わたしの幼なじみは、頭の螺子がいくつも外れていた。正直言って、彼の嗜好には付いていけなかったし、いつその狂気が自分に向けられるかと怖くもあった。
だけど、天涯孤独のこの身にとって、江渡貝弥作はもはや家族に近かった。離れようと思ったことはなかった。
いずれ誰かが、彼の悪行を暴くのかも知れないと思っていた。そうしたら、わたしも弥作と一緒に地獄行きだと考えていた。わたしには、彼を止めることができなかったのだから、当然である。
鶴見中尉というお方は、わたしには、死神のように思えた。不吉な予感がした。
でも、弥作が目を輝かせて子どものようにはしゃぐから、ついぞそれを口にすることはできなかった。
「私を恨んでいるかね?」
鶴見中尉の問いに、すぐに答えることができなかった。
弥作は死んだ。わたしを残して、逝ってしまった。
それは、確かに悲しくて悔しくて、やりきれないことだ。わたしは彼の死に目にも会えなかった。でも、とわたしは思うのだ。
「いいえ。たぶん、弥作は、あなたに会えて幸せでした。この死も、彼にとっては誉れでしょう」
鶴見中尉に向かって、頭を下げる。
「恨んではおりません。むしろ、孤独な彼に寄り添ってくださったことを、感謝いたします」
わたしでは、到底無理だった。長年傍にいようとも、わたしの螺子が外れてくれることはなかった。「そうか」と、頭の上から降ってくる声は、存外やさしげに聞こえた。
「時に、君の髪は美しいな」
「……?」
顔をあげる。
鶴見中尉の黒い瞳は、吸い込まれるような不思議さと、深淵を覗き込むような不気味さがあった。す、と近づいた鶴見中尉の視線が、わたしの髪をなぞる。
「髪……ですか?」
時に、と前置きがあったとはいえ、あまりに唐突な言葉に理解が追いつかない。
鶴見中尉は視線を送るだけで、手で触れるような真似はしなかった。訳もわからず、首を傾げるばかりのわたしを見て、鶴見中尉が愉快そうに目を細めた。
「君と江渡貝君は幼なじみだったね? 月島の幼なじみの話は聞いたかな?」
「え……」
「“えご草ちゃん”と。何でも、えご草のような癖っ毛だったらしい」
わたしは言葉もなく、ただ鶴見中尉を見つめた。墨を垂らしたような双眸がそこにはあるだけで、何を考えているかなんて、わたしにわかるわけがなかった。
肩を滑り落ちたわたしの髪は、癖のひとつもなく、真っ直ぐである。
わたしに幼なじみがいたように、誰かに幼なじみがいるということは、何ら不思議なことではない。
幼なじみ──鶴見中尉はそうおっしゃったけれども、わたしには”えご草ちゃん”が月島さんにとって大切な存在であると思えてならなかった。
ごろんと寝返りを打って、月島さんのほうへと身を寄せる。
すると途端に月島さんがわたしに背中を向けた。もう寝入っていると思っていたが、まだ起きていたらしい。月島さんは基本、わたしに冷たい。これでも一応恋人で、だからこそ布団を共にしているはずなのに。
わたしは気にせずに、その背中に顔を埋めた。月島さんは微動だにしない。
「…………」
言いたいことや、聞きたいことは山ほどあった。だけど、そのどれもが言葉にならなかった。
月島さんに嫌われたくない。
けれど、小さな疑問が靄となって胸の中に広がっているような気分だった。わたしは月島さんのことを、まだよく知らない。元々月島さんは無口で、あまり自分のことを話すような方ではない。
「月島さん、あの、えご草ちゃん──」
がばり、と月島さんが身を起こした。その勢いのせいで顔を打ちつけたわたしは、鼻を押さえながら月島さんを見上げた。
月島さんは、見たことのない怖い顔をしていた。
わたしは言葉をなくすと同時に、顔色もなくした。言うべきではなかった、と後悔してももう遅い。謝らなければ、と思うのに恐怖に喉がぎゅうと詰まって、震える唇からは震える吐息ばかりが漏れた。
「……鶴見中尉か」
ふう、と小さく息を吐き出して、月島さんは眉間に深い皺を刻んだ。わたしを見下ろす視線に先ほどまでの鋭さはなく、顔にかかる髪の毛を月島さんの指先が払ってくれる。
「くだらないことを」
そう吐き捨てると、月島さんは再びわたしに背を向けて寝ころんだ。
わたしは呆然とその背中を見つめてから、月島さんが触れた髪に視線を落とした。
「……癖っ毛のほうが好きですか?」
「は?」
