の命があるのは、イシュメアのおかげである。
ジャハナでも名のある貴族の娘であったは、幼い頃より王宮に足しげく通い、数年前からはイシュメア付きの侍女に召し上げられた。
本来なら、がお守りすべきだったのに、イシュメアは「逃げなさい」と戦うすべを持たぬ家臣を王宮の抜け道へと導いてくれた。
最後まで嫌だと喚くの背を、イシュメアの手がやさしくも強く押しやったのだ。
「勝手だけれど、あなたを娘のように思っていました。、どうか無事で……」
「嫌です、陛下っ、イシュメア様!」
「…………あの子を、あまり怒らないであげてくださいね」
イシュメアが美しく微笑んだ。
必死に伸ばした手は、イシュメアに届くことはなかった。
背に触れたイシュメアの手の感触を、そのぬくもりを忘れたくなかった。
にとって王宮は家のようなものだったし、イシュメアにも主人として以上の親しみを覚えていた。いつか、ほんとうの母娘になれる日を夢見たこともあったが、それは十年程前に諦めざるを得なかった。
もはや、婚約者になるかもと幼い頃に引き合わされた王子の顔など、はすっかり忘れていた。
つもりだったけれど、一目見た瞬間に、彼がジャハナ王国王子たるヨシュアだとわかった。わかってしまった。
白砂の女王と名高きイシュメアに、よく似ていたのだ。
「陛下……」
だからは、握った拳をその頬に叩き込むことができなかった。幼い頃に出奔して、行方をくらませたヨシュアを糾弾したかったのに、涙が溢れるばかりで何ひとつ言葉にならなかった。
戸惑いがちに、ヨシュアの指先がの涙を拭った。
その仕草がやけに親しげで気安いので、は気分を害した。婚約者はいないが、は妙齢の貴族令嬢である。十年以上も会っていなければ、他人と言ってもいい。こんなふうに触れられる謂れはない。
思わず手を払えば、ヨシュアが気まずげに視線を落とした。躊躇うように、その唇が開いては閉じる。は濡れた瞳で、それをじっと見つめた。
「……帰るのが、遅くなった」
ヨシュアが小さく告げた言葉に「遅すぎるにもほどがあるでしょう」と、は白んだ目を向けた。
は、イシュメアの長い御髪が好きだった。櫛を通すのは自分だ、といつも譲らなかった。触れた赤い髪の感触が、イシュメアとは全く異なっていて、は眉をひそめた。
出奔してからいままで、ヨシュアがどう過ごしてきたかなんて、には興味がない。
手紙のひとつもよこさない親不孝者に、は憤りを覚えていた。イシュメアがどれだけヨシュアを心配し、胸を痛めていたのか、それを思うとどうしたって許す気にはなれないのだ。
しかし、すげない態度をとるたびにイシュメアの声が脳裏を過ぎる。
──あの子を、あまり怒らないであげてくださいね。
言われたあの時は”あの子”が誰かなんて考える余裕もなかったが、いまはそれがヨシュアを指していたのだとは理解している。
「殿下、御髪が痛んでおります」
「ん?」
髪をに好きにさせたまま、ヨシュアが手の中のコインをピンと弾いた。は思わず、宙に放られたコインを目で追いかける。
こんなコイン一枚が、の命運を変えてしまった。
ジャハナに残りたがったを、ヨシュアは強引に連れて行こうとした。
亡くなってなおイシュメアの近くにいたかったのに「ジャハナは危険だ」「俺が必ず守る」と、の手を握るヨシュアの眼差しは真摯だった。それでもかたくなに首を縦に振らないに対して、ヨシュアが賭けを持ちかけた。
なんてことはないコイントスである。果たして、はその賭けに負けてここにいるのだが、あとになって考えてみればあれはイカサマだったのかもしれない。
もっとも、イカサマをしてまでを傍に置きたい理由があるのかは、不明である。いまさら、幼い頃の思い出話を語り合うわけでもあるまい。
慣れた様子でヨシュアがコインを手中に収める。
おもむろに、ヨシュアが振り向いた。さらり、と髪が手からこぼれていく。
「その殿下ってやつ、そろそろやめにしないか?」
何故と聞いては面倒なことになりそうだったので、は微笑んで小首を傾げた。
「そうおっしゃられましても、殿下は殿下であらせられますもの」
「なら、その王子殿下の命令だって言ったらどうする?」
は内心でむっとするが、微笑みを崩さないまま「仰せのままに。なんとお呼びいたしましょうか」と答える。ヨシュアがつまらなそうに、小さく鼻を鳴らした。
「可愛くないな」
むかっとした気持ちが表に出てきそうで、は深呼吸をして怒りを逃す。イシュメアの言葉を胸に、は”あまり”ヨシュアに怒りをぶつけていない。
コインを弄んでいた手がに伸ばされて、指先が頬を撫でた。
「、いつまでへそを曲げているつもりだ? そりゃあ、置手紙ひとつで王宮を飛び出し、十年以上も音沙汰がない……っと、改めて口にするとひどいな」
「ご自覚がおありとは……」
「」
大げさに驚いてみせれば、ヨシュアがため息を吐いた。「悪かった。俺が、悪うございました」と、ヨシュアが両手を挙げて、首を垂れる。
は肩を滑り落ちていく、髪の毛を見つめた。
