アンナの触れ込みによって、士官学校の生徒は勿論、セイロス騎士や教会の人たちまでもが数日前からそわそわと落ち着かない様子だった。特別なお菓子、とやらに惹かれてアネットとメルセデスと共に市場に行ってみたが、あまりの人混みにはあえなく退散した。
そもそも、には愛を伝えるべく相手もいない。それ以前にあまり興味がない。
「なあ見ろよ、俺もまだまだ捨てたもんじゃないよなぁ」
重たげに紙袋を机に下ろし、シルヴァンがの隣に座った。「はあ、それはよかったですね」と、は冷たく言い放って席を立つ。
もう卒業まで日も少ないというのに、まだこの男に騙されている女性がいるのかと思うと憐れでならない。が色恋に興味を持てないのは、シルヴァンの所謂修羅場を数々目にしてきたせいというのが大きい。
「おいおい、待てって!」
慌てて腕を掴んでくるシルヴァンを、は冷たい目で見下ろした。背の高いシルヴァンを上から見ることがてきて、少し胸の内がすく。
「ほら、特別なお菓子がここに沢山あるぞ~」
「それはあなたが貰ったものでしょう」
「つっても、さすがに俺一人じゃ食いきれないしなぁ。捨てるよりマシだろ?」
「捨て……シルヴァン、それは許されないわよ」
「だろ?」と何故か得意げに笑って、シルヴァンが掴んだ腕を引っ張り、を半ば無理やり座らせる。
む、と不満げな顔をしながらも、特別なお菓子には興味がある。はちら、と袋の中身を見やる。色とりどりのリボンに包装紙が、紙袋から溢れそうになっている。
これらはすべて、シルヴァンへの愛だというのだろうか。は、視線をシルヴァンへと移す。
──もうすこし、うれしそうな顔をしたらどうだ。
はあ、とは小さくため息を吐いた。
「捨てられるのが忍びないだけだからね。お裾分け、されてあげる」
シルヴァンが「お裾分けされてあげるって何だよ」と笑った。その顔は、少しばかりうれしげに見えた。
シルヴァンが袋の中から包みを取り出し、リボンを解いていく。メッセージカードが挟まれているが、それに目を通すことなくシルヴァンが懐にしまった。
「これ、手作りみたいだけど、ほんとうにわたしが食べていいの?」
箱を開けると、ふわりと甘い香りがした。
チョコレートという特別なお菓子をふんだんに使ったと思われる、小ぶりのハート型のケーキがちょこんと鎮座している。ベイクドチーズケーキのような見た目で、ふんわりというよりもどっしりした生地だのようだ。
フォークで切り分けた一口分を、シルヴァンがに差し出す。
まずはシルヴァンが食べるべきでは? 自分で食べられるのにわざわざ食べさせる意味は?
色々と思うところはあったが、は目を伏せて躊躇いがちに口を開けた。
黙々と咀嚼する間も、シルヴァンがじっと見つめてくるので、なんだか居心地が悪い。
口の中で生地がホロリと崩れて、チョコレートの香りと甘みが広がった。きちんと嚥下してから「おいしい!」と、は思わずはしゃぐ。
「クッキーもあるぞ」
「むぐっ」
ひょいとクッキーを口に放り込まれ、はシルヴァンを睨む。
しかし、サクサクとしたクッキー生地に、小さなチョコレートの欠片が練り込まれていて、頬が緩むおいしさだ。
「おいしい~!」
自然とそう口にしてしまい、ははっと唇を押さえた。貴族らしからぬ振る舞いだったと恥じ入るが、シルヴァンがそんなことを気にするわけもなかった。あまりに長い付き合いの中で、シルヴァンにとっては、とっくのとうに貴族令嬢の枠を外れてしまっているのだ。
シルヴァンが新しい包みを開けて「おおっ、こいつはうまそうだ」と、大袈裟に言って見せるが、特段瞳を輝かせることも興奮した様子もない。
「ほら、あーん」
クリームがたっぷり絞られたカップケーキは、シルヴァンのために作られたものだ。は差し出されたそれに視線を落とし、それからシルヴァンを見上げる。
人に食べさせるばっかりで、シルヴァンまだ一口も口にしていないことに気づく。
口を開けば、ひょいとそれが口に放られる。が食べるために口を開いたのではないと、シルヴァンはわかっている。
「うまいか?」
頬杖をついたシルヴァンが尋ねる。は口を動かしながら、小さく頷いた。
「ねぇ、シルヴァン」
はハンカチで口元を拭う。
