人差し指と親指の間で、キラキラと光るコイン。子どもの頃に幼馴染みがくれたそれは、今迄が彼に内緒で持っていた物だ。
あの時間は、今でも良く憶えている。
夜空に掲げたコインを見つめながら、は思い起こした。
国の状態に今ほど影が差し掛かっていなかった当時のキルヴァスでは、ベオクの船から奪った金品を、意中の異性、或いは親しみの在る間柄に贈るというのが子ども達の間で流行っていた。
奪取には、相手の隙を付いて素早く行動を取る事が重要である。唯の遊びでなくして一人前の鴉になる為の修行も兼ねているというだけに、これが中々難しい。然しそれだけ熱中するものであり、特に男子は度胸試し的な要素も加わって、一度は男を見せるべくしてやったものだ。
無論、クールを気取って傍観を決め込もうとしていた幼馴染みの彼――ネサラも、これには挑戦するしかなかった。も囃し立てたし、ネサラは彼女を見返してやろうと意気込んだ。
だが然し、結果は、良いものではなかった。苦し紛れにネサラがに渡したのは、海岸に打ち上げられていた船の残骸の近くに在った、小さなコインだった。
ネサラがそんな告白をしたのは、が異様に喜んだ顔を見せたからで。仲間を伝って失敗した事を知られる前に、自分で、自嘲しながらも皮肉を込めるように云ったのだった。
仕方無いよ、今日のは特別に警戒してる船だったみたいだから運が悪かったの――。
けれどはそう返して、もう一度「ありがとう」と嬉しそうに礼を云った。
――幼き日の想い出に、ふと笑みが漏れる。
にはそのコインが、頭上で煌めいている無数の星標よりも輝いて見えた。
「だけど、ネサラが本当になぁ……」
このキルヴァスの、国王になっただなんて。は独り呟いた。
彼が王になった、その御蔭で、自分はこんな哀愁に浸ってしまっている。彼は何とも思ってはいないだろうから、それが何だか悔しく、そして切なく虚しく思う。
昔のように、それまでのように、一緒に時間を過ごす事は出来ていないのに。
こんな事を思うのは、自分の我儘でしかないのかもしれない。けど彼が自分を見てくれなくなった事実を思うと、胸が苦しくなる。
彼は変わってしまったんじゃないか。そんな不安も、有る。
「俺が、何だって?」
不意に背後で、男の声がした。
自分の独り言に反応するものが在った事に驚くより、はその声の主自身に直ぐに驚いた。
「ネサラ! 居たの!」
は慌てたように、後ろに居る彼に振り向いた。
夜の為に暗くてあまり良く見えないが、ネサラは声と同じ、至って落ち着いた顔をしている。口角を意地悪そうに上げているのは、相変わらずだ。
それを見ると、は何だか落ち着けた。
「何してんだお前」
「ネサラこそ。ニアルチの講義は受けなくて良いの?」
「あのジジイは小言ばっかりで困るんだよ。俺はしっかりやれてるってのに」ネサラは大袈裟に溜め息を吐いた。「偶には休憩ってね。会議とか堅苦しい事ばかりしてきたしな」
「それで、抜け出してきたの? ネサラの為を思ってなのに、可哀想、ニアルチ。……後で小言が増えるだけだよ」
云いながら、の胸は躍っていた。久し振りの会話だ。
確かに、王座に就いてからというもの、彼には安らぐ時間が厭でも無かっただろう。そろそろ、自分のペースで自分のやりたいようにしたいと思う筈である。
「アイツ本当、坊ちゃま坊ちゃま五月蝿いんだよ。俺が王になってから更にだな。面倒な奴だぜ、俺のこと何時も見張るようにしてるし、要らない世話を焼きたがるし――」
ネサラが不満を喋り出す。こうして小言を並べるのはニアルチと変わらない気がする、とは思った。
“彼”を久し振りに見て、安堵する。反面、やはり隙間が存在している事を思い知り、哀しさが再び込み上げた。ネサラが延々と吐く愚痴が、遠くから聞こえるように感じる。
「で、お前は」
突然はっきりと、ネサラの声が耳に届いた。
「さっき、何か見ていたみたいだったが」
「え……べ、別に空見てただけだよ!」
驚きながら、先程咄嗟にコインを隠した手に力が篭った。は自分に投げ掛けられる、いかにも怪しんでいる視線に緊張した。
「う、うん、本当、今日は夜空が綺麗だな~」
笑って誤魔化してみる。けれども彼に通じる筈は無かった。
手中のコインを簡単に奪われては、それを見つめる彼の様子を伺った。何だコレ、なんて云いながら、まじまじと見ているのに、胸を刺される気持ちになる。会議だとか激務だとか王だとか、そんな隙間の事よりも辛く哀しい痛みだ。
忘れてしまうのは無理も無い。けれども積み重なった淋しさが、の双眸に涙を浮かばせた。
然し、
「……お前、まさかこのコイン……」
急にネサラが目を見開いて、信じられないというように云い出した。
「ずっと持っていたのか? あの時から、捨てもしないで……」
「え……?」
其処まで云われて漸く気が付く。の涙ははたと止まった。
恰好悪い物だっつーのに、今や王である俺に向かって見せてくれるとはねぇ……と、ネサラがぼやき終わるか終わらないかの内に、身体が彼のその胸に飛び込む。
「お、おい、おま……!」
「憶えてるなら直ぐに思い出してくれても良かったのに! 私、ネサラのこと、ずっと考えてたんだよ」
「?」
「ずっと一緒に居たんだもん、淋しくもなるよ……」
震えたの声に、ネサラは再び目を見開いた。そして、ああ、そうかと理解して小さく笑う。
「悪かったな、一生懸命で」
顔を俯かせているの頭にそっと手を置いて、撫でた。ネサラの表情は何時ものそれとあまり変わらなかったが、自分の身体を放さないでいるへの眼差しには特別な温かみが在った。
少ない光から僅かに見取れる、寂れた景色に向けて、コインを掲げる。ネサラは云った。
「俺は王になって、この国を必ず変える。そしたらお前を女王にでもしてやるんだって、そう決めてたんだよ」
が、え、と顔を上げた。涙を流していた眼が、ネサラの顔を捉えると同時に自分がしていた事を気付かせたが、何か言を発する前に、唇は塞がれた。
不意にされた口付けは、素直でやさしい味がした。
表裏無き、丸い想いを