白薔薇に指を這わせていたは、名を呼ばれて振り向いた。
 エリウッドの赤い髪が、白薔薇に紛れた一輪の真っ赤な薔薇のように見える。フェレ侯爵の座を継いだエリウッドの忙しさは理解している。彼がこの白薔薇の庭に足を運ぶのは、久しぶりのことだった。
 執務室から走ってきたのか、息こそ上がっていないものの髪が乱れていた。

「お茶の時間に間に合ったかな?」

 少しだけ困ったふうに微笑むエリウッドに近づいて、は手を伸ばした。「御髪が乱れていますよ」と言えば、エリウッドがの意図に気づいて身を屈めてくれる。指先で柔らかい髪を撫ぜて、は笑んだ。

「お急ぎにならなくても構いませんのに」
「久しぶりに時間が取れたからね。どうしても、君とのお茶に遅刻したくなくて」

 今さら追いついてきた従僕を片手で下がらせると、エリウッドがに手を差し出した。

「さあ、お茶にしよう」

 エリウッドがやさしく笑って、を席まで導いて椅子を引いてくれる。テーブルに並ぶお茶請けもティーカップも、すべてひとり分である。それに気づいたエリウッドが「突然すまない」とわずかに眉尻を下げた。

「すぐに準備できますから、大丈夫ですよ」

 エリウッドの姿を見つけた時点で、侍女が動いている。
 普段はひとりでこの白薔薇に囲まれてティータイムを過ごしているが、本来ならエリウッドと共有する時間なのだ。それなのに──ようやく落ち着いたかと思っていたが、爵位を継いですぐの頃のように、エリウッドは忙殺されている。
 は小首を傾げてエリウッドの顔を覗き込んだ。不思議そうに碧眼が見つめ返してくる。

「根を詰めすぎではありませんか?」
「え? いや……」
「最近、ディナーもご一緒できないでしょう。マーカスに聞いても”今限りですから”と言うばかり。わたしは心配です」

 身体が丈夫ではないことを知っているは、エリウッドがいつか倒れてしまうのではないかと不安なのだ。
 少しばかり怒った顔をしてみても、エリウッドは困ったように笑うだけだ。は小さく息を吐いて、かんばせを曇らせた。

「エリウッド、無理をしてはなりませんよ」
「もちろん、わかっているよ」

 頷くエリウッドに対し、はもう一度細く息を吐きだした。
 真面目な彼はとても領民思いで、身を粉にして侯爵としての務めを果たしている。まだ若輩と侮られることも多いが、昔なじみであるオスティア侯と協力しながら、リキア貴族の一角を担っている。

 若輩──こんなふうに爵位を継ぐとは、エリウッド本人だって思ってもいなかったはずだ。もまた、義父をこんなに早く亡くすとは想像していなかった。
 す、と伸ばされた手が重なって、は俯きそうになった顔をあげた。

「いただこうか」

 エリウッドのやさしい声は、紅茶に溶けていく角砂糖のように、の身体に沁みわたっていった。ふ、と自然と頬が緩んでしまう。
 手を重ね合わせたまま、エリウッドがティーカップに指をかけた。

「うん、おいしいね」
「あの、エリウッド。手を……」
「ん?」

 離してほしい、とはっきり言えないのは、本心では離してほしくないからだろうか。自身、理由がはっきりとわからなかった。けれど、片手でティーカップを持ち上げるのは、には難しい。
 言い淀むうちに、エリウッドがカップをソーサーに戻した。ぎゅ、と手を握られて、は閉口する。

「手が、どうかしたかい?」

 エリウッドが微笑んだまま、首を傾げた。赤い髪がさらりと揺れる。

 エリウッドの人差し指が、指の輪郭に沿って爪を撫でる。思わずぴくりと指先が跳ねれば、エリウッドがくすりと笑みを漏らした。眼差しは変わらずやさしげだったが、わずかに悪戯心が覗いている。
 くるり、との手の甲で人差し指は円を描いた。
 くすぐったくても、エリウッドの手の重みで逃げられない。は視線でエリウッドを咎める。

「はは、ごめん。きみが可愛くて」

 は無意識に離れていく手を目で追っていたことに気づいて、紅茶に視線を落とした。「砂糖とミルクは?」と、エリウッドがすかさず尋ねてくる。

「いえ、結構です。お気遣いありがとうございます」

 もう十分甘いような気がして、はかぶりを振った。
 ティーカップを持ち上げるとふわりと紅茶が香って、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。


「……? はい、」

 何でしょう、と続くはずの言葉が途切れる。

「おいしいから食べてごらん」

 エリウッドが手にしたクッキーは、いまにもの唇に触れそうだ。
 悪意のかけらもない期待に満ちた碧眼を前に、自分で食べられるという言葉を飲み込んで、はおずおずと口を開いた。クッキーをの口に差し込んで、エリウッドが満足げに笑んだ。

