昔から、この翼が嫌いだった。
一枚一枚、大きく立派な羽根は雄々しく鷹の民らしいというのに、その先端は純白だ。
は、鷺の民と鷹の民との混血である。もっとも、母は出産時に亡くなり、父もまた幼い頃に亡くしたため、両親の顔などひとつとして覚えていない。混血なんてまさかと思っていたけれど、成長するにつれて翼の先端が白く染まり、いまではもう中ほどまでその純白が広がっていた。
それが堪らなくいやで、白い羽根をむしっていたら「やめろ」と、幼なじみに止められた。
家族同然に育ったその幼なじみは、いまやフェニキスを治める鷹王だ。は、彼の身体が大きく成長して、並外れて強くなっていくのを──ただただ、近くで見ていた。
自分とはまるで違う、と思いながら、はティバーンと共に成長した。
ティバーンはもちろん、ヤナフもウルキだって、が混血だからと何かを言うことはなかった。けれど、はいつも勝手に疎外感を感じていたし、自分のような異端は爪弾き者だと自覚していた。
長らくフェニキスに滞在しているリュシオンでさえ、鷹の性質に染まってきているのに──
爪の先まで美しいリュシオンの手が、拳を作る。優美なかんばせを怒りに染め上げて、まるでティバーンがするようにしてその拳を顔面へと叩きつけた。下卑た笑みを浮かべていたニンゲンが、鼻を押さえてよろよろと後退した。
「鼻が……! 私の美しい鼻がぁっ!」
「オリヴァー様っ! こ、こいつめっ……!」
びくっ、と身体を震わせたは、それでもリュシオンを守ろうとニンゲンの前に立ちはだかった。しかし、リュシオンの片腕がをぎゅっと抱き寄せて、反対に守るような形をとられてしまう。
鼻を手で押さえたまま、オリヴァーと呼ばれた男が武器を手にしたニンゲンたちを下がらせる。
「その者たちは、怯えておるだけじゃ。時間をかければ、わしがどんなにやさしく、慈悲深い主人であるかわかるはずじゃ」
うっとりと語りかけられて、ぞわりと肌が粟立つ。
リュシオンを芸術品などと言ってまるで物のように扱っておきながら、やさしく慈悲深いとは笑わせてくれる。背中に回ったリュシオンの手に、力が籠った。
「ふざけるな……!」
いかにリュシオンが鷹の民らしかろうとも、その体躯は鷺の民そのものであり、決して屈強ではない。あっさりと部屋に閉じ込められて、リュシオンが悔しげに顔を歪ませる。
「くそっ……ネサラめ、よくも私をこんな目に……」
呟くリュシオンの右手が赤く腫れていることに気づいて、は青ざめた。
「リュシオンさま、お手が……!」
「っ、」
触れた途端にリュシオンが顔をしかめる。
鷺の民は戦うすべを持たない。顔を殴った拍子に怪我を負ったのだと気づいて、はますます顔を青くした。
「ごめんなさい……わたしが、リュシオンさまをお守りしなければいけないのに……」
ぽろ、と涙がこぼれた。
己のあまりのふがいなさに腹が立つが、それ以上に恐ろしさのほうが勝っていた。恐ろしいのはリュシオンとて同じであるはずなのに、震えるのはばかりだ。
リュシオンの親指が頬を撫でて、の涙を拭う。
「私なら平気だ。お前に万一があっては、ティバーンに合わせる顔がない」
「な……そ、それはわたしの台詞です」
リュシオンのやさしさが、勇敢さが、の胸を苦しくさせる。
が鷹の民らしくあれたら、ニンゲンなんて蹴散らすことができたはずだ。は誰かを殴ったって、自分の手を負傷することはない。もっとも、殴ったことなどないため定かではない。
飛び立つリュシオンを咄嗟に追いかけてしまったが、自分の無力さを自覚するべきだった。ティバーンやヤナフに声をかけていれば、リュシオンがこのような目に遭うことはなかったのだ。ネサラの企みに気づけぬばかりか、リュシオンともどもニンゲンに売り払われるだなんて、情けないにもほどがある。
次から次へと溢れる涙を見て、リュシオンが眉尻を下げた。
「、悔しい気持ちはわかる。だが、そんなに泣いていては目が溶けてしまうぞ」
「……っ」
「大丈夫だ。幸い、あの者たちはこちらに危害を加えるつもりはないらしい」
「……リュシオンさま……」
痛むはずの手を後ろ手に隠して、リュシオンが微笑む。無理やり口角を上げているのだとわかって、の涙はますます止まらなくなってしまった。
ネサラを許せない。けれど、は自分のことが一番許せそうになかった。
無事にティバーンに保護され、ネサラと再会したは、初めて平手打ちというものをした。ぺちん、と小さな音が鳴った。手のひらがじんじんとして赤みを帯びたが、当然ながら骨にひびが入ることはなかった。
「リュシオンさまの御身と、御心を傷つけるなんて……」
ネサラは赤くなった頬に指を這わして「すまなかった」と、小さく言った。
彼にしては珍しく、良心の呵責や後悔が滲むような声音だった。
