「ど、どうしてあなたがここに……!」
まるで幽霊に出くわしたかのような顔をして、を指さすのはフレリア王女ターナである。一時は共に戦ったとは言え、こうして対面するのは初めてだった。
は反応に困って、傍らのエイリークへと視線を向ける。エイリークが眉尻を下げて微笑んだ。
「ターナ。さんは私の大切な友人であり、我が国の大事な賓客よ」
「エ、エイリーク様っ?」
友人と言ってくれるのは、非常に喜ばしい。けれど、ルネス王女にとっての賓客とは、分不相応にも程がある。
こんな言葉を聞けば、ゼトが頭を抱えるに違いない。は慌てふためいて、思わず周囲を見回してしまった。幸いにしてゼトの姿はない。
「……それって、わたしと同じ立場じゃない」
ターナが不愉快げに眉をひそめて、小さく呟く。
「タ、ターナ王女様と同じだなんて、ああああり得ません」
はぶんぶんと首を横に振る。
エイリークとターナは幼なじみであり、いわば親友である。対して、など悲しいかな友人と呼べるのか怪しいほどの付き合いしかない。
確かに、エイリークは大変よくしてくれる。
ルネスに顔を出せば、必ずをお茶に誘ってくれるし、あまつさえ手ずから城下を案内してくれさえもする。
はわかっている。その優しさは、あまりに過ぎたるもので、己などには見合わないということを正しく理解している。ましてや、兄であるエフラムの好意を無碍にしたのだ。本来なら、不敬と罰せられたっておかしくはない。
「さん」
ぎゅ、とエイリークの両手が、の手を包み込んだ。
「私にとっては、ターナもさんも、同じくらい大切な存在です」
「もったいないお言葉です……」
「ねえ、ターナ……あなたがさんと仲良くしてくれたら、私は嬉しいわ」
の手を握ったまま、エイリークがターナに柔らかい笑みを向けた。言葉に詰まったターナが、思わずといったように半歩後ずさる。
「それに、さんは兄上に会いにきたのではないのだから、そうめくじらを立てなくてもいいでしょう?」
エイリークの言葉に、はターナと顔を見合わせた。きょとんとするに対し、ターナの顔がみるみる赤く染まる。そこに含まれる感情は恥じらい以外の何者でもなく、はその瞬間にようやく、ターナの気持ちを理解した。
「ほ、本当に?」
「え?」
「エフラムのこと、その、あなたは」
「ターナ王女様がご心配なさることは、誓ってありません」
不安げなターナの瞳を見つめ返して、は頷く。
ターナがほっと胸を撫で下ろすと同時に「だって、さんにはフォルデがいますものね」と、エイリークが微笑ましそうに言った。
「そうだったんだ……」
「ターナはこれから兄上のところに行くのね? チョコレートを渡すんでしょう」
「う、うん」
小さな紙袋を、ターナが大事そうに胸に抱く。
ルネス王国には、冬の終わりが近づくこの時期に、愛の祭りと呼ばれる行事がある。
チョコレートという冬の間にしか出回らない特別な菓子を、女性が愛を込めて想い人へと贈る日とされている。まだ雪を残すなか、街は露店で賑わい、人々の活気によって寒さも吹き飛ぶほどの盛り上がりを見せるらしい。
生まれも育ちもグラド帝国であるは、聞くも見るも初めてである。
「それなら私は、邪魔しないように兄上には後で渡すわね」
「ありがと、エイリーク。それと、……さん。勘違いして、ひどい態度をとってごめんなさい」
「い、いえ! ターナ王女様が謝る必要はありませんっ」
フレリアの王女に頭を下げられて恐縮すれば、ターナがくすりと笑って踵を返した。高く結われた豊かな髪が、機嫌よさそうに跳ねながら遠ざかっていく。
「では、さん。愛のお祭り、楽しんできてくださいね」
そう言ってエイリークが背中を押してくれた先には、フォルデがいた。
「フォルデさん! いらっしゃったなら、声をかけてくれればよかったのに」
「今来たとこだよ。それに、エイリーク様たちとの歓談を妨げるわけにはいかないだろ?」
壁に預けていた背を離しながら、フォルデが口を開く。もっともらしい言い分だが、その口元は揶揄いを含んでいた。
「……見てたんですね」
「うん? 言ったろ、今来たところだって」
くつりと笑って、フォルデがこちらに手を差し出す。
は手のひらをじっと見つめてから、己の手を重ねた。フォルデには強引さがない。それが慣れなくて、妙にむず痒いような気持ちになるが、同時に心地よくもあった。
指先が絡まって、包み込むように握られる。フォルデの手はいつも暖かい。
「俺に会いに来た、って胸張って言ってくれていいんだけど?」
繋いだ手をゆるく引き寄せながら、フォルデが顔を覗き込んでくる。フォルデの前髪が、さらりと額をくすぐった。近くに迫った若葉色の瞳は愉快げに細められている。
「もうっ、やっぱり見ていたんじゃないですか」
「困ったの顔、可愛かったなぁ」
「か……」
思わず言葉を失い、はフォルデの顔を凝視した。フォルデの笑った顔が近づいてきて、はわずかに背を反らす。ふ、とフォルデの唇から笑みが漏れた。
すり、と擦り合わせるように額が触れ合う。ぎゅうと繋いだ手に力が込められた。
「その顔も可愛い」
「や、やめてください」
は恥ずかしさに耐えられず、ふいと顔を背けた。
「それと、今日の格好もめちゃくちゃ可愛い」