シルヴァンが小さなメッセージカードを、包装紙と間違えたような仕草で握り潰したのが見えた。は慌ててその手を掴み、くしゃくしゃになったカードを救出する。
「あなたは確かに恨みをたくさん買ってるだろうけど、殺そうだなんて思う人はいないわよ」
「……はは、何言ってんだよ」
「馬鹿ね、シルヴァン。入ってるのはせいぜい、あなたへの愛情でしょうに」
どうだかな、とシルヴァンが吐き捨てるように呟く。
「話したこともない子がこぞって俺に群がるんだ、嫌気も差すだろ」
「だからって……大体、ほんとうに毒でも入ってたらどうするのよ。わたしを殺す気?」
はため息を吐いて、メッセージカードの皺を丁寧に伸ばす。シルヴァンを一瞥して、はもう一度ため息をこぼした。
言葉に詰まって、シルヴァンが気まずそうに視線を逸らす。
「別に、毒見させてるつもりじゃなかったんだって! ただ、自分で食べるような気分にはなれなかったから、どうせならのうまそうに食う顔が見たかったっていうか」
やさしいあなたが好きです、という短い一言だけ書かれているカードを、はシルヴァンへと突き返した。
シルヴァンの上辺だけしか見ていない女子なんて、だって大嫌いだ。
「、ここにまだ付いてるぞ」
シルヴァンの指が、口の端をやさしく拭う。
仕方ないな、というふうに、シルヴァンが眉尻をほんのわずかに下げて破顔する。やわらかい眼差しが、をくすぐったいような恥ずかしいような気持ちにさせる。
恋人が欲しいなんて思ったことは一度だってない。けれども、幼い頃に抱いた淡い初恋は、まだの心の奥底に根づいているのだ。
いつまで経っても指が離れていかないので、は眉をひそめた。ぐい、と顎を持ち上げられて、じっと覗き込むようなシルヴァンの瞳と視線が交わる。
どきりとした。
けれど、それを誤魔化すように「離して、シルヴァン」と、は刺のある声で告げる。
「ああ、まだここにも付いてた」
どこに、と言いかけたが、それは声にならなかった。唇に触れる感触がなんなのか、の脳は理解を拒んだ。
ぺろ、とシルヴァンの舌先が唇の表面を舐め上げる。
「ん、甘いな。ごちそうさん」
シルヴァンの声がひどく近くで聞こえる。
「シル、」
「いや、いくら待ってもからの愛を貰えないみたいだからさ」
「意味がわからな」
「なら、貰いにいくしかないだろ?」
意味がわからない、と繰り返そうと口を開いたのに、言葉は音になる前にシルヴァンの口に呑み込まれてしまった。後頭部に回ったシルヴァンの手のひらが、顔を背けることを許さない。空いているもう一方の手が、の腰元を緩くなぞる。
流されてはいけない。は慌ててシルヴァンの胸板を押し返す。
渋々、と言った様子でほんのわずかな距離を開けて、シルヴァンが「何だよ」と不満げに問う。
「なんだよ、はこっちの台詞でしょう! 一体なんのつもり?」
「このまま卒業しちまうつもりか? 冗談よせよ。お前は俺が好きだろ?」
榛色の瞳が、の心の内までも覗くように、じっと見つめてくる。
「いつまでも幼馴染でいるつもりは、俺はない」
今更、好きだなんて口にできるはずがない。同様に、今更シルヴァンがを口説くなんてあり得ない。
「待って、ほんとうに意味が」
「信じられないか? まあ、そりゃそうだよなぁ。でも、ふと思っちまったんだ。こんだけ貰えても、お前から貰えないのは嫌だって」
それなのに、どうして目の前の男はこんなにも真剣な顔をしているのだろう。
の頭は混乱している。
「なあ、お前の愛を俺にくれよ」
シルヴァンが迫ってくる。そう言われても、の手元には何にもないのだ。シルヴァンだってそれを知っているだろうに、距離は迫ってくるばかりだ。
はぎゅっと目を閉じて、一瞬だけ唇を押しつける。稚拙すぎる口づけだが、にはこれが限界だった。「こ、これでいいでしょう!」と、はぐいぐいとシルヴァンを押し返した。
きょとんとした顔をしていたシルヴァンが、ぷっと小さく吹き出す。
「わかったわかった、にも心の準備が必要だもんなあ。今夜、お前の部屋にお邪魔するぜ」
シルヴァンの指先が頬をなぞって、離れていく。
了承なんてしていないのに、さっさと贈り物の山を紙袋に放ってシルヴァンがひらりと手を振って去っていく。上機嫌な背中に、は何も言うことができずに、ただ真っ赤な顔を俯かせた。