「だから、勘弁してくれ……」
「殿下、謝る相手をお間違いですよ。陛下はいつもあなたを思っておられました」
「……は?」
「え?」
思わぬ言葉に、は瞳を瞬く。
「は、俺を思ってくれなかったのか」
たじろぎ、後ずさったの腕を、ヨシュアが素早く掴んだ。はぎゅっと唇を結ぶ。
答えたくなかった。
置手紙ひとつで、帰りを待ち続けた馬鹿な女──同年代の令嬢たちが結婚していく中、婚約者もつくらずに年を重ねていくは、滑稽で憐れだったに違いない。
「……うぬぼれが過ぎますわ、殿下」
声が震えてしまわぬように、はぐっと腹に力を入れなければならなかった。ヨシュアの指先が腕に食い込む。
「あっ」
ふいに立ち上がったヨシュアが、の腕を引き寄せ、その身体をベッドに放った。安宿のベッドが軋む。「気が変わった」と、ヨシュアが意地悪げに口角を上げながら、を組み敷いた。
はいまにも飛び出しそうだった罵詈雑言を、ごくりと呑み込む。
「許してくれるまで待つつもりだったが、いくらなんでも強情が過ぎる」
「…………」
「こんなものを大事にとっていられたら、うぬぼれもするさ」
ぴら、とヨシュアが見せたのは、きちんとしまっていたはずの手紙だった。上質な紙で書かれたそれは、十年以上経つのに少しだけ色褪せた程度の変化しかない。
幼さの残る文字を見て、ヨシュアが目を細める。
「手癖が悪うございますね」
はせめてもの反撃として、嫌味をぶつけた。しかし、ヨシュアは痛くもかゆくもなさそうに、ふふんと笑う。
「恋文でも眺めているかと思えば、こんな置手紙をまだ持っているとはな。俺を信じて、待ってくれていたんだろう?」
王に相応しき男になって帰る。どうか、待っていてくれ。
そう書いてある手紙から、はふいと顔を背けた。
こんなもの、さっさと捨ててしまえばよかった。恋心と一緒に、きれいさっぱり。そうしたらきっと、胸が軋むように痛むことはなかったし、みっともない泣き顔をヨシュアに晒さずに済んだ。
頬を伝い落ちていく涙を、ヨシュアの唇が食んだ。ちゅ、ちゅと小さく音を立てる唇が、そっと目尻に押し当てられる。ヨシュアの長い髪が頬に触れ、首筋を撫でていく。
「どうしても、捨てられなかったのです」
「……そうか」
「子どもの世迷いごとと一蹴されても、初恋は叶わぬものと嗤われても、現実を見なさいと諭されても、それでも捨てることができませんでした」
そうか、ともう一度ヨシュアが小さく呟く。
こつんと額を合わせて「ほんとうにすまない」と、懺悔するように言われては、だって怒りを持続するのが難しい。けれど、許すと口にする気にはまだなれなかった。
間近で視線が交わる。
お伺いを立てるみたいに、ヨシュアが鼻先を触れ合わせる。が瞼を下ろせば唇が重なった。
「初恋だって叶う。叶えてやる。だから、」
すり、とヨシュアの指先が手首をなぞる。
「俺の初恋も叶えてくれ」
涙が込み上げて、うんともすんとも言えなかった。こくりと小さく頷くを見て、ヨシュアが口角を上げる。
「好きだ、」
「……わたくしも、お慕いしています。ヨシュア様」
「様なんてつけるな」
「…………よ、ヨシュア」
ふ、と嬉しそうにヨシュアがまなじりをやわらげて、笑んだ。イシュメアを彷彿とさせた。
は思わず、ヨシュアをまじまじと見つめてしまった。
「陛下に、そっくり──」
驚きに漏れた言葉は、ヨシュアの口づけに?み込まれた。先ほどよりもずっと深い口づけに、うまく呼吸ができずに息が弾んでいく。ようやく解放された頃には、はすっかり肩で息をしていた。ヨシュアの呼吸はひとつも乱れていない。
「母上のほうが一緒にいた時間は長いが、俺のほうがを思っている」と、ヨシュアが不服そうに告げる。こんなことで嫉妬するなんて、可愛いところがあるものだ。
「存じております」
「ならいい……あまり、母上の話ばかりしてくれるなよ」
「肝に銘じます。ですが、陛下のほうがずっとお傍にいらしたのは事実です」
ヨシュアが小さくため息を吐く。
「……まだへそを曲げてるのか」
「ヨシュアもご存じの通り、わたくしは強情ですもの」
肩を竦めたヨシュアが「こんなじゃじゃ馬は、俺以外には手に負えない」と、小馬鹿にするように言った。む、と尖らせた唇を食まれ、舌で口を抉じ開けられる。
する、と服の中へ侵入してくる手に気づいて、は慌てた。
「ヨシュア……!」
「手癖が悪いもんでね」
悪びれる様子をみせないばかりか、の嫌味を逆手にとる始末である。
「ま、まだ日が高いのに」
「関係ないだろう」
「か、関係あります!」
「思いが通じ合ったのに、まだ我慢させる気か? 冗談だろ?」
「そ、それは……こ、コイントス! 賭けをしましょう」
仕方がない、というふうにヨシュアが身を起こし、コインを手にした。慣れた手つきでコインを弾くヨシュアは、勝ちを確信した顔でを見やる。
「裏か表か、どっちだ?」
コイントスはとんでもない悪手だった、とはそこでようやく気づいたのだった。