ぐーにしなかったのは、傷つける行為に躊躇してしまったからであり、ネサラへのせめてもの情けでもあった。は、長い付き合いであるネサラのことを恨み切れなかったし、まだ信じてもいた。
──そう、信じていたのだ。
ネサラに信頼を裏切られるのは何度目だろうかと考えても、答えは出なかった。飄々として、狡猾で抜け目がないネサラは、まさしく鴉の民らしいと言える。その性質をよくわかっているからこそ、は幾度ネサラに裏切られても、そのたび許してきた。
けれど、今回こそは、ネサラを許せるかわからない。
ティバーンを始めとしたフェニキスの戦士たちは、ラグズ連合の鳥翼軍として出払っている。いかに鷹の民といえ、残された少ない戦士と老人や女子どもでは軍隊に太刀打ちできなかった。
非力なは、それでもフェニキスを守ろうと抗戦した。ティバーンならそうするとわかっていたし、鷹の民としてのなけなしの誇りが、にもあったのだ。祖国を蹂躙されようとしているのに、震えるばかりではいられない。二年前、鷺の民でありながら、拳をぶつけたリュシオンの姿がを奮い立たせた。
は弱い。ヤナフやウルキのように、ティバーンと共にゆくことはできない。
化身してからのことはよく覚えていなかった。気がついたときには、はティバーンの腕の中にいた。「何も言うな」とティバーンは言ったけれど、あまりにきつい抱擁には呼吸もままならなかった。腕がゆるんで顔を覗き込まれても息は苦しいままで、は己が虫の息であることに気がついた。
フェニキスの地は焦土と化していた。
は、片翼を失った。
これまであったものを突然失くした身体は、バランスを崩したようだった。何もないところでふらついたを、ティバーンの大きな手が素早く伸びて、支える。は首を捻って、背の高いティバーンを見上げた。
何かを言うより早く、その逞しい腕は軽々とを抱き上げて、空を舞った。
思わず見惚れるほど、大きく立派な翼である。は幼い頃から、ティバーンの羽根が好きだし、憧れである。適当な木に降り立つと、ティバーンの腕がますます身体に絡みついた。
「ティバーン……わたし、雛ではありませんよ」
「ああ、雛より目が離せねぇな」
は眉を八の字にして、ティバーンを見つめる。冗談めかした口ぶりだが、見つめ返す瞳は真剣そのものだ。
ティバーンを過保護と思ったことはなかったが、片翼を失くしてからというもの、ずっとこの調子である。本来、は生き残った鷹の民と共にガリアに残るべきだが、ティバーンはこうして手元に置いている。
ティバーンは腹を立てているのだ。
ネサラとベグニオンに謀られたことに、己の役割を果たせなかったことに、祖国を守れなかったことに──逃げることなく戦うことを選んだにもまた、怒りを抱いている。
「責任なんて、感じないでくださいね」
己の力量を正しく理解しながらも抗戦を選んだのは、ほかでもないだ。
「命があるだけ、ありがたいことです」
は眉毛を下げたまま、小さく笑んだ。
これは紛れもないの本心だった。失ったのが片翼だけだったのは、にとってみれば幸運である。
「こんな時までお前は、鷹の民らしくねえときた」
ふ、とティバーンが苦笑を漏らす。「だが、強くなったな」と、大きな手のひらがの頭を撫でた。この手は、弱くて泣き虫で臆病なを、幼い頃から守ってくれる。
いつまでもそれに頼ってはいられないことも、はわかっていた。
それでも、いまだけはどうか──はそっと目を閉じて、ティバーンに身を預けた。
は親なしではなくとも、混じりもので、そのうえ繊細すぎる。まるでティバーンにはふさわしくない。
どうあがいてもティバーンの番にはなれないのだと、彼が鷹王となったそのときに、は気づかされたのだ。この手をいつか離さなくてはならない。はそれを、ゆっくりと時間をかけて、飲み込んできたつもりだった。
「……泣き虫なところは、変わらんな」
静かな声が落ちて、の目尻にティバーンの唇が触れた。
「なんで、お前が戦うんだ……」
呆然とするネサラを前に、振りかぶるはずだったの手は、握り拳すら作ることができなかった。ぐ、との二の腕を掴んだその手が、らしくもなく震えている。
「ネサラ、」
「ハッ……いまさら、謝ったところで……」
「……もう、いいです。あなたにも、やむを得ない事情があったのだと聞きました。リアーネさまを悲しませるのは本意ではないし、許します」
「…………」
ネサラがをどう思っているかは知らないが、彼もまた元を辿れば同胞には違いない。
「翼のことは、あなたが気に病むことではありません。こうして、片翼を失くしたことで、わたしもようやく諦めがつきそうです」
「……諦め?」
「ティバーンの番にはなれない。ネサラもよく言っていましたね」
