きゃっ、と小さな悲鳴に次いで、けたたましい音が厨房から聞こえる。
 ドゥドゥーは足を止め、しばし考える。ダスカー人である己を快く思わぬ者も多く、声をかけただけで逃げるように去られたことが、これまでに多々あった。迷惑がられるかもしれない、と思いつつ、見て見ぬ振りができずにドゥドゥーは厨房を覗いた。
 意外な人物がそこにいて、ドゥドゥーは瞠目する。声をかけることに躊躇いはなかった。

「どうした」

 はっと息を呑んで振り返ったが、溢れんばかりに目を見開く。

「ドゥっ、ドドッ、ドゥ」
「ドゥドゥーだ。落ち着け、

 あまりの慌てように、ドゥドゥーは眉をひそめる。やはり自分のような者が声をかけても、迷惑なのかもしれない。
 が深呼吸をしてから改めて「まあドゥドゥー、どうなさったの?」と、取り繕う。

「悲鳴と音が聞こえた」
「あら、そう……聞こえてしまったのね」

 がふう、とため息を零す。
 ドゥドゥーは厨房を見回し、ひどい有り様に言葉を失った。足元にはボウルが転がり、更にはその中身が床にぶち撒かれ、のエプロンも汚れに汚れている。水場にも、汚れ物が山のように積み重なっている。料理長が見たら卒倒しそうな光景だ。

 そもそも、が厨房にいることが稀である。
 筋金入りの貴族令嬢で、箱入り娘であるは、聞けば家では厨房に入ることを禁止されていたと言う。火や刃物など危ないと止められ、水仕事などしたこともない手は、傷ひとつなくやわらかい。
 これでよく士官学校に入れよう、などと思ったものだ。貴族の考えることは理解しがたい。

 魔道を得意とするの手は、入学当初と変わらずにやわらかいままだ。しかし、いまはその指先に絆創膏が巻かれている。

「怪我をしたのか」
「ええ、でも大したことではないわ。気にしないでちょうだい」

 そう言って、がボウルを拾い上げる。

「手伝おう」
「え? でも……」
「お前ひとりでは、いつまで経っても終わりそうもない」
「……それは、そうかもしれないわね」

 が目を伏せて「なかなか上手くはいかないものね」と、ため息を交じりに呟いた。



 愛の祭、というのは、ドゥドゥーの耳にも届いている。というのも、ここ最近はガルグ=マクはその話で持ちきりだ。チョコレートという耳慣れない菓子は、飛ぶように売れているらあしい。
 アンナの商法にまんまと乗せられている。だが、ここ最近はディミトリの顔が険しくなるようなことが続いてるからこそ、こういった祭りも悪くはない。

 にも、愛を告げたい相手がいるのだろう。
 苦手な料理に挑む姿勢は好感が持てる。新しいエプロンを後ろ手にきゅっと縛ったが「よし」と、小さく気合を入れる。

「待て。紐が縦結びになっている。おれが直そう」
「えっ」

 ドゥドゥーはの背後に周り、エプロンの結び目を解いて蝶々結びにする。「あ、ありがとう……」と、振り向いたが恥ずかしそうに小さな声で言った。

「かまわない。それより、何を作るんだ?」
「あ、ええ、チョコレートケーキよ。アンナさんに頂いたレシピがあるの」

 がレシピの書かれた紙を見せてくれる。
 難しい工程は何一つないが、これまで料理をしてこなかったには難しかったのだろう。指先は、チョコレートの湯煎による火傷だと思われる。

「一つ一つ、やっていけば問題はない。にもできるはずだ」
「ほ、ほんとう?」

 が不安げにドゥドゥーを見上げた。ドゥドゥーは頷きを返す。
 ほっと息を吐いて、が顔を綻ばせる。

「じゃあ、始めましょう」

 がきりっと表情を引き締めて、開戦の掛け声のようにはっきりと告げた。あまりに真剣なその様子がおかしくて、ドゥドゥーは口元を緩めた。


 確かにの手際は悪い。しかし、レシピを読み込んでいるし、手順の間違いはない。不慣れな作業に手間取っているが、ドゥドゥーの助言や少し手を貸すだけで、菓子作りは順調だ。
 オーブンにケーキを入れて、後は焼き上がりを待つだけだ。

「上手くいきそうだな」
「ええ、ありがとう。ドゥドゥーのおかげよ」

 が胸を撫で下ろす。
 出来上がったケーキを渡す相手が誰なのか、ドゥドゥーには知る由もない。気にならないといえば嘘だ。ただ、自分にはそれを問うことはおろか、へ抱く思いを口にすることができない。

