今夜はいつもより、言葉数が少なかった。なるほど、お疲れなのだなとは解釈して、同様に口を噤んだ。
 マークスの眉間に刻まれた深い皺をちらりと見やり、は眉尻を下げる。確かに呼び出されたはずなのに、まったく歓迎されていないようだった。沈黙のなか、コポコポと紅茶をそそぐ音がやけに耳につく。

 何か粗相をしてしまっただろうか。
 内心で首を捻るも、心当たりがありすぎて、は途方に暮れる。フェリシアほどのミスはおかしていないはずだが、使用人としてあるまじき姿を晒してきたのは確かだ。マークスと同じベッドで目を覚ましたことは、記憶に新しい。
 朝日に照らされて透ける金の髪、彫刻のような筋肉の陰影──余計なことまで思い起こされて、は慌ててかぶりを振った。

 たぶんきっと、今夜は紅茶を飲んで終わるに違いない。そういう雰囲気である。

「マークスさま、紅茶が入りました」

 カップを差し出すと、マークスが唇を結んだまま一瞥をくれた。
 ただそれだけのことに、は緊張を覚える。マークスの唇が動くのを見て、何か叱責を受けるのかとは咄嗟に目を伏せた。



 はい、とは答えて、おもむろに視線を上げた。レオンによく似た色の瞳に射抜かれて、一瞬だけ息が詰まる。
 テーブルのカップには手をつけず、マークスが立ち上がった。
 思わず顔を伏せそうになるが、は身じろぐことなく、マークスを見つめる。近づく距離に身体が震えそうだった。心臓が激しく打ち出すのは、叱責を恐れてのことではない。

 ──期待しているのだ。
 はそうと気づいて恥じ入るが、俯くことはできなかった。

 の前に立ったマークスが、ぐっとより一層眉間に深い皺を刻んだ。やはり何か粗相を、と腹部で重ねた手のひらに冷や汗が滲む。

「……レオンは、何か言っていたか」
「え? い、いいえ、言付けは何もありません」
「そうか」

 小さく頷いて、マークスが押し黙る。は困惑しながら、マークスを見上げた。
 しばし、見つめ合ったのちにマークスが気まずげに視線を逸らした。はますます困惑する。
 レオンとマークスの間に何かあったのかと考えるが、思い当たる節はない。の八の字に下がった眉を見て、マークスが「いや」「その」と言葉を探しているようだが、果たしてその口は一文字に結ばれた。

「…………」

 マークスの言葉を待つほかないは、ぎゅっと己の手を握りしめる。の視線は自然と、マークスの眉間へと向いていた。深く刻まれたその皺を、解すことができたのなら──
 ふいに、マークスの指先がの頬を撫ぜた。

「あ……」

 思わず漏れた声を追うようにして、マークスの指が唇へと伸びる。ぴくり、と反射的に身体が揺れた。
 ふに、とマークスの親指の腹が下唇を押して、わずかに口を開かせた。その先を想像してしまって、の顔に熱が集まる。マークスが目を細めた。

 熱を持つ頬を指が走る。の身体が再び揺れると、マークスがぐっと眉をひそめた。

「あまり、可愛い反応をするな。このまま抱いてしまいそうだ」
「っ、」

 熱が全身をめぐるようだった。はあまりの恥ずかしさに、視線を彷徨わせた。
 マークスの手が離れていく。顔を伏せそうになるが、はぐっと堪えた。

「……すまない。私としたことが、緊張しているようだ」

 マークスがぎゅ、と指先で眉間を押さえた。
 緊張。思いもよらぬ言葉が飛び出してきたので、聞き間違いかと思うほどだった。はぽかんとマークスを見つめる。
 いつもよりも深い眉間の皺は緊張によるものだったのか、と納得するも、理由は皆目見当がつかない。

 すう、と小さく息を吸い込んだマークスが、片膝をついた。「えっ、ま、マークスさま!?」と、狼狽えるの左手をそうっと持ち上げたかと思えば、指先に唇が押し当てられる。

「な、え、」

 唖然としながらも、身体は動いていた。マークスよりも低く首を垂れたの頭上から、小さな笑い声が聞こえた。

「これを受け取ってくれ、

 視線の先、薬指に宝石が光っている。
 は慌てて顔をあげた。相変わらず険しい顔をしているが、それが疲労や怒りからくるものではないと知れば、先刻とは異なって見えた。マークスの頬が薄らと赤らんでいる。

