ガルグ=マクの浮き足立った雰囲気と、甘い香りに対し、フェリクスの機嫌が悪いのは明白だった。触らぬ神に祟りなし、とばかりに幼馴染を初めとして級友たちは遠巻きに見るばかりだったのだが、事件は起こった。

「何だこれは」

 地を這うような声が、唸るように告げた。
 フェリクスの斜め後ろの席であるには、よく見えた。フェリクスの机の中に、溢れんばかりの贈り物が詰め込まれている。

 愛の祭では、女性が愛を込めてチョコレート菓子を贈るらしい。手渡しされないところがフェリクスらしいが、それにしたって量が多い。十中八九、他学級の生徒だと思われるが、中にはチラチラとフェリクスを伺う青獅子の学級の女生徒もいる。
 フェリクスが取り出した小箱を手に「くだらん」と、忌々しげに呟く。舌打ちと共に、小箱が手の中でぐしゃりと歪んだ。

「フェリクス、いやあ人気者は辛いなぁ」
「黙れ」
「食べ物を粗末にするなんて、許されないわよ」
「知るか」

 見かねた幼馴染が声をかけるが、取りつく島もない。肩を竦めるシルヴァンとかぶりを振るイングリットが、顔を見合わせる。
 ディミトリまでもが腰を浮かしかけるも、フェリクスが鋭い視線でそれを制した。
 いくら幼馴染とはいえ、王子殿下に対する態度とは思えない。誰であれ歯に衣着せず、少しも物怖じしないフェリクスが、は密かに羨ましく思っている。ぼんやりとフェリクスらのやりとりを見つめながら、シルヴァンの言った“人気者”という言葉について考える。

 フェリクスはかのフラルダリウス家の嫡子である。
 ただ、暇さえあれば剣を振り、他者との関わりを煩わしがるそのとっつきにくさから、フェリクスに声をかける女生徒は皆無だ。冷たくあしらわれるのが目に見えている。
 けれども、案外面倒見がよく、何だかんだ言いつつも最終的には世話を焼いてくれる──ほどなく学園生活も一年になるのだから、その意外なやさしさを皆知っているのだ。表立った人気者ではないかもしれないが、こうしてこっそりと想いを抱く者は少なくないのだろう。


「……なるほど」

 はひとり納得し、小さく頷いた。
 そうか、フェリクスは人気者だったのか。そういった認識がなかった。

「おい、行くぞ」
「えっ?」

 ふいにフェリクスに腕を取られ、無理やり立たされる。「行くって、」これから授業が始まるというのに、何を言っているのだろう。訝しむのことなど無視して、フェリクスが歩き出す。

「イングリット、それはお前にやる」
「え! そ、そんな、いやそれよりもフェリクス、待ちなさい!」

 イングリットの声に振り向きもせず、フェリクスが教室を出ていく。もまた、引きずられるようにしながら教室を後にした。





 苛立ちを目一杯ぶつけるように、フェリクスが打ち込んでくる。その分、動きは単純で、合わせるのはそれほど難しくはない。の受け流すばかりの動きが気に食わなかったのか、フェリクスが舌を打って一度距離を取った。

「いい加減、お前からも来い」

 フェリクスが構え、剣先でを捉える。
 は少し乱れた息を整えて、フェリクスを見据えた。先刻、ディミトリへ向けた視線よりもよほど鋭く、深紅の瞳がを射抜いている。いつもこの瞬間、心が震えるような感覚を覚える。けれど、気づかないふりをしてきた。

 は強く踏み込む。剣と剣がぶつかって、金属音が鳴った。

「フェリクス」

 今日は女性が愛を告げる日だというのに、にはそれを伝える勇気もない。剣撃に紛れて聞こえないくらいの声量で「好き」と、呟く。

 は、ただ剣の腕が立つだけの平民だ。フェリクスと呼べるのも、こうして剣を打ち合うのも、来節を過ぎればもうないのだろう。
 アンナに乗せられて買ってしまったチョコレートが、ポケットの中で歪むのを感じる。

