部屋に足を踏み入れてすぐに、違和感に気づいたは立ち止まった。
小さくため息を漏らして、はベッドのほうへと足を向ける。初めての経験ではなかった。それどころか、城にいたときはしょっちゅうだった。使用人の部屋にも鍵はあるが、そんなものはゼロの前には無意味だった。その気になれば、ゼロはレオンの寝所にだって侵入できるだろう。怒られるからやらないだけだ。
「ゼロ」
「おやおや、我が主は人遣いが荒い。こんなに遅くまでお前を働かせるなんて、イケナイな……」
ベッドでくつろいでいたゼロが、おもむろに身を起こした。いつから部屋にいたのか知らないが、寝転がっていたせいで、髪が乱れていた。
は呆れた顔をして、銀灰色の髪に指を通す。ゼロが猫のように隻眼を細めた。
「いけないのはあなたでしょう、ゼロ。勝手にひとの部屋に入って」
何を言っても無駄だということはわかっていた。の小言など、ゼロの耳を右から左へ流れていくのだ。そのため、度が過ぎることはレオンに報告することにしているが、こうして部屋に侵入されることはまだ伝えたことはない。取るに足らないことだと思っているし、ゼロがこうして勝手に部屋に上がり込んでいるときは、彼が少しばかり弱っている時だと知っているからだ。
軍内において、ゼロの立場は理解しているつもりだ。
あいつをどうにかしてくれ、という声はあちらこちらから聞こえてくるものの、今日は特に何も耳にした記憶はない。
ゼロが言った通り、夜遅くまで働かされたのだからすぐにでも休みたいところではある。は小さく息を吐いて、苦笑を漏らした。
「紅茶でも淹れようか?」
「へえ、お優しいな。だが……今夜は遠慮させてもらう」
ゼロに素早く手を掴まれる。は動きを止めたが、その手が離れていく気配がない。
「ゼロ?」
浅黒い手がの手を開かせた。じ、と手のひらに視線を注ぎながら、親指が手の輪郭をなぞっていく。「お前の手はきれいだな」と、ぽつりとゼロが呟く。
きれいと言われた手を見下ろす。清潔にしているつもりではあるが、暗器を握る手には小さな傷も多いし、水仕事のせいでやや荒れてもいる。よく美しい手を白魚のようなと称するが、それとは程遠い。もっとも、ゼロが言いたいのは見目のことではないことくらい、わかっていた。
「そう、かな……」
は小首を傾げる。手を握ったまま、ゼロが顔をあげた。
レオンの専属メイドであるは、彼のために暗器を振るってきた。ゼロと同じように、後ろ暗いことだってやってきたと思っている。
ゼロが過去、どのような場所でどのように過ごしてきたのかは、もちろん知っている。
はゼロの手をそっと握り返した。
「わたしの手がきれいなら、ゼロの手だってきれいなはずよ」
「……まさか」
「どうして? ゼロったら、変なことを言うのね」
「……お前と俺は違う」
ゼロが払うようにして手を解いた。「違うって?」と、は瞳を瞬かせる。
「何もかも違うだろう? お前はレオン様に仕えるべく仕えた人間で、俺はたまたま拾われただけのヤツさ」
「ゼロ、何が言いたいの?」
「盗みを働いたことがあるか? 食うに困ったことがあるか? その身を売ったことがあるか?」
囁きながら、ゼロがその手をの胸元へと這わせた。は浅黒い指が、膨らみに沈むのを黙って見つめる。ゼロが面白くなさそうに舌打ちして、あっさりと手を離した。
貧困街に足を踏み入れたことはあっても、そこでの生活をが経験したことなどない。所詮は貴族であり、”お坊ちゃん”と言われるような生活をしてきた。けれど、何もかも違うなどと言って、勝手に線引きされることは我慢ならない。
は唇を結んだまま、ゼロの顔に手を伸ばす。
警戒はない。はそれをいいことに、眼帯に指をひっかけるとそのまま奪い去った。
「っ……!」
「どう? 盗んでやったわよ。これでひとつ、あなたに近づいた?」
「な……」
「それで? 空腹にあえいでいる姿でも見たい? わたしが身売りをしたら満足できる?」
