まるで抜き身の刃のようなひとだと思った。
こちらを見るその目の鋭さに、私は咄嗟に視線を逸らしてしまった。これまで召喚した英雄たちは、みんな初めから友好的で、こんなふうに冷たく見られたことがなかったのだ。
もっとも、その友好的な態度はすべて、ブレイザブリクの力による影響という可能性もある。だから、その影響を受けない英雄がいたって、なんら不思議ではないのかもしれない。私は、そろりと視線を向ける。
「……ルトガーだ」
耳を打つ声もまた冷たい。長めの前髪から覗く切れ長の瞳はあたりを見やってから、また私へと戻ってくる。
「俺を呼んだのはお前か。……用は?」
「私は召喚師のです。アスク王国のために、どうか力を貸してください」
にこりと笑って右手を差し出す。
ルトガーさんは、その手を見下ろしただけでうんともすんとも言わなかった。黙ったまま踵を返すルトガーさんのあとを、私は慌てて追いかける。
「る、ルトガーさん」
腕を掴もうと伸ばした手を、素早く払われる。じん、と痛む手のひらを胸に抱いて、私は呆然とルトガーさんを見つめた。「近づくな」と言われて、私の足は途端に地面にくっついてしまった。
「……サカの剣士だ。俺は敵を斬る。ただ、それだけだ」
それだけ言って、ルトガーさんがさっさと歩いて行ってしまう。私は立ち尽くしたまま、彼のなびく髪を見ていた。
ルトガーさんが特務機関のみんなと馴染む様子はなかったが、戦場では目覚ましい活躍を見せてくれた。そんなルトガーさんのことを、シャロン王女は「あの鋭い眼光はただ者ではないですね!」と称した。
サカ──草原の民は、同族を家族のように大事にすると聞いていた。
けれど、ルトガーさんはいつもひとりだった。まさに孤高と呼ぶにふさわしい。同じ世界からきた英雄のことも、ルトガーさんは避けている。
私は一度だって、彼の笑ったところを見たことがなかった。
夜の帳が下りた城内は薄暗く、静かだった。見回りは私の日課のひとつであり、慣れたものだ。ふいに前方に人影を捉えて、私は足を止めた。手にしていたランタンを掲げるが、明かりから逃れるように人影がすーっと暗闇の中に消えていく。
ひんやりと冷たいものが背中に冷たいものが走る。
幽霊が出るとか、そんな話は聞いたことない。聞いたことはない、けれど──
「…………」
私はごくりと唾を飲み込み、ぎゅうとランタンを握りしめた。息をひそめながら、人影の消えたほうへ近づいていく。ドキドキと心臓がうるさい。
気配は感じなかった。
薄らとシーツのようなものが揺らめいて見えて、私はひゅっと鋭く息を吸い込んだ。それが悲鳴として吐き出されるより早く、唇が何かに覆われる。
あまりの驚きにランタンを手放してしまう。しかし、それが床に落ちることはなかった。
「──!」
ランタンを掴む手があった。
私はその手を見つめ、恐る恐る足元へと視線を落とした。足があることを確認してから、私はようやく顔をあげた。
シーツのように見えたのは、なんてことはない目深にかぶったフードだった。
私の唇を覆っていたのは手で、離れていったそれがフードを下ろす。
「る、るる、る」
きつねを呼んでいるわけではない。ただ、ショックが大きすぎて、口がうまく動いてくれないだけである。
私を見下ろす鋭い瞳に、呆れた色が浮かんだような気がした。
「こんな時間に何をしている」
「み、見回りです」
「…………」
思わず上ずった声で答えれば、ルトガーさんは胡乱げに、私の頭のてっぺんからつま先へと視線を走らせた。何も悪いことはしていないのに、私はぎゅっと首を竦めた。
「……目障りだ、うろつくな」
ひどい言われようだった。二の句が継げない私にランタンを握らせると、ルトガーさんはさっさと踵を返してしまう。
私はいつかと同じように、彼のなびく髪を見ることしかできなかった。
