名を呼ぶ朗らかな声と共に、パタパタと駆け寄る足音があった。振り向いた先にシャロンの姿を見つけて、は背筋を伸ばす。
いくら気さくであろうとも、相手は第一王女である。
畏まった態度をとると兄ともども寂しげにされてしまうが、いたって凡人であるが気おくれするのは当然だった。伝説の召喚師などという肩書きには、いつまでたっても慣れやしない。
おや、と思ったのは、シャロンがいつもの鎧を身に纏っていないからだった。ふわりとなびく金色の髪と一緒に、スカートの裾が広がっている。
「シャロン、どうしたんですか?」
「今日は、アンナ隊長にお休みをいただいたんです! なので、さんと一緒に過ごそうかと」
「……え? わ、わたしと?」
は思わず、ぽかんとシャロンを見つめた。
今日の予定は──と、思い返そうとしたところでシャロンが「だめですか?」と、眉尻を下げて小さく首を傾げる。は言葉に詰まった。まるで捨てられた子犬のようなこの顔に、はめっぽう弱い。ちなみに、まれにアルフォンスも同じような顔をするから困る。
「そうですよね、さんはお忙しいですもんね……」
しゅん、と肩を落とされて、はたじろぐ。「いや、えっと、その」と、視線をさまよわせてから、もう一度シャロンを見やる。心なし、その瞳が潤んでいるようにさえ見えた。
「大丈夫ですよ、一日くらい。シャロンに付き合います」
「ほ、ホントですか!」
シャロンが勢いよく顔をあげる。花が咲くようなその笑みを見て、は今日の予定をきれいさっぱり忘れることに決めたのだった。
決意したのはいいものの、は腐っても召喚師であった。
すれ違う英雄たちが漏れなく声をかけてくるため、足を止めざるを得ないのだ。お茶をするために向かっている中庭が、ひどく遠いような気がしてきた。
シャロンは気を悪くしていないだろうか、とちらりと見やるも、ニコニコとした笑みが返ってくるばかりで本心が見えない。
「おっ、。そちらの美しいお嬢さんは、新しい英雄ですか?」
「えっ?」
「俺はシルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ。お近づきになれたら嬉しいな」
恭しく手を持ち上げられたシャロンが、ぽかんとシルヴァンを見てから、困惑した顔でを振り返った。
は慌ててその手を振り解いて、シャロンとシルヴァンの間に身を滑り込ませた。
「見境のないひとですね。イングリットさんに言いつけますよ」
「うっ、いや、それは勘弁……」
「シルヴァンさん、ナンパはお断りです!」
「ん? もしかして、シャロン王女?」
「今日はわたしがさんを独り占めするんです」
ナンパされたのはではなく、シャロンなのだが──勝ち誇るような笑みを浮かべ、シャロンが見せつけるがごとく腕に絡まってくる。シルヴァンがさっと両手を挙げて降参のポーズをとった。
「わかりました、邪魔しませんよ」
「行きましょう、さん!」
満足げに頷いたシャロンが、絡ませた腕を引く。
「すみません。シャロンに付き合うと言いながら、足を止めてばかりで」
やはり、いい気分ではないだろうと思っての発言だったのだが、シャロンは不思議そうに首を傾げるばかりである。もまたその顔を見つめながら、首を捻った。
「えーっ、もしかして気にしていたんですか!? 全然、わたしはみなさんに囲まれたさんが誇らしくて、さすがだなって思っていたんですけど……」
「でも、」
「そんなさんが、わたしと一緒に過ごしてくれる、そう言ってくれたことがホントにうれしいんです」
ぎゅう、とシャロンがますます腕を絡ませてくる。
硬く冷たい鎧の感触ではない。ふわふわとして、ぬくい。
こうしていると、シャロンはただの女の子だった。シルヴァンが思わず声をかけずにはいられないような、美しい少女だった。戦いとは無縁の──と、ふと手のひらの感触が、自分とはまったく異なることには気づいた。
