ふぅ、と細く息を吐き出して、寝椅子に深く腰掛けたときだった。

「旦那様、ご存知ですか?」

 場違いなほどに明るい声のように聞こえた。
 シルヴァンにとってこの生家は、昔からそれほど居心地のよいところではなかったが、結婚してからというもの余計に息が詰まる。
自然と家からは足が遠のくばかりであるが、結局のところは帰ってくるほかない。
 幸いなのは、それを咎める者は誰もいないことだろうか。妻でさえも、何も言わないばかりか、ろくに顔を合わせやしない。

 口を利くのも億劫に思いながら、シルヴァンはゴーティエの侍女へと視線を投げた。
 小さな背は、こちらを振り返ることなく、暖炉に薪をくべている。

「……何を?」

 シルヴァンは、その背に向かって声を掛ける。さすがに、いたいけな少女を無視することは憚られた。
 その言葉を待ってました、と言わんばかりの顔で侍女が振り返る。キラキラとした瞳に、紅潮した頬──士官学校でもよく見たものだったが、そこに含まれる感情はまったく異なっているのだから、可笑しいものだ。

「愛のお祭りです!」

 ぱちん、と小さく音を立てて侍女が手を合わせる。

「愛の……」

 ひくりと頬が引き攣るのがわかる。
 愛だの恋だの、自分には縁遠い言葉であるとシルヴァンは知っている。

 しかし、シルヴァンの様子に気づく様子もなく、侍女がニコニコと笑いかけてくる。シルヴァンは、釣られるようにわずかに口角を上げた。

「はい! ほら、巷で話題になっているチョコレートですよ」
「ああ、チョコレート……」
「もちろん、旦那様も奥様に差し上げるんですよね?」
「…………は?」

 シルヴァンを見つめるその瞳には一点の曇りもない。続けられた言葉に、シルヴァンは頭を抱えたくなった。

「だって、旦那様と奥様は、とても仲のよいご夫婦ですもの!」

 この侍女の目は、ある意味曇っていた。



 シルヴァンとは、いわゆる政略結婚であるし、紛れもなく仮面夫婦である。
 仲を取り繕う必要などない、とすらシルヴァンは思っている。けれども、離縁などとなっては、色々と面倒くさい。貴族というのは不自由だ。

 のことが嫌いなわけではなかった。
 気に食わないところは多いが、ゴーティエ夫人としてよくやってくれていることには、感謝をしているくらいだ。もっとも、それを言葉にして伝えたことは一度もないし、これからも伝えるつもりはない。
 結婚してなお、悪癖の治らないシルヴァンを、幼なじみたちはこぞって責めた。
 ファーガス神聖王国に根付いた騎士道精神に基づく、やや潔癖のきらいのある真面目すぎる幼なじみたちである。仕方のないことだ。

 まるで、何も言わぬの代弁者と言わんばかりだった。そう──は、何も言わないのだ。いまだに続けている火遊びを咎めることもなければ、食事すらも共にしない夫に苦言を呈すこともなければ、文句のひとつも吐かない。
 ため息ひとつ、どういう意味を孕んでいるのか、シルヴァンには知る由もない。


 適当に買ってきたチョコレートを渡そうと思っていたが、侍女が「市販品なんて! ここはやっぱり手作りですっ」とうるさいせいで、シルヴァンは厨房に立つ羽目になった。
 鍋を火にかけながら、シルヴァンは士官学校時代を思い出す。担任と共に料理を作ったのは、一度や二度ではない。

「あら? 旦那様、意外と手際がよろしいのですね……」

 言われるがまま、チョコレートを刻んで湯煎にかけているだけだが、侍女が目を丸くしている。

「ま、手順どおりにやれば、大抵のことは上手くいくだろ」
「旦那様! ただのお菓子作りと侮っては痛い目をみますよ。チョコレートは繊細なんです」
「はいはい」
「さあ、お次はチョコレートを冷やして温度を下げますよ」

 氷の浮いた冷水の入った鉢が差し出される。
 ちゃぷん、とチョコレートの入った容器が水に触れて、小さく音を立てた。「チョコレートの中に水が入らないように、ご注意くださいね!」と、侍女が目を光らせる。

 チョコーレートが冷えて、かき混ぜるヘラが重みを増していく。
 溶かして固めるだけだと思っていたが、意外と手間がかかるものだ。ふと、何故こんなことに時間を割いているのか、馬鹿馬鹿しくすら思ってしまう。
 シルヴァンが作ったチョコレートを、果たしては食べたいと思うだろうか。

