう」と告げた。わたしも何事もなかったかのようにノートを開いたけれど、シャーペンを握る指先が震えていた。

 先生がすきだと自覚したのは、この時だったように思う。





 わたしは先生のおかげで推薦を得ることができ、みんなよりもずいぶん早い段階で受験を終えることができた。もちろん、とても喜ばしいことだ。けれど、それは先生との別れも意味していた。
 クリスマスの日が、先生の最後の授業だった。

 わたしは、今日が最後だと思うとすごく悲しくて、クリスマスだからって変に意識して、全然授業に集中できなかった。
 最後に何を言おうとか、プレゼントはいつ渡そうとか、先生はわたしのことをどう思ってるんだろうとか。そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回っていた。



 先生に名前を呼ばれて、顔をあげた。先生はいつものように、わたしをじっと見つめていた。「今日はここまでにしよう」と、先生の手がノートや参考書を閉じた。
 わたしは焦った。最後の授業が、もう終わってしまう──

「メリークリスマス。それから、改めて合格おめでとう」

 思いもよらぬ言葉だった。
 目を丸くするわたしに、先生はリボンが結ばれた可愛らしい袋を差し出した。

「……ありがとう、ベレト先生」

 感極まって、わたしはそれしか言えなかった。用意していたプレゼントを渡すことすらできなかった。


 先生がくれた白い手袋をはめた手のひらに、手作りチョコレートを入れた紙袋が乗っている。この手袋を見るたび先生を思い出してしまって、わたしは想いに蓋をすることができなくなってしまった。
 先生が悪い。だって、最後の最後に、あんなふうにやさしく笑うから。

 居ても立っても居られなくて、先生の通う大学近くの公園まできてしまったけど、2月はまだまだ寒い。ココアでも買おうかな、とベンチから立ち上がりかけたとき、握りしめていたスマホが震えた。
 ベレト先生、と名前が表示されている。LINEの着信だった。

「えっ!」

 思わず、スマホを落としかける。
 まさか返信ではなく、着信があるなんて夢にも思わなかった。大きく息を吸って吐いて、わたしは震える指で、画面をタップした。

「も、もしもし」
?』
「は、はい。です、お久しぶりです。あの、すみません、突然」
『謝る必要はない。……今、外にいるのか?』

 スマホ越しに風の音が聞こえたのだろうか。わたしはすこし耳を澄ませてみたけど、先生がどこにいるかは見当がつかない。

「えっと、先生が通っている大学の、近くの公園に」

 さすがに引かれるかな、と思って、視線を彷徨わせる。その先に、わたしは見つけてしまう。

「せ、先生!」

 反射的な立ち上がったせいで、手にしていたチョコレートが落ちそうになる。「わっ」慌てて掴んだら、袋が歪んでちょっと皺が入ってしまった。

『大丈夫か?』

 スマホから聞こえた声が、すぐ近くからも聞こえた。目の前まで来た先生が、スマホを耳から離した。
 わたしは、石のように固まってしまって、ただただ先生を見つめる。

「久しぶり。元気そうだ」
「あ……は、い。お、おかげさまで」

 声が上ずる。わたしは今さらスマホを下ろす。

「いつからここに? 随分寒そうだ」

 先生の指先が、わたしの頬に触れた。「冷たい。風邪を引くだろう」と、先生がわずかに眉をひそめた。

「どこかに入ろう」
「だ、大丈夫です。すぐに終わりますから」

 指を離した先生が、わかったと言うように頷く。

 数日前から頭の中で考えてきた言葉を並べて、けれどすぐには口にすることができなかった。口の中が乾く。指先が震える。

「ベレト先生のことが、すきです」

 先生が目を瞠る。
 わたしはそれ以上、先生の反応を見る勇気がなかった。俯いて、自分のつま先を睨むように見つめる。

「迷惑だってわかってます。先生にとって、わたしはただの生徒に過ぎないし、こんな考えなしの子どもで……でも、自分の気持ちを誤魔化すのはもう嫌だから」

 わたしは一度、唇を結んだ。そうしないと、嗚咽が漏れてしまいそうだった。深呼吸を何度か繰り返して、チョコレートが入った袋を差し出す。

「……せめて、受け取ってくれますか?」

 わたしは顔をあげて、先生の顔を見ることができない。こわい。
 先生の両手が、わたしの手ごとチョコレートを包んだ。「手袋、使ってくれているんだな」と、先生が小さく言った。

 そろり、と視線を先生に向ける。

「当たり前です……」
「ありがとう」
「せ、先生? て、手が、その」

 先生が不思議そうに瞳を瞬く。手袋をしていてよかった。直接先生に手を握られていたら、わたしの心臓は口から飛び出していたかもしれない。

「迷惑なんかじゃない、と言ったら?」

 目を伏せかけたとき、先生が信じられないことを言った。

はどうしたい」

 いつもの問いかけだ。でも、いつもよりも声音に温度があった。
 先生がわたしの手をぎゅっと握って、柔く笑んだ。咄嗟に言葉が出てこなくて、口を金魚のようにパクパクさせるわたしを見て、先生が小首を傾げる。

「自分は……まず、先生と呼ぶのをやめてほしい」

 わたしの手の中で、ぐしゃっと紙袋が音を立てた。だめだ、やっぱり心臓が口から飛び出そうだ。

内緒話は白い吐息

(「ベレトさん」なんてまだ呼べそうにない)