私の小さなため息を聞き洩らさなかったシャロン王女が「どうしました?」と、顔を覗き込んでくる。
シャロン王女は、私が召喚した英雄ではないのに、とても友好的で気さくだ。
「ええと」
「あなたのシャロンに、なんでも相談してください!」
えへん、とばかりに、シャロン王女が胸を張る。
どうしよう。
ここで断っては、シャロン王女の厚意を無碍にしてしまう。私は周囲を見やり、人気がないことを確認すると、口を開いた。
「ルトガーさんに……嫌われている、気がして」
「えっ! まさか、さんが?」
シャロン王女が目を丸くする。大きな瞳を二、三度瞬いたシャロン王女が、難しい顔をしながら頷く。
「でも、さんの気持ちはわかります。わたしも何度か話しかけようとしたんですけど、すぐにどこかに行っちゃって声すらかけられないんです」
こんなに友好的なシャロン王女すら仲良くなれないのなら、私が親しくなれるわけがないのかもしれない。
「ルトガーさんは一族をベルンに滅ぼされて、天涯孤独という辛い身の上ですからね……人を寄せつけないのも、そんな境遇のせいかもしれません」
「天涯孤独……」
英雄と仲良くなりたいと公言し、新しく召喚された英雄を観察して”英雄の書”に記録するシャロン王女は、私よりもよっぽど英雄について詳しい。
天涯孤独の身だなんて。
私の表情が沈んだことに気づいて、シャロン王女が慌てる。
「あっ、その、だから! さんが嫌われているなんてことはないと思います!」
「でも……」
「だって、ほんとうに嫌われているなら、こうして一緒に戦ってくれることもありませんよ。ね?」
そう、なのだろうか。いまいち納得しきれずに首を捻ると、シャロン王女が眉毛を八の字にしながらも「さん、シャロンを信じてください」と、胸を叩いた。
「ルトガーさ──」
キラ、と光ったのは刀身だ。
そう認識できたのは、はらりと前髪がいくつか散ってからだった。遅れて身がすくむ。
「不用意に近づくな」
いつも以上に鋭い視線が私を射抜く。剣を収めながら「ここは戦場だ」と、ルトガーさんが告げた。
「け、怪我の、確認を、」
恐怖で声が震える。いや、声だけじゃなくて、身体も震えていた。
ルトガーさんはそんな私を一瞥して、煩わしそうにため息を吐く。これでも嫌われていないのだろうか。シャロン王女に聞きたい。
「深手は負っていない」
私は声もなく、頷くのが精いっぱいだった。
「…………悪かった」
小さくそう言ったルトガーさんの顔は、少しばかりばつが悪そうだった。
私は唇を結んだまま、首を横に振る。戦場で気が立っているのに、呑気に近づいた私にも落ち度はある。
「お前のほうこそ、怪我はしていないか」
いつになく、気遣わしげな声音だった。「大丈夫です」と何とか答えると、ルトガーさんはほんのわずかに、表情を緩めた。私は、そんな顔もできるのだな、と思ったのだった。
前髪を切り揃えたら、少し短くなりすぎてしまった。私はそれが恥ずかしくて、隠すためにフードを目深にかぶるしかなかった。でも、そのせいでよく前が見えなくなってしまった。
ぐい、とふいに肩を掴まれて、身体が後ろに傾く。
「前をよく見ろ。柱にぶつかる」
耳に落ちる声が近い。私は驚きをもって振り返った。
「ルトガーさん、」
顔をあげた拍子にフードが落ちて、切り過ぎた前髪があらわになる。一瞬だけ、ルトガーさんが瞠目する。間近で見たその瞳は、光の加減によって琥珀のように輝いて見えた。
視線が吸い込まれる。
ルトガーさんの眉根がぐっと寄ったかと思えば「すまない」と、小さな声が告げた。
すまない? その謝罪の理由がわからずに、目を瞬く。
ルトガーさんの視線の先が額に向いていることに気づいて、私は慌てて片手で前髪を押さえた。恥ずかしい。見られてしまった。
「あ」