 一瞬だけ、はフェリクスから視線を逸らした。「隙だらけだな」と、フェリクスの声がすぐ傍で聞こえたときには、の腹部に衝撃が走った。綺麗に入った肘打ちに関心さえ覚えながら、は呻く。手から剣が落ちた。
 よろめいたの身体を、フェリクスが肩を掴んで支えてくれる。

「痛い……」
「フン、考え事をしているからだ。それで、これはどうするつもりだ?」

 フェリクスの手のうちに、ポケットにあったはずのチョコレートがあった。いつ盗られたのか全くわからない。ほんとうに隙だらけである。

「か、返して」
「くだらんな。お前まであの商人に乗せられたのか」
「返してってば」
「ほう? それは、俺以外に渡す奴がいるという意味か」

 フェリクスが深紅の瞳をすっと細める。怒りが滲んだように見えて、は思わず口ごもる。
 剣をしまったフェリクスが、ため息を吐いた。

「女神の塔で、俺は言ったはずだが」
「……え? 女神の塔……えっ? 言ったって?」

 ガルグ=マクの女神の塔の伝説を鼻で笑い飛ばしていたフェリクスから、そんな言葉が飛び出てくるとは思いもしなかった。静かな場所に行きたいというフェリクスに付き合って、女神の塔でひとときを過ごしたが、甘い言葉のひとつもなかったはずだ。
 ただ、これからもよき好敵手であれというような、物騒なことしか話さなかった。

「察しの悪い奴め」

 チッ、とフェリクスが舌打ちをする。

「確かにお前は剣の腕が立つ。だが、それだけでお前を付き合わせていると思っていたのか」

 思っていたと答えれば、剣で切り捨てられそうな雰囲気である。
 は視線を彷徨わせた。

「……正直、お前よりも腕の立つ奴もいるが、」
「フェリクス」

 はフェリクスの唇に指先を当てて、その先を遮る。
 今日は愛の祭、女性が愛を告げる日──はフェリクスの手からチョコレートを取り返して、差し出す。

「あなたが好きです」

 今度ははっきりと言うことができた。
 の手からチョコレートを奪うように受け取り、フェリクスが満足げに目を細めて笑んだ。



「しかし、俺が甘いものを好かんと知っていてよく……」
「これは! そんなに甘くないから、甘いのが苦手な人でも食べれるってアンナさんが」
「……お前、悪徳商法にすぐに引っかかりそうだな」

 ため息を吐いたフェリクスが包みを開けて、小さなハートの粒を取り出す。チョコレートを掴んだ指先が、の口に入り込む。
 指が離れたと同時に、フェリクスの唇が重なる。
 口の中で、チョコレートが溶けていく。甘い香りがするのに、少しの苦みを感じるような不思議な味だ。にゅるり、と舌が擦り合わされて、絡みつくのがチョコレートなのか唾液なのかよくわからない。

 フェリクスが離れる。「確かに、思っていたより甘くはないな」と呟いて、の唇を指先で拭った。そうして、指先についたチョコレートをフェリクスが舐めとる。

「味が、よくわからない……」

 ふ、とフェリクスが小さく笑い、の顔を覗き込んでくる。

「何だ、もう一個とおねだりか?」

 は慌てて首を横に振った。それなのに、フェリクスは離れずに距離を詰めてくる。
 を射抜く瞳が、獰猛な光を宿すようだった。剣を持つときよりも、更に鋭い。の背中がぞくりと震えた。

「ど、どうしたの? フェリクス、らしくない……」
「少し黙れ」

 再び唇が重なる。かすかに甘い香りが残っていた。
 チョコレートにお酒が入っていたと知るのは、が息を荒げて涙目になりながら、フェリクスをやっとのことで押し返してからである。

うんざりするほど甘やかに

(くらくらするのはお酒のせいじゃなくて)