槍を握る手は、硬い。
「さ、中庭はもうすぐそこです! 行きましょう!」
その硬い手が、の手を握って走り出す。はぎゅっと手を握り返した。
中庭の東屋には、すでにお茶会の準備がなされていて、主役を待つばかりとなっていた。立ち止ったシャロンが、すこし畏まった態度でを振り返る。
「本日は、シャロンのお茶会にようこそ! 座ってください、さん」
はにかむシャロンが椅子を引いてくれるので、は言葉に甘えて腰を下ろした。
二人だけのお茶会というには、テーブルの上に所狭しと色とりどりの菓子が並べられている。シャロンがティーポットを手にし、手ずから紅茶を注いでくれる様子を、はぼんやりと眺めた。
「どうぞ!」
「ありがとうございます、シャロン」
「えへへ」
うれしそうに微笑むシャロンは、まるで主人に褒められた犬のようである。尻尾が生えていたなら、ぶんぶんと勢いよく振られているのだろうな、と想像しては小さく笑みを零した。
「さんは働きすぎなので、おいしいものを食べてもらおうといっぱい用意したんです!」
「は、働きすぎですか?」
「はい! 召喚はさんしかできないので仕方がないかもしれませんが、それにしたって見回りとか色々やっていて……わたしはさんが休んでいるところを見たことがありません」
シャロンがすこしだけ唇を尖らせる。
シャロンやアルフォンス、アンナだって働き詰めのような気がするが、と喉元まできた言葉をは慌てて飲み込んだ。シャロンが悲しげに目を伏せたからだ。
「わたしたちは──わたしは、さんがここに留まってくれているだけで、十分なんです」
向かいではなく、隣に座ったシャロンが、の手をそっと両手で包んだ。
「それだけじゃだめですよ。シャロンたちと一緒に、アスク王国を……世界を救うんですから」
口にしながらも、自分にそんな大それたことができるだろうか、という一抹の不安は拭えない。伏せられたシャロンの瞳がおもむろに、を映し出した。そこにあるのは、信頼だ。
「……はい!」
シャロンが力強く頷く。
ただそれだけで、の不安が消えていくようだった。この手がある限り、何があっても大丈夫だと思えるような気がした。
「でもさん、働きすぎはいけませんからね! わたしにできることがあれば、何でも言ってください!」
「なんでも?」
「はい、もちろんです! あっ、わたしだけじゃなくて、お兄様にだって」
「また、こんなふうに一緒に過ごしてくれますか?」
ふわ、とふいに吹き抜けた風がシャロンの髪をなびかせて、のフードをさらった。
覗き込んだシャロンの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「も、もーっ! ホントに人たらしなんですから!」
「え?」
「当り前じゃないですか、毎日だってわたしは大歓迎ですよ」
毎日はちょっと、と思わず苦笑すれば、シャロンが「そのくらい、些細なことっていう意味です!」と子どものようにぷくりと頬を膨らませた。
「ふふ、じゃあお願いしますね」
が微笑めば、シャロンの頬はすぐに萎んで破顔する。
「はい、約束です!」
笑顔の向こう、ぶんぶん揺れる尻尾が見えたような気がした。こんなふうに喜んでくれるなら、毎日でもいいかなとはほんのすこしだけ思い直すのだった。
「さん、食べましょうっ。わたし、これが好きなんです! あ、これもおすすめで」
「時間はいっぱいありますから、ゆっくり食べましょう」
「あっ、そうですね。今日一日、さんはわたしと一緒に過ごしてくれるんですもんね」
シャロンがあまりにうれしそうに言うので、は照れくさくなって、誤魔化すように菓子を口にした。口の中に広がる甘さがじんわりと身体に染み渡って、なんだかシャロンと過ごすこの時間のように思えた。
自然に頬が綻んだを見て、シャロンが一層笑みを深める。
「さん、大好きですっ」
に言わせてみれば、シャロンも十分人たらしである。