手首を掴まれて、手を退けられる。俯こうとした私の顎を、ルトガーさんのもう一方の手が引っ掴んだ。なんて手荒い顎クイだろうか。ときめきも何もあったものじゃない。
「傷はないようだな」
ルトガーさんがほっとした様子で呟いた。
私は思わず、じっとルトガーさんを見つめてしまった。ルトガーさんは、そんな私の視線を振り切るようにして、足早に立ち去っていく。
「あれっ、さん。前髪切ったんですね!」
シャロンに声をかけられるまで、フードを戻すことすら忘れ、私は呆然とその場に立ち尽くしていたのだった。
私は気がつけば、ルトガーさんの姿を探し、目で追いかけてしまっていた。
彼の知らなかった一面に、びっくりしたせいだろうか。気遣わしげな声だったり、ほっとした様子だったりに信じられない気持ちで、それらを確かめるために──と、考えてはみたものの、どれもこれも言いわけじみていた。
ルトガーさんのことが気になる。少し伸びた前髪に触れながら、私はそれを認める。自分の気持ちをいつまでも誤魔化すわけにもいかなかった。
暇さえあれば、ルトガーさんは剣を振るっていた。私は遠くから、ぼんやりとその様子を眺める。
一族を滅ぼしたベルンへの復讐のために、彼はその剣技を磨き続けているのだという。
「弱い者は死ぬ……か」
いつだったか、ルトガーさんが漏らした言葉を口にする。
この特務機関で最弱と言える私がこうして生きていられるのは、アルフォンス王子たちや英雄たちのおかげと言うほかない。私にも戦える力があれば、と思うが、この貧弱な腕では細身の剣だって満足に扱えそうになかった。
ぼんやりしていた私は、ルトガーさんの鋭い視線がこちらに向けられていることに、ちっとも気づかなかった。
揺らめくランタンが人影を浮かび上がらせた。明かりに照らされ、眩しそうに目を細めるのはルトガーさんだった。暗闇に逃げ込む気配はない。
「ルトガーさん、こんばんは。夜更かしは体に毒ですよ」
「…………」
ふい、と顔を背けながら、ルトガーさんがフードをかぶる。その姿を幽霊と間違えた私は、なんて滑稽だったのだろう。思い出し笑いを漏らした私を、ルトガーさんが横目に見やった。
はっとして、慌てて口元を手で押さえる。
ルトガーさんは何も言わなかった。ただ、視線を感じて、私はそろりとルトガーさんを見上げる。
「うろつくなと言ったはずだ」
すげない言葉と共に、ルトガーさんの手のひらが私の視線を遮った。
私は納得のいかない気持ちで、その手を押しのけた。そうして「見回りも、私の仕事のひとつです」と、言い返す。
ルトガーさんが眉をひそめる。ふと、私の視線はルトガーさんの目元に留まった。隈ができている。
「ルトガーさん、顔色が……」
よくないように見えたが、フードが邪魔でルトガーさんの顔がはっきりと見えない。
私は確かめるために近づいたが、近づいた距離分ルトガーさんが後退する。ルトガーさんはフードを目深にかぶり、視線を合わせようとしない。
「……あまり、近づくな」
言われた通り私は近づくのを諦め、距離を保ったまま口を開く。
「具合が悪いんですか?」
「……違う」
「でも」
「夢見が悪かっただけだ。もういいだろう、さっさと行け」
ルトガーさんが背を向ける。その背中が遠ざかってしまう前に、私はルトガーさんの腕を掴んだ。ルトガーさんは反射的に振り払おうとして、しかし、それをとどまったようだった。
アルフォンス王子は、英雄と親しくするべきではないと言っていた。私は、そのとき、何と答えたんだっけ。
──いずれにせよ、もう手遅れだ。
ぎゅ、と腕を掴む手に力を込める。ルトガーさんから戸惑う気配がする。
力んで強張った私の指先を、存外慎重そうに、ルトガーさんは一本一本剥がしていく。
「同情はいらん。施しは受けない」
「そんなんじゃありません」