「おいしいかい?」
「……はい」

 よかった、と小さく零しながら、エリウッドの親指が口角を拭っていく。エリウッドはたまに、を子どもか何かと勘違いしているのではないか、と思うほどに甘やかしてくる。が口を開くより先に「ああ、すまない」と、エリウッドが眉尻を下げた。

「きみの照れた顔が見たくてね」

 は慌てて赤くなった頬を手のひらで隠したのだった。



 執務室へと戻るエリウッドの足取りは、来たときと違ってゆっくりしていた。てっきり、急いで戻るとばかり思っていたにとって、うれしい誤算だった。
 エリウッドの腕に手を絡ませて、白薔薇の庭を歩く。いつまでもこの時間が続いてくれれば、と思わずにはいられない。

 忙しいのは、ほんとうに”今限り”なのだろうか。
 そう思いながら、はちらりとエリウッドの横顔を見上げた。視線に気づいたエリウッドが振り向いて、微笑みかけてくれる。

「エリウッド、」

 その先の言葉は、慎重に選ばなければならない。
 フェレ侯夫人たるもの、わがままを言って困らせるわけにはいかないのだ。

「今年の白薔薇も、見事でしょう?」

 はどう言うべきか迷って、時間稼ぎのために白薔薇を指先で愛でるふりをした。予想していた「そうだね」という返事はなかった。
 が振り向くより早く、エリウッドの腕に後ろから抱きすくめられる。一瞬、息が詰まった。

「エリ──
「寂しい思いをさせてすまない。色々と、きみには我慢をさせてしまっているね」
「…………」

 大丈夫だと言いたいのに、唇がうまく動いてくれない。は、エリウッドの腕にそっと手を添えた。

「もうすぐ、収穫祭があるだろう? 、きみとその日を過ごすために、仕事を前倒しで片づけていたんだ」
「え……?」
を想っていたけど……こんなふうにきみを悲しませては、本末転倒だね」

 エリウッドの苦笑が耳元に落ちる。
 そうか、とはそこでようやく収穫祭の時期だったのだと気づいた。フェレのみならず、エレブ大陸を巻き込んだ戦いによって、しばらく祭りどころではなかったため失念していた。

「わたしの、ために」
「もちろんだよ。僕は、いつもきみを想っている。フェレ侯爵である前に、エリウッドというひとりの男だからね」

 どきりと心臓が跳ねる。
 結婚してから、初めて迎える収穫祭である。にぎやかな祭りはも好きだった。なかでも記憶に残っているのは、お祭り好きの義母が、義父と夜中まで楽しげに踊っている姿だ。
 いつか、もエリウッドとそんなふうになるのだろうか、と幼い頃は想像したものだ。

「エリウッド、これでは抱きしめ返すことができません」
「え?」
「いま、わたしは猛烈に、あなたをぎゅーっとしたいのです」
、」

 戸惑いながらも、エリウッドの腕が緩む。は素早く振り向くと、エリウッドの背に手を回した。
 白薔薇の香りではなく、エリウッドのにおいがを包む。エリウッドの胸に顔をうずめれば、やさしく両腕がを抱きしめた。

「エルバートさまとエレノアさまのように、踊ってくださいましね?」
「もちろんだよ」

 髪の毛にエリウッドの唇が触れたことに気づいて、は顔をあげた。どちらともなく唇をそっと重ねて、間近で視線を交わして微笑み合う。

「間違っても足を踏んでしまわないように、練習が必要かな?」

 収穫祭の踊りは、決して格式ばったものではなく、楽しく身体を揺らせばいいのだ。だというのに、エリウッドときたら、まるで舞踏会に誘うようにしての手を取った。
 手を引かれれば、自然と足が動いてしまう。
 ふいに、エリウッドがの身体を抱き上げて、くるりと回った。

「きゃっ……エリウッド!」
「はは、楽しい収穫祭になりそうだね」

 白薔薇の庭に楽しげな笑い声が満ちる。
 「コホン」と、咳払いに振り向けば、フェレ騎士のマーカスが立っていた。とエリウッドは顔を見合わせる。

「仲が良いのはよろしいですが、そろそろ……従僕が泣きついてきましたぞ、エリウッド様」
「ああ、すまない。そうだね、仕事に戻ろう」
「エリウッド、どうか無理はなさらないでくださいね」
「もちろん。、また夕食で」

 去り際に、エリウッドがの指先にキスを落とした。マーカスがもう一度、小さく咳ばらいをする。
 はその手を胸に抱いて「お待ちしています」と、微笑んだ。


 フェレ家には、美しい白薔薇の庭がある。それは、エリウッドが愛する妻のために誂えてものであることは、有名なのろけ話である。そしてその白薔薇に、赤い薔薇が紛れるようにしてエリウッドの姿があった、というのも有名な話だ。

ヴィクトリアン・ローズのふたり

(寄り添って、重なって)