ネサラが苦虫を噛み潰したように、顔をしかめる。こんなふうにわかりやすく感情を露わにするのは、ネサラにしては珍しい。
「嫌味にきまってんだろうが」と、ネサラが手を離しながら、吐き捨てるように呟く。
「嫌味? 事実ではなくて?」
「お前はほんとうに……リアーネ並みに純粋過ぎる。ティバーンも苦労するな」
「どういう……」
わけがわからずに瞳を瞬いて、はネサラを見上げた。
「……お前は自分を弱くて情けないと思っているようだが──石にならなかったことが、何よりの証拠だと思うがな」
「……?」
「。お前は鷹と鷺のハイブリッドで、唯一無二だ。そろそろ胸を張れ、そして腹を括れ」
「何が言いたいんですか?」
ネサラは答える気がないようで、軽く肩を竦めると空へと飛び立った。
追いかけることのできないは、小さくため息を吐いて落ちてきた黒い羽根を手にした。石にならなかった理由はにもわからない。むしろ、戦えもしないは、この静かな世界ではとんでもない足手まといだ。
「なんだ、。ネサラをぶん殴ってやらなかったのか」
大きな羽音共に、ティバーンが傍に降り立つ。
の手から羽根を奪ったティバーンが、ひどくぞんざいにそれを放った。
「だって……ネサラにあんな顔をされたら、責められません」
「ほう?」
「……なんですか、ティバーン。言いたいことがあるなら、はっきり──」
ティバーンの手が伸びて、の顔を掴んだ。ふ、と視界が翳ったと思えば、ティバーンに唇を食まれていた。
「妬けるな」
ほとんど唇が触れ合う距離で囁かれて、はどうすればいいかわからず、ただ身を強張らせた。伏せた目を、恐る恐るティバーンへと向ける。
猛禽類らしい鋭い視線が、熱をもってを射抜く。
ティバーンは、女性関係だって派手だ。
など歯牙にもかけないような、強くて美しい女性をいつも隣に置いていた。
何故、とは問うことができなかった。貪るような口づけに、意味のある言葉は何ひとつとして紡げやしなかったのだ。諦めがつく、とネサラに言ったばかりなのに、はティバーンを拒めない。
想いが溢れるように、涙がこぼれた。
いつかと同じように、ティバーンの唇が涙を食べてしまった。
羽音が聞こえて、はぎゅうと膝を抱えてそこに顔を埋めた。
「いい加減にしろって。逃げても隠れても、おれたちがいる限り無駄だってわかるだろ?」
「……ヤナフ、よせ」
幼なじみの声が、頭上から降ってくる。
そんなこと、言われずともだってわかっていた。鷹王の眼と耳がある限り、はどこにいても見つかってしまう。昔からそうだ。
けれど、隠れてめそめそしているときにやってくるのは、いつもティバーンだった。
「王は、の決心を待っておられる。あの王が、かっさらうことなく、辛抱強く……その気持ちを汲んでやれ」
「見てるこっちがじれったい! 、お前は何が不満なんだ?」
「……不満なんてありません、不安なんです」
はそろりと顔をあげた。
「ティバーンは鷹王どころか、鳥翼三国の初代王ですよ。そんな人が、どうしてわたしなんかを選ぶんですか。おかしいでしょう」
自分で言っていて、情けなくてやるせない気持ちになってくる。じわりと涙が滲んで、は再び膝へと顔を埋めた。鳥翼を統一した新国家の王に選ばれたティバーンはを妻にと望んだが、いまだに首を縦に振ることができなかった。
ウルキと顔を見合わせたヤナフが、ため息を吐く。
「傍から見てりゃ一目瞭然なんだがな」
「……当事者にしかわからんこともある」
「へいへい。……で、。お前はティバーンをどう思ってるんだ?」
「どうって……」
すきですけど、とは蚊の鳴くような声で告げた。は片翼を失くしてなお、この気持ちを捨てることができなかった。
「あーはいはい、なら問題ねえな」
「ふ、二人とも、わたしが王妃になってもいいんですか?」
「……いいもなにも、そうなるものと思っていた」
「え?」
思わず顔をあげた先に、ティバーンが立っていた。は反射的に逃げようと立ち上がるも、バランスを崩してしまう。ティバーンの胸へと図らずも飛び込んだ身体を、逞しい腕が抱きすくめた。
「俺もだ」
ティバーンの声が耳元に落ちる。
「泣き虫なお前のことが、羽も生え揃わぬ頃から、好きだ」
「…………」
「俺にしてはよく待ったほうだと思うが、そろそろいい返事が聞きてえな」
は、濡れた瞳でティバーンを見つめた。
いつの間にか、ヤナフとウルキの姿が消えている。
鷹の民にも、鷺の民にも、どちらにもなり切れない自分が嫌いだった。けれど、彼がこんな自分を好きだというのなら、も己を愛することができるかもしれなかった。
は覚悟を決めて、口を開いた。
「わたしのほうが、先にあなたをすきになりましたし、ずっとあなたのことしか見ていません」
──そろそろ胸を張れ、そして腹を括れ。
ネサラの言葉の意味を、はようやく理解できたのだった。