 冗談でも、揶揄っているわけでもない。真摯な眼差しに視線が吸い込まれてしまいそうになって、はぎゅっと目を瞑って「なりません!」とかぶりを振った。

「わ、わたしは、一介のメイドで」
「そんなことは知っている」
「あの、その、でも」
「おまえは、私が何とも思わぬものを抱くような男だと?」

 立ち上がったマークスがひょいとを抱き上げて、そうっとベッドへと下ろした。混乱のせいで、マークスの言葉をうまく呑み込めない。目を白黒させるの顔を覗き込み、マークスがふっと笑みを漏らす。
 つい、は状況もすべて忘れて、見惚れてしまった。

 マークスの手がの左手を絡みとって、見せつけるように指先に口づけた。薬指の指輪にどうしても目がいってしまう。

「愛している、


 マークスは、暗夜王国の第一王子である。


 レオンの傍でその姿を拝見してきたは、それをよく理解している。
 おそらく、王城にいただけでは、言葉を交わすことはおろか視線さえ合わなかったに違いない。とマークスは、それほどまでに立場が違うのだ。

 首を縦には振れない。そうとわかっているのに、うれしさに身が打ち震えて、涙が零れ落ちた。
 マークスの指が、やさしくまなじりをなぞる。

「悪いが、是と言うまでこの部屋から帰す気はない」
「ま、マークスさま」
「……もっとも、是と言ったが最後──

 マークスの吐息が唇に触れる。美しい顔がぼやける距離に、は反射的に目を閉じた。閉じてしまった。

「今夜は寝かせてやれるかどうか」

 わずかに笑いを含んだ声が耳を打って、が何かを言うより早く、唇が重なった。
 はじめから、逃す機などさらさらないのだと、そこでようやくは悟ったのだった。



 すきです、愛しています、お慕いしています。その言葉を口にできたかどうかわからないほど、記憶があいまいだった。どこかから都合のよい夢を見ていたのではないか、と思って確認した左手の薬指には、見覚えのある指輪がはまっていた。
 マークスの腕の中、はその寝顔を見つめる。
 もう飛び起きる必要はないのだと思い、はたくましい胸へと頬を寄せた。

「お慕いしています、マークスさま」

 小さく呟けば、抱きしめるマークスの腕に力がこもった。「えっ」と顔をあげれば、つい先刻は閉じていたはずの瞳がじっとを見下ろしていた。

「お、起きていら」

 唇を掠めとられ、言葉が途切れる。「私もだ」と、ほとんど唇が触れ合う距離でマークスが囁く。ドキドキとうるさい鼓動は、きっと重なる素肌から伝わってしまっていることだろう。

「いいのか? そんな顔をして」
「え……」
「それではいつまでも、私の腕から抜け出せないと思うが」

 抜け出したくない、とは思った。それが顔に出ていたのか、マークスが困ったように笑みを零す。

「マークス兄さん」

 ノックの音と聞こえたその声に、の身体がぎくりと強張る。反射的に起き上がろうとしたを、マークスがぐっと抱き寄せた。

「悪いな、レオン。邪魔してくれるな」
「……ああ、なんだ。そういうこと。おめでとう、マークス兄さん。

 あっさりと扉の向こうの気配が消えていく。は、いったいどんな顔でレオンと会えばいいのか、と真っ赤になったその顔をマークスの胸に埋めた。






 遡ること数日前、レオンの部屋をマークスが訪ねていた。人払いをした室内には、レオンとマークスしかいない。ゼロあたりはどこかで聞き耳を立てているかもしれないが、気配はなかった。

「……は指輪を受け取ってくれるだろうか」

 いつになく真剣な顔をしているから、どれだけ深刻な話があるのかと思えばこれである。随分前にあつらえたはずの指輪は、まだ箱にしまわれたままのようだ。
 レオンは「さあ」と、素気なく答えて肩を竦めた。

「でもマークス兄さん、には王妃なんて荷が重いんじゃないかな」
「…………」

 レオンの言葉に、マークスの眉間の皺がぐっと深くなる。マークスを困らせるつもりではなかったが、レオンなりにを慮っているのである。
 もっとも、レオンにしてみれば当人同士が想い合っているのは明白であり、まだマークスが手をこまねいているとは意外であった。

「だが、私は諦めるつもりはない。たかが身分の差など、大したことではないからな」

 自信に満ち溢れたその顔は、レオンが焦がれ妬んできたものである。何もかもが完璧で追いつけない、その上レオンの大事なものを手にしようとしている。
 すこしの嫌味くらいは許されるだろう。

「僕に言うことじゃないと思うけど?」
「……それもそうだな」

 わざとらしく咳払いをして、マークスが立ち上がる。「時間をとらせて悪かった」と、踵を返すその背をレオンは白けた顔で見送った。
 兄と己の従者の恋愛事情など、別に知りたくはない。というか──

「とっくに、付き合っているんだとばかり」

 レオンは呆れたふうに小さく笑った。

おろしたての朝にくるまる

(もう、離しはしない)