フォルデのやわらかい声がさらに降ってきて、頬に集まった熱が首元まで侵食してくる。
「よしよし。いい具合に身体が温まったところで、出かけるとしよう」
フォルデが優しくの手を引いた。
ゆっくりとした歩みは、に気を遣ってくれているのだとわかる。
つま先ばかりを見ていた視線を、そろりとあげる。馬の尾ように揺れるフォルデの後ろ髪を見つめていると、フォルデがふいに振り返った。
目を逸らす暇もなく、は動揺のあまりたたらを踏んだ。
「おっと、」
フォルデがを抱き止める。鎧という隔たりがないせいで、フォルデの鍛えられた肉体がよくわかってしまう。
「す、すみません」
「すみません?」
おうむ返しされて、ははっと口元を押さえる。
フォルデは、がすぐに謝罪を口にすることをよしとしていない。ヴァルターのもとでは謝ってばかりだったせいで、反射的に口をついて出るのだ。
「……ありがとう、フォルデさん」
何だか気恥ずかしくて、俯きがちに告げた言葉に、フォルデが満足げに笑った。
頬を撫でる冷たい風は、同時に甘く芳しい香りを運んできた。わあ、と感嘆の声が漏れて、白く煙となって消える。
「すごいです、フォルデさん!」
眼前に広がる光景は、にはまるで宝石箱のように煌めいて見えた。露店は色鮮やかな花々に彩られ、まるで一足先に春を迎えたようである。
は興奮冷めやらぬまま、フォルデを振り返る。
フォルデの瞳のなかに祭りの景色が映って、万華鏡みたいだった。はしゃぐ自分の姿をそこに見つけて、ははっとする。
「やだ、わたし、子どもみたいに……」
「いいんだよ、それで。祭りなんて楽しんでなんぼだろ」
思わず、ごめんなさいと口にしそうになって、は唇に指先を添える。
人混みに流されてしまわぬように、フォルデがそっとを抱き寄せた。「それに」と、フォルデの口が耳元に迫る。
「の楽しそうな顔が見れて、俺は嬉しいよ」
ちゅ、と音を立てて唇が離れていって、は慌てて耳を押さえた。
「フォ、フォルデさん」
フォルデは決して強引ではない。
けれど、好きだという想いは、あけすけにぶつけてくる。
羞恥からつい責めるような声音が出てしまったが、フォルデはどこ吹く風である。慣れた様子で露店から造花を貰うと、の髪へと差し込んだ。
「庶民の間では、恋人はこうして同じ色の花を身につけるのさ。チョコレートが高級品だった頃の名残らしいぜ」
「エイリーク様は知らないだろうな」と、得意げに言いながら、フォルデがに花を握らせる。
「ほら、髪でもどこでも、お好きなところにどうぞ」
ぱちりと片目を瞑って、フォルデがおどける。
言われてから周囲を見てみれば、なるほど確かに、同じ色の花を身につけた男女の姿が多く見受けられた。フォルデも過去に、ではない誰かとこうして祭りを楽しんだのだろうか。
フォルデのくれる好きに対して、十分の一ほども返すことができていないくせに、嫉妬ばかりは一人前だ。
むくりともたげた後ろ暗い感情に蓋をして、はフォルデの胸ポケットへと花を差し込んだ。この先ずっと、フォルデと同じ色の花は、自分がつけていたい──
「?」
黙りこくったの顔を、フォルデが覗き込んでくる。はフォルデを睨むように見つめ返した。
鞄の中から取り出したチョコレートの包装が、握りしめすぎてくしゃりと歪む。
「好きです、フォルデさん」
緊張で震えた声は喧騒に紛れてしまいそうだったが、きちんと届いたらしい。フォルデが目を丸くする。
「あなたの優しさに甘えてばかりで、いつまでも決心がつかなくて……」
故郷を離れることに不安があったし、失礼を働いたエフラムの治めるルネスの地を踏むことにも抵抗があった。けれど、そんなことは些細なことだと思えるくらいに、フォルデが好きだ。フォルデの気持ちに応えたい。
「ルネスに来ます。あなたの傍に、ずっといたい」
フォルデの手がチョコレートを受け取ると同時、繋がった手が引っ張られる。
を胸は広くて、ぎゅうと包み込まれる腕の力強さに、少しの息苦しさと途方もない安心感を覚える。は目を閉じて、フォルデの胸に顔を埋めた。
「愛してる、」
先ほどのと違って照れのない、真っ直ぐな言葉だった。
「あー……この名場面、絵として残しておきたいくらいだ」
気の抜けたフォルデの声に、は顔をあげた。優しい笑みとともに、フォルデの指先がのまなじりをなぞって、涙を拭きとる。
途端にワッと声が沸いて、あたりが拍手に包まれる。
冷静になるととんでもないことをしてしまったことに気がついて、は顔を赤くすればいいのか青くすればいいのか、もはやわからなかった。対して、フォルデは堂々としている。
「ここにいるみんなが証人だ。前言撤回は許さないぜ?」
フォルデの唇がこめかみに触れる。赤くなった顔を俯かせながら、は小さく呟く。
「証人がいなくたって、前言撤回なんてしません」
「そりゃよかった」
フォルデがあんまり嬉しそうに言うので、はしばらく顔をあげられなかった。女性が愛を告げるのはずなのに、今日も今日とて、愛を囁くのはフォルデばかりである。
ふいに、フォルデが手にしていたのチョコレートに唇を寄せた。
「来年も楽しみにしてる」
やわらかくて甘い声に、はチョコレートのように溶けてしまいそうだった。