語気を強めた私に驚いたのか、ルトガーさんがわずかに目を見開く。私は手が離れてしまう前に、もう一度ルトガーさんの腕を掴み直した。
「私の気持ちを、同情だなんて言葉で片づけるのは、やめてください」
ルトガーさんは今度こそ、煩わしげに乱暴に私の手を振り払った。
「お前に、俺の何がわかる」
「わかりません。わからないから、知りたいんです。それは、おかしなことですか?」
「……俺にかまうな」
「私は! あなたのことが知りたいし、あなたに私を知ってほしいと──」
踵を返したルトガーさんに、なおも追い縋る。思わず、私は声を張り上げてしまっていた。
だって、ルトガーさんが行ってしまう。もう、彼の背中が小さくなっていくのを、黙って見ているのは嫌だった。
いつかと同じように、ルトガーさんの手のひらが私の口を覆い隠した。廊下がしんと静まり返る。
「……わかった。わかったから、静かにしろ。」
ルトガーさんがため息交じりに言って、仕方がないというふうに小さく笑った。
私は無意識に、ルトガーさんの顔に手を伸ばしていた。指先が頬に触れても、彼は払いのけなかった。ルトガーさんが笑ったことが、信じられなかった。
「名前、覚えてくれていたんですね」
ルトガーさんの手が離れると、私の口からはそんな呟きが漏れた。「当り前だ」と心外そうに答えたルトガーさんが、顔に触れたままの私の手を握る。
「……今日はもう遅い。さっさと休め」
そう言って歩き出した方向は、私の部屋だった。
いつの間にか、ルトガーさんがランタンを持って、空いた手は私の手を引いていた。
「お前は変な女だ」
相変わらず剣を振るばかりのルトガーさんを、以前よりもずっと近い位置で見つめていれば、ぽつりと呟かれる。
「そうですか?」
「……俺の剣は血にまみれている。普通は、近づこうなどと思わぬ」
「そう、でしょうか?」
ルトガーさんが剣をしまい、こちらに近づいてくる。
私が差し出したタオルを受け取ったルトガーさんが、何か言いたげにしながらも口を噤んで汗を拭う。
「ルトガーさん?」
おもむろに、ルトガーさんの手が伸びて、私の前髪に触れた。「いつか、お前を傷つけるかもしれない」と、懺悔するような口ぶりで、ルトガーさんの指先が傷ひとつない私の額を撫ぜた。
ルトガーさんは自分の剣を復讐の剣と言うけれど、私にとってはとても頼りになる剣であることには変わりがない。
私は、ぽすんとルトガーさんの胸に頭を預けた。
ルトガーさんが驚き、狼狽える。だけれども、決して私を突き放したりはしない。
「……そのときは、ルトガーさんに責任を取ってもらいます」
そう告げれば、ルトガーさんは「なに?」と瞠目してから、フッと笑みをこぼした。
「”そのとき”で、いいのか? 」
「え?」
驚き、狼狽えるのは、今度は私の番だった。
その言葉の意味を理解して、じわじわと顔に熱が集まってくる。赤くなった顔を見られるのが恥ずかしくて、私は慌ててフードをかぶる。
「」
ルトガーさんの手が、まるでベールを上げるみたいにして、フードを脱がせてしまう。そっと視線を合わせるルトガーさんから、目が逸らせない。
ルトガーさんとの距離がなくなって、ふわりと汗のにおいがした。
「……おい、。手を退けろ」
手のひらに、ルトガーさんの唇の感触がある。私の頭の中は、恥ずかしさで爆発しそうだった。
「だ、だ、だめです。こ、こんなところで」
ぐい、と手首を掴まれる。あっと思ったときには、唇が重なっていて、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
思わず、そのまま身を委ねてしまいたくなる。
──だめだめだめ!
ルトガーさんの胸を叩けばあっさりと唇は離れて、ちょっとだけ残念に思う私を見透かすように「……続きは今夜に」と、耳元に声が落ちた。