 ダスカーの悲劇は、ファーガス神聖王国に大きな傷痕を残したのだ。そして、自分はダスカーの生き残りである。

「おれはもう行く」
「え? 待って、ドゥドゥー」

 踵を返したドゥドゥーの腕を、の手が掴んで止める。ドゥドゥーは足を止めたものの、振り向くことはしなかった。

「ほら、もしかしたら焦がしてしまうかもしれないでしょう」
「お前なら大丈夫だ」
「で、でも、本当にうまくできるか不安だから、できあがるまでいて欲しい。だめかしら……?」

 不安げな声に振り向く。声と同じく、不安に曇った顔がドゥドゥーを見上げている。

「……そんな顔をするな」
「え? 顔、」

 不思議そうに、が手のひらを頬に添える。
 ドゥドゥーの足はそれ以上進むことができずに、の方へ身体ごと振り返った。腕を掴むの手を、ドゥドゥーは逆に握りしめる。

「おれと一緒にいるのは、よくない。おれはダスカー人で、お前はファーガス貴族だ」

 が柳眉をひそめる。離そうとした手が離れなかったのは、の指が絡まったからだ。ぎくりとドゥドゥーの身体が強張る。

「あなた、まだそんなことを仰るの?」
「……おれは事実を言っているだけだ。来節には卒業だ、妙な噂を立てられて困るのはだ」
「ドゥドゥー」

 の凛とした声が、厨房に響く。
 は、ディミトリと少し似ている。いつも胸を張って、前を向いている。人の上に立つということを理解している。ドゥドゥーをダスカー人だからと恐れることもない。
 勿論、できないことも多いし、抜けているところもある。そこがかえって、愛らしく──

「わたしがいつ、そんなことを気にしたというの? 教えてくださる?」
「……」

 ドゥドゥーがに弁で敵うわけもない。緩くかぶりをふって、ドゥドゥーはの手をやさしく解いた。

「……だめだ」
「何故?」
「お前には、そのケーキを贈りたい奴がいるのだろう」

 目を丸くしたが「まあ、今更そこを気になさるの?」と、心底驚いたように呟く。

「わたしが誰にあげようと気にもならないから、手伝ってくださったのかとばかり」
「お前が困っているから、手を貸しただけだ」

 ふふ、とが小さく笑う。ちょうどその時、オーブンが焼き上がりを告げた。
 ミトンを付けて、がケーキを取り出す。色だけでは判別しにくいが、焦げた匂いはしない。焼き加減を確かめて、が満足そうに頷いた。

「上手にできたわ!」

 嬉しそうに笑って振り向いたが、はっとして小さく咳払いをする。

「当初の予定とは違ってしまったけれど、ケーキはうまくいったのだから良しとしましょう。これはドゥドゥー、あなたのために作ったのよ」
「おれに? まさか……」

 ドゥドゥーは信じられない気持ちでを見つめた。
 はにかむの頬が、薄く色づいている。固まるドゥドゥーの手を、の両手が包んだ。やわらかい手のひらの感触に、ますますドゥドゥーの身体は緊張してしまう。

「ねぇ、今日がなんの日か、知ってらっしゃる?」

 が目を細める。ドゥドゥーは答えられず、唇を結ぶ。

 自分には思いを告げる資格はない、と思っているからだ。
 けれど、ドゥドゥーの躊躇いなどは意にも介さない。がケーキをフォークで切り分けた一口分を、口元で冷ましてからドゥドゥーへと向ける。

「わたしは、あなたのことが好きよ。あなたがとてもやさしいことを知っているもの。ダスカー人だ何だと言う人には、言わせておけばいい。わたしはそう思うわ」

 差し出されたケーキが引く様子はない。ドゥドゥーは仕方なく、口を開けた。上手に焼き上がったチョコレートケーキは、口溶けがよい。

「ドゥドゥー、あなたの気持ちを教えて」

 こうまで言わせてしまった以上、黙っているわけにはいかない。ドゥドゥーは、真っ直ぐ見上げてくるに視線を合わせた。

「……おれも、お前と同じ気持ちだ」
「同じ?」

 が不満げに片眉を跳ね上げる。ドゥドゥーはたじろぎながら、口を開く。

「おれは、が好きだ」

 とろけるような笑みを見せて、がドゥドゥーの胸元へ飛び込んでくる。よろめくことなくその身体を受け止めて、ドゥドゥーはを抱きしめた。
 思った以上に細くてやわらかい身体に戸惑いを覚え、ドゥドゥーは恐々と腕の力を強める。
 くすりと笑ったが「もっとギュってしていいのよ?」と、身を寄せてくる。ドゥドゥーの強張った身体は、それ以上腕の力を強めることは叶わなかった。

花を摘むほどのちからで

(抱きしめるあなたが愛おしい)