地を這うような声だった。わずかに首を反らして、月島さんが振り返る。わたしはその視線から逃れようと、ぴたりと額を背にくっつけた。
「わたしにとっては、くだらないことではありません」
わたしの声がくぐもって響く。月島さんが煩わしそうにため息を吐いた。
ごろり、と月島さんが身体をこちらに向けたが、わたしは顔をあげることができなかった。
「あなたは何もわかっていない」
月島さんが、もう一度ため息を吐いた。びくりと身を竦ませたわたしを宥めるように、月島さんの手が肩を撫で、背に流れる髪に触れた。
そろり、と視線を上げる。
いつもの月島さんだ。ちょっと不機嫌にも見えるそのお顔こそが、見慣れた安心できるものなのだ。
「鶴見中尉が何と言ったかは知らないが……癖毛だから好きになったんじゃない、好きになった人が癖毛だっただけだ」
「やっぱり、ただの幼なじみじゃないんですね……」
わたしがそう小さく呟けば、月島さんは苦虫を?み潰したような顔をした。たぶん、月島さんはわたしが鶴見中尉から、えご草ちゃんと恋仲だったと聞いていると思っていたのだろう。
「……過ぎたことだ。幼なじみと言うなら、あなたと江渡貝はどうだったんだ?」
「え? ありえません、弥作とは何もありません」
「ありえないことはないだろう。妙齢の男女だ」
「月島さん、弥作はほんとうにただの幼なじみなんです」
ぐ、と月島さんが眉根を寄せた。
弥作は家族同然で、もはや兄妹みたいなものだった。けれども──そうか、傍から見ればそうなのかもしれない。
「弥作弥作と……腹が立ってくる」と、月島さんがぼそりと呟いたかと思えば、わたしは彼に組み敷かれていた。どうしてこうなったのかわからずに、わたしはきょとんと瞳を瞬いた。
「俺の名前は知っているか、」
月島さんの低い声が降ってくる。
「は、基さん」
「」
「基さん……」
呼び慣れないその名前に、声が上ずってしまう。恥ずかしくて堪らないのに、月島さんの瞳から目を逸らすことができない。月島さんの手が、わたしの髪をそっと梳きすかす。
「あなたは本当に何もわかっていない。俺は、あなたを手離すつもりはない」
「……?」
「俺の目の届かぬ所へ置くつもりはない、ということだ。この先、死地へ行こうとも」
「……あなたがいるのなら、地獄でもお供します」
それは紛れもない本心だったのだが、月島さんは奇妙な間を開けてから「それは言い過ぎでは」と、胡乱な目を向けてきた。失礼しちゃう。
と、言ったものの、さすがに共に樺太の地を踏むことになるとは月島も予想していなかった。
を連れていくか否かはぎりぎりまで悩んだが「わたしを手離すんですか?」と、泣きそうな顔で言われては、月島とてぐうの音も出ない。ふわ、との吐息が白い靄となって立ち上る。月島は目を細めた。
の好意を利用しろと言ったのは、鶴見中尉だ。
彼女は所詮、江渡貝の代替品に過ぎなかった。月島もそのつもりだった──しかし、気がつけば、鶴見中尉に”用済み”と消されてしまうことが恐ろしくなった。
目の届かぬ所で、恋人を亡くすなんて、二度と御免である。
あれからが月島の幼なじみ──佐渡での呼び方は”いご草”──について口にすることはなかった。けれど、月島が髪に触れるたびに何か言いたげな目を向けてくることから、まだ気にしている節があった。口に出したことはないが、月島はの長く艶やかな髪が好きなのである。
いちいち気にするがいじらしく可愛らしいと思っているので、月島はこれからも口にすることはないだろう。
「基さん」
月島に気づいたが、寒さで赤くなった頬を緩めた。名前を呼ぶ際のぎこちなさはもうない。
吹き抜けた風がの髪をさらった。がぎゅ、と首を竦める。
「寒いですね」
「……そうだな」
月島は頷いて、の手を掴むと自身のポケットへと招き入れた。軍人として片手が塞がれることに抵抗はあったが、の嬉しそうな笑顔の前では些細なことである。
「ふふ、あたたかいです」
殺伐とは無縁なその顔と言葉こそが、月島を温めうるのだと、は知らない。
月島はぎゅうとの手を握りしめた。さっと周囲に視線を走らせると、月島はの唇を素早く奪った。丸く見開かれた目と視線が合って、月島は小さく笑った。
「ふ、不意打ちはずるいです……」
ぽぽぽ、と赤い頬がさらに赤くなるのを見て、月島はもう一度小さく笑みを零した。