右目を押さえるゼロの肩に手を添えると、はそのままベッドへと押し倒した。目を丸くしたゼロを見下ろしながら、馬乗りになる。
ふ、ゼロが口角を上げる。
「……いいね、ゾクゾクしちまうな。次は……どうする?」
こんな状況においても、減らない口である。は少しだけむっとしながらゼロの唇に人差し指を押し当てた。
「いい加減にして。回りくどいと、夜が明けてしまうわ」
触れた唇が、力むのがわかった。
うっとりとした表情を奥に引っ込めて、ゼロが不機嫌そうに顔を背けた。言いたくない、ということなのだろう。けれど、本心はそうではない。部屋を去ろうとしないのがその証拠だ。
「なぁに、ゼロ。聞きわけのない子どもみたい」
「聞きわけがよかった記憶なんてないがな」
ふん、とゼロが軽く鼻を鳴らす。あっと思う間もなく、開いた口がの指先に噛みついた。軽く歯を押し当てながら、指先に舌を絡ませてくる。
は反射的に飛び退くが、いつの間にか腰を掴まれて身動きが取れない。
「っ、やだ、ゼロ……」
「ふぅん? ならこっちはどうだ……?」
わざとらしく吐息を触れさせながら、ゼロの唇が手のひらに吸いついた。は身を捩る。
「やめて」
少し語調を強めれば、ゼロは素直に手を解放した。そうして、腰を抱いたまま身を起こす。慌てて上から退こうと動いたを、ゼロが素早く抱きすくめた。その腕がわずかな震えを持っていたので、は身じろぎひとつできなかった。
「赤ん坊を抱くお前を見て、怖くなった」
いつになく真剣みを帯びた声だった。赤ん坊とは、レオン夫妻に生まれたフォレオのことだろう。秘境で育てられることとなったが、本来ならが乳母になっていたのかもしれない。レオンの子だとわかる玉のように愛らしい子に、ゼロは近づこうとしていなかったことを思い返す。
「怖い?」と聞きながら、はゼロの背に手を回した。ぎゅ、と縋りつくように、ゼロの腕の力が強まった。
「お前がまるで教会に飾られた絵画のように、美しくて、神々しくて、眩しくて──俺は……目がヤられちまうんじゃないかと思ったぜ」
言葉尻はおどけていたが、いつもの調子はすっかりなりを潜めていた。
「頼む。俺なんかに近づかなくていい、手の届かないところに行ってくれ。俺はいつかお前を……こんなふうに閉じ込めて、この汚れた身と心で穢すかもしれない。一番大切なモノを、この手で壊すかもしれない。それが……俺は、怖くて堪らない」
一番大切な──
ゼロにとっての一番は、レオンだと思っていた。は驚きながらゼロを抱きしめ返して、その背をなだめるようにあやすように、やさしくぽんぽんと叩いた。
「ほんとうに、変なことを言うのね。ゼロ」
「…………」
「離れてなんかやらない。それに、わたしはあなたに壊されるほど軟じゃないわ」
はそうっと顔を覗き込んで、ゼロと視線を合わせた。
ゼロはレオンと出会った瞬間を格別の思い出だと言っていたが、だってゼロと出会ったときのことをよく覚えている。すでにいまと同じように右目を隠していて、隻眼は暗く淀んで絶望に染まっていた。憐れんだわけではない。同情を覚えたわけではない。
ただ、あまりに痛々しくて──まで胸が苦しくなったのだ。
レオンがゼロに手を差し伸べたのなら、もまたその手を握ってあげようと思った。そのとき掴んだ浅黒い手があまりに冷たかったから、どうか温もってほしいと思った。
「だいたい、今さらじゃない。どうせわたしは、あなたの嫌いな温室育ちのお貴族様よ」
言葉だけはつんとしながら、は小さく笑った。レオンに仕えた初めのころは、よくゼロには試すような真似をされたものだ。もっとも、嫌味も嫌がらせもには暖簾に腕押しだった。すでにほかのメイドたちから洗礼を受けており、慣れっこだったからである。
隻眼がゆっくりと瞬く。
「」
ゼロが、噛みしめるように名前を口にする。
「あんまり優しくするな。俺が、我慢できなくなったら……どうするつもりだ?」
「我慢? ゼロが?」