 俺なら、

「旦那様、ぼうっとしないでください! 気を緩めると、失敗してしまいますよ」

 シルヴァンは、はっとして手を動かす。受け取ってもらえるかは定かではないが、よもや失敗作を渡すわけにはいかなかった。
 そうして、侍女のおかげでそこそこ見栄えの良い仕上がりになったチョコレートを前に、シルヴァンはすぐには言葉が出なかった。作っているときは気に留める余裕がなかったが、大きな猪目型はまさしく大きな愛を示しているようにしか見えない。
 当たり前だが、シルヴァンにはそんな気持ちはこれっぽっちもない。

「これを、に渡すのか……」

 深いため息をつくシルヴァンの傍で「わあっ、旦那様すごくお上手です」と、侍女がはしゃいだ声を上げた。






 入り口で立ち尽くしたが、呆けた顔でシルヴァンを見つめる。
 言わんとすることは痛いほどにわかる。シルヴァンは肩を竦めて席を立つと「いつまでそうしているつもりだ?」と、恭しい仕草での手を取った。

「シルヴァン……何故、」

 が身体を捻って後ろを振り返る。背後に控えていた侍女が、にっこりと笑った。

「すぐにお食事をお持ちします!」
「あっ、ちょっと……」

 戸惑うを置いて、侍女が部屋を飛び出していく。
 シルヴァンは、動こうとしないの腰へと手を回した。不快そうに眉をひそめたが、シルヴァンを見上げる。

「ほら、とりあえず座れよ」

 椅子を引いてやると、が不服そうにしながらも腰を下ろした。シルヴァンはの正面に座る。
 肘をついて、が食事用の布を膝にかける様を、ぼんやりと見つめた。

 顔を合わせて、口を利いたのはいつぶりだろうか。はっきり言って、シルヴァンには見当もつかなかった。それぐらい、シルヴァンはを避けている。

「わたしの顔に何かついている? それとも、自分の妻の顔を忘れたのかしら?」

 伏せていた瞳をシルヴァンに向けて、が小首を傾げた。
 真っ直ぐすぎる視線に、思わずシルヴァンはたじろぐ。

 いつだって、真摯な瞳だった。
 侮蔑することもなく、責めることもなく、逃げるばかりのシルヴァンにいまだに向き合おうとしている。目を逸らすべきではないと知っているのに、シルヴァンはから視線を外した。言葉はひとつも出てこなかった。

「お待たせいたしました!」

 落ちた沈黙がひどく重くなる前に、侍女の明るい声がその場に響いた。

「あっ、食前酒! 忘れてました、ごめんなさいっ」
「構わないわ。そんなに待ってもいないし、ねぇシルヴァン?」
「……ああ、そうだな」

 酒を口にしたわけでもないのに、シルヴァンは苦いものを飲み込んだような気分になった。


 まさか、女性を前にしてこうも言葉が出ないとは、シルヴァンは夢にも思っていなかった。
 シルヴァンもも、早く食事を終えてしまいたいとばかりに、無言で食べ進めるばかりだ。食器の当たる音ひとつしない。支給する侍女がソワソワと視線を送ってくるが、シルヴァンは気づかないふりをした。

 が何を思っているのかは知らない。否、知ろうとすらしてこなかった。
 それでいいと思っていた──今だって、思っている。

 シルヴァンはおもむろに顔をあげた。それに気づいたが、倣うようにして手を止め、シルヴァンを見つめ返す。

「…………」

 が不思議そうに、瞬く。長いまつ毛が揺れる。
 見つめ合うシルヴァンたちをどう思ったのか知らないが、侍女が「そろそろお食後をご用意しますね」と、扉の向こうへと消えていく。
 ぱたん、と静かに閉められた扉の音が、やけに耳についた。

「……甘いものは好きか?」
「え?」
「甘いものは好きか、って聞いたんだよ」

 が唇に指を添えて、小さく笑った。

「真剣な顔で何を言うのかと思ったら、そんなこと? 身構えてしまったじゃない」

 くすくすとがなおも笑う。
 彼女が笑ったところなど、これまで見たことがあっただろうか。少なくとも、シルヴァンはすぐには思い出せなかった。

 こんな顔で、こんな声で、笑うのか。

「甘いものは好きよ」

 ようやく笑いを潜めて、が言った。その答えに安堵したのは、手間暇かけて作ったチョコレートが無駄にならずに済みそうだからで、それ以外の理由などない。

「ご用意できましたよ! お済みの皿をお下げしますねっ」

 さっ、と卓上を片付けた侍女が二人分の紅茶を淹れて、例のチョコレートをの前に差し出した。一方、シルヴァンの前には貝の形をした焼き菓子だ。
 「では、ごゆっくり」と、侍女がシルヴァンに耳打ちする。にも何か囁いて、侍女が部屋を後にする。

