残業を終え、地下鉄で席を確保して、そこでようやくは尾形から着信があったことに気がついた。珍しい、と今しがたパソコンに向き合って疲れた目を瞬かせる。
 2件の不在着信──一度目の30分後にかかってきたっきり、もうすでに2時間も経過している。

 留守電も残っていなければ、メールもLINEもない。何の用事がまったく見当がつかなかった。
 そもそも、尾形が連絡してくること自体、稀なことだ。はLINEの画面を開いて、しかし、返信に迷う。

 電話に出られなくてごめんなさい。いま、仕事が終わったところです。
 あまりに無難で素っ気ないような気がして、打った文章を消した。かといって、どんな言葉を選べばよいのか、疲れきった頭では考えることすら億劫だった。

「もしもし、尾形さん?」

 そうこうしているうちに、地下鉄を降りて、地上に続く階段を登り切ってしまう。ここまで来たら、家までもうすぐだ。電話したほうが早い。

『……遅かったな』

 尾形の低音が、スマホを通して耳に直接響く。相変わらずいい声をしていて、背筋が震えるような感覚がした。
 もっと尾形の声を聞いていたいところだが、返事をしないわけにはいかない。

「すみません、仕事が長引いて」
『今どこにいる?』
「あ、もう地下鉄を降りて、アパートが見えて……」

 ひゅう、と吹きつける風に首をすくめる。小さく身体を震わせながら顔をあげて、は目を丸くする。
 こらから帰るアパートの自室の窓に、明かりが灯っていた。

「あれ? 尾形さん、部屋にいます?」
『ああ。さっさと帰ってくるんだな』

 ぷつっ、と電話が切れる。
 はスマホを鞄にしまうと、アパートに向かって駆け出した。尾形がいる、と思うと不思議と足が軽くなった。


 顔がにやけるのを抑えられない。
 はドアノブに手をかけて、一度深呼吸して緩んだ口元を引き締める。走ったせいで乱れた前髪を指先で整えてから、はドアを開けた。

 尾形とは恋人同士ではあるが、密に連絡を取り合うような仲ではない。何となく、そういうのは鬱陶しがられそうな気がして、から連絡するのは控えている。
 だからこそ、こうやって尾形から連絡をもらえることが、すごくうれしい。

「た、ただいま……」

 自分の家だというのに、何だか緊張してしまって、声がうわずった。

「遅ぇ」
「仕事だったんですよぅ。それに、来るなら事前に教えてください」

 にべもなく言われて、はむっと口を尖らせる。けれども、尾形に会えたうれしさから、すぐにその表情は崩れてしまう。
 尾形はスーツのジャケットを脱いで、ネクタイを取り払い、首元のボタンを緩めたシャツ姿だ。ビシッと決まったスーツ姿も格好いいが、少しラフな今の姿も格好いい。襟から覗いた喉元がひどく色っぽかった。

 はらりと落ちた前髪を掻き上げた尾形が、にやりと笑う。

「どこ見てるんだ?」
「べ、へつに、どこだっていいじゃないですか」

 は慌てて顔を背け、コートとジャケットを脱いだ。部屋着に着替えたかったけれど、それよりも先に尾形に触れたかった。
 二人がけのソファの真ん中なら腰掛ける尾形の隣に、は無理やり身を入り込ませる。

「もうすこし、寄ってくださ──

 ふっ、と顔に影がかかる。
 尾形の重心が移動したのを感じたとき、の唇は塞がれていた。は驚きに見開いた瞳を、一拍遅れでぎゅうと瞑る。

 背中がソファーの座面に触れて、押し倒されたのだとわかる。それはわかったけれど、尾形の考えはまったく読めない。戸惑っていると、尾形の肉厚な舌がの唇を割り入ってくる。

「……っん、」

 びくっ、と跳ねた指先が、尾形のシャツを掴んで皺を作った。尾形の手がゆるりとうなじを撫でる。

「や……っ」

 ぞわりとした感覚が背筋を駆け上り、は小さく身を震わせた。
 一度、尾形の唇が離れる。は薄目を開けて、尾形の表情をそっと確認する。ふ、と笑う気配がして、尾形の瞳が愉快げに細められた。

「やらしい顔」

 ぼそりと呟くと同時に、噛みつくように唇が再び覆い被さる。そんな顔していない、と文句を言いたかったが、言葉を紡げるわけもない。
 竦んで引っ込んだ舌を、尾形の舌に絡めとられる。うなじに添えられていた手が動いて、背中を通り腰元までなぞるようにして降りてくる。ぴくん、といちいち跳ねてしまう身体が恥ずかしくて、憎らしい。

 ぬるりと舌が絡み合い、ざらりとした表面を擦りつけられる。ぴちゃりと湿った音が、静かな部屋ではやけに耳についた。
 ちゅっ、とわざとらしく音を立てて、尾形の唇が離れていく。は背けた顔を片手で覆う。

「仕事が忙しいのは知ってたからな、どうせこんなこったろうと思ってたぜ」
「……な、にが」

 真っ赤な顔を見られたくなくて、尾形のほうを向けないし、手を避けられない。
 尾形の言っている意味が、にはまったくもってわからなかった。

「お疲れ」

 ややおざなりな言い方で、尾形の低い声が落ちた。ぐい、と顎を掴まれたかと思えば、の手のひらなどものともせず唇が合わさる。

 甘い香りがした。
 尾形の舌と共に、小さな固形物が口内に入り込んでくる。

「ん……!」

 次第に、それが舌の上で形をなくしていくのを感じる。チョコレートだ、と理解するのは早かった。でも何故チョコレートなのか──と、ははっとしてカレンダーを横目で見た。

「っは、きょ、う」

 今日は2月14日、つまりバレンタインデーである。全然気づかなかった。
 よみがえるのは、先月末のデートでの出来事である。仕事が立て込んでいることを愚痴ったりしつつ、それでもバレンタインは一緒に過ごそうと言ったのはだ。
 尾形は淡白で、連絡だってまめではない。イベントくらいは、恋人らしいことがしたいと思うのも仕方がないだろう。

 チョコレートが溶けきってようやく、尾形の唇が離れる。は潤んだ瞳で尾形を見つめた。

「バレンタインにはおいしいもの食べましょう、って言ったのはわたしなのに……ごめんなさい」
「構わん。言っただろ? こんなこったろうと思ってた、飯も済ませた」
「う……恥ずかしながら、わたしもおにぎり食べちゃいました。あっ、でもバレンタインのチョコレートはだいぶ前に用意して」

 ソファーから立ち上がろうとするがしかし、尾形に両手首を縫いつけられて、は身動きが取れなくなる。

「チョコならここにある。十分だろ?」

 スラックスの尻ポケットからチョコレートを取り出した尾形が、にやりと口角を上げる。金色の包み紙を開いて、四角いチョコレートをの口に無理やり押し込む。
 尾形の指が歯列をなぞった。

「……」

 は何も言えずに、ふにゃりと眉尻を下げる。圧倒的に、非があるのはだからこそ、文句も言えない。

「……さて、美味いもんをたらふく喰わせてもらうとするか」

 わざとらしく口を開けた尾形が迫り、は大人しく目を閉じた。

37℃でとろかせて

(互いの体温が、溶け合って混じりあう)