「おい……」
「ふふ、だってあなたには似合わない台詞だから」
言い終える前に、の視界は反転して、身体はベッドに沈んでいた。両の手に浅黒い指が絡んで、をシーツに縫いつけてしまう。
首筋に、ゼロの唇が触れた。毛先が肌をくすぐる。
「なら、我慢は必要ないな……?」
脅しているつもりなのだろうか。には、ゼロがこのまま己に何かをする想像ができなかった。卑猥な言葉を並べ立てて、際どいところに触れてくることはあるが、ゼロが一線を越えたことはない。
はゼロを信頼している。ゼロがたやすく眼帯を奪われてしまったように、だって彼を警戒していないのだ。
は呑気にも、ゼロの絡んだ指を握り返した。いつかのような冷たさはない。
ぎくりとゼロの身体が強張る。
「、お前……」
はあ、と大きなため息を吐いたゼロが、ぽすんと顔をの胸元へと埋めた。「気が削がれる」と、その声が谷間に消えていく。
「ゼロ、重いわ」
「気にするのはそこか……? 相変わらずズレてるな……」
もう一度ため息を吐いて、ゼロがごろりと隣に寝そべった。
は右目かかる髪の毛を指でさらって、ゼロの瞼を見つめる。「ガキの頃にろくでもないやつにヤられたんだ」と、詳しい事情を語らないその右目を目にしたのは、初めてかもしれなかった。きっと、には想像できないことを、ゼロは経験してきているのだろう。
「ねぇゼロ、触ってもいい?」
少しの沈黙のあと、ゼロが小さく頷く。
は指を伸ばしかけてやめて、唇をやさしく触れさせた。ゼロが息を呑む。
「ゼロ、わたしはあなたの手が好きよ。きれいじゃなくてもいいじゃない。あなたの手は、レオン様をお守りする立派な手だわ」
間近で隻眼を覗き込むが、ゼロが目を伏せて視線から逃れる。そのまま追いかけてもよかったが、ゼロの頬がわずかに赤らんでいることに気づいて、やめておいた。にはゼロのように、辱めて楽しむ趣味はない。
懐にしまっていた眼帯を取り出して、ゼロの右目に装着させる。
いつもの眼帯姿を目にすると途端に気が緩んで、遠ざかっていた眠気が一気にやってくる。は小さく欠伸をこぼした。
「そろそろ部屋に戻って。眠らせてくれる?」
「お断りだ」
「え──」
「夜は、まだまだこれからだろ……?」
ゼロの腕が身体に絡みついて、囁き声が落ちてくる。けれど、その手はの身体をまさぐるような真似は一切なかった。とくんとくん、と少しだけ速い心臓の音が伝わってくる。
パチン、と髪留めを外されて、そこでは着替えすら済ませていないことに気づく。
しかし、ゼロの腕の中からもう抜け出せそうになかった。鼓動がまるで子守歌に聞こえて心地よい。ゼロのぬくもりに包まれて、瞼が落ちていく。「おやすみ、……」と、囁く唇が耳朶に触れた、ような気がした。
腕の中でが完全に眠ったことを確認してから、ゼロはそっと唇を合わせた。
触れてはいけないとわかっていたが、触れられずにはいられないのだ。欲にまみれたこんな感情でも、愛だの恋だのと呼んでいいのか、ゼロにはわからなかった。
優しくできる自信がひとつもなかった。
口にしている冗談が、いつか越えてはならない一線を越えてしまうのではないかと、不安だった。そんなことは許されない。
「俺に壊されるほど軟じゃない……ね」
なるほど確かに、はそんじょそこらの女とは違う。だから、惹かれてならないのだ。
ゼロはそっとベッドを抜け出して、窓の外を見上げた。大きな月が夜空に浮かんでいた。差し込んだ月明かりに照らされたが、神秘的で女神めいて見える。吸い寄せられるように手が伸びた。触れた頬は滑らかで柔らかく、温かい。
好きだ、と言葉がこぼれてしまいそうで、ゼロはもう一度唇を重ね合わせた。その言葉を口にしてしまえば──しまえば、どうなるというのだろう。
「クソッ……調子が狂う……」
ゼロは窓枠に寄りかかり、思わず毒づいた。淡く浮かび上がったその顔は赤く染まっていたが、それを目にする者は、月だけである。