 猪目型のチョコレートから顔をあげたが、ふうと小さく息を吐いた。

「あなた、あの子にうまく乗せられたのね」

 シルヴァンは肩を竦める。うまくも何もない、ただ強引だっただけだ。

「愛のお祭り、王都のほうではずいぶん賑やかみたいね。お祭りをするにはこちらではまだ寒すぎるから、あまり流行っていないのよね」
「そうみたいだな。俺もよくは知らないが、チョコレートを贈るんだろ?」
「ええ。でも正確には、女性が男性に贈るのよ」

 焼き菓子に伸ばした手が、思わず止まる。

「そうなのか?」
「そうよ。あなたが知らないとは思わなかったわ」
「そりゃ、どういう意味……」
「すでに多くの女性から頂いているとばかり。でも、そう、今日は屋敷に居たのね」

 ふ、とが笑みをこぼした。「ああ、だから厨房には立ち入り禁止だったのね」と、ひとり頷き納得しているを見ながら、シルヴァンは脱力する。

「……街に出なくてよかったぜ」
「あら、どうして? あなただって甘いものは嫌いではないでしょう」

 確かに、甘いものは別段嫌いではない。けれど、愛を目に見える形で押し付けられるのは、ごめんである。
 ふと、シルヴァンは焼き菓子に目を留めた。

「じゃあこれは、が作ったのか?」

 指で摘んだ焼き菓子を見て、が目を細める。

「ええ、そうよ。本当にあなたの口に入るとは思っていなかったけれど」
「おいおい、つれないことを言うなよ」
「あら。わたしが作ったものは、食べる気になれないと言ったのは、あなたではなかったかしら?」

 が心底不思議そうな顔で、首を傾げた。
 シルヴァンは記憶を辿って、思わず指先で眉間を抑えた。そんな酷いことを──確かに、過去の自分はに直接言っていた。

「……悪かったよ」
「今さら、謝らなくたって結構よ」

 シルヴァンは恐々とを見やる。けれど、そこに怒りの表情はなかった。

「謝るならば、その時でなければ。抱いた悲しみも怒りも、今はもう過ぎたことなのだから」


 今に至るまで、シルヴァンは散々を傷つけてきたことだろう。その傷を癒す術などありはしない、と言われたような気がした。

 がチョコレートを小さく割って、その欠片を口にする。
 猪目型が真っ二つにされなくてよかったな、とシルヴァンは思って、愕然とする。猪目が二つに分かれたからと言って、何だと言うのだ。

「甘いわ」

 そう呟いたくせして、まるで苦いものを口にしたように、が渋い顔をした。「あなたとわたしが同じ気持ちなんて、あり得ない」と、小さな呟きは、シルヴァンの耳に届くことはなかった。
 その顔を見ながら口にした焼き菓子は、シルヴァン好みの甘過ぎない味付けだった。

 空になった器を前に、が布で口元を拭う。立ち上がろうとしたを思わず引き止めて、けれど、シルヴァンはその先の言葉に詰まる。

「まだ何か話があるのかしら? でしたら、食事はもう終えたのだから、部屋を訪ねてくださる? 夫婦ですもの、夫が妻の部屋を訪ねることは、何もおかしなことではないわよ」

 夫婦らしいことなど、してこなかった。
 シルヴァンは一度だって、の寝室に足を踏み入れたことはない。そう、一度たりともないのだ。

「……わかった」

 シルヴァンのその返事は、部屋を訪ねるほどの仲ではないことを認めたように聞こえたのだろう。が今度こそ席を立つ。

「そう。では、おやすみなさ──
「後で、部屋に行く。それでいいんだろ?」

 が溢れんばかりに目を見開き、シルヴァンを見た。

「俺が行く前に、寝るなよ」

 固まるの肩に手を置くと、その耳へと唇を寄せる。
 が慌てて後ずさる。そこに、いつもの洗練された振る舞いはなかった。
 近づいた瞬間に、ふわりと甘い香りがしたのは、チョコレートを食べたからだろうか。それとも、彼女自身の香水なのか、シルヴァンには判別がつかなかった。

「また後で、

 立ち尽くすから返事はなかったが、初めて見るその顔に満足しながら、部屋を後にする。
 「奥様! お顔が真っ赤ですわ、お熱でも!?」と、侍女の声が聞こえてきて、シルヴァンは忍笑いを漏らした。

dimmi cos'e l'amore

(愛とはなにか教えて)