戦術書に向けられていた視線が、いつの間にかセネリオを捉えていた。美しくも醜くもない、平凡すぎて形容詞すら見つからないその瞳を、セネリオは見つめ返した。
 目が合っても、が口を開くことはなかった。セネリオはため息を吐く。

「何です?」
「あっ、えっと、なんでもないです……」

 が恥ずかしそうに、慌てて目を伏せる。セネリオは眉をひそめながら、瞳を隠したまつ毛を見つめた。の頬が次第に赤みを帯びて「み、見ないでください」と、やわい手のひらがセネリオの視線を遮った。
 不躾にまじまじと見つめてきたのは、のほうである。そんなふうに言われるいわれはない。

「……まあいいでしょう。他に、何か聞きたいことはありませんか」

 ふい、とセネリオは顔を背ける。
 ほっと息を吐くが、なにを考えているかなんて、セネリオにはどうでもよいことだった。

「大丈夫です。いつもありがとうございます、セネリオさん」

 が戦術書を閉じて、頭を下げた。はにかむような顔が、セネリオを見上げる。ほんのりと頬が赤い。それを自覚してか、が頬に手を添えた。

 ふん、とセネリオは小さく鼻を鳴らす。
 別に礼を言われるようなことではなかった。セネリオがに手を貸すのは、それが自分の利になるからに他ならない。参謀としては未熟であるによる愚策は、セネリオを──ひいてはアイクを傷つける。それだけはあってはならないのだ。

 見れば見るほど、知れば知るほど、まるで普通の少女である。この世界に、自分と同じように呼ばれたアイクは一国の将に留まらない器で、数多の英雄の中でも一目置かれている。彼女の下につくことに、セネリオは少なからず反感を覚えざるを得ない。
 それほどに、この国の参謀は頼りない。自分が指揮を執ったほうがよほどましなのではと思うことすらあるが、セネリオはそれを口にしたことはない。

 は馬鹿ではない。己の実力不足を理解して、努力している。もっとも”頑張っている”なんてことは、何の評価にも値しない。
 セネリオはを一瞥して、踵を返した。





 ふと、窓の外へと視線をやれば、他の世界から呼ばれたという英雄と剣を打ち合うアイクの姿が見えた。セネリオがアスク王国に留まるのは、アイクがそれを望むからだ。
 口数が少なく不愛想で、色々と誤解されがちなアイクの心根はやさしい。
 縁もゆかりもないこの国のために、アイクが力を貸したいと思うのは、不思議なことではない。

「…………」

 仕方のないことだ。
 けれども、よく知らぬ者たちとの関りは、セネリオにとって煩わしいことこの上ない。”印付き”である自分は、他人と相いれることはない。

「セネリオさん、なにを見ているんですか?」
「……!」
「あっ、アイクさん。ヘクトルさんにエフラムさん……血の気の多い人たちが集まっていますね」

 窓の外を覗き込むの肩が、軽くぶつかる。しかし、それに気づいた様子もなく、が振り返った。セネリオは、触れた肩を手で押さえながら、わずかに距離を取った。

「皆さーん、怪我だけはしないでくださいねー」

 が窓から身を乗り出して、大きく手を振る。セネリオは思わずぎょっとして、の腕を掴んで引き寄せた。

「何をしているんですか! 危ないでしょう」
「わ……」

 力加減を誤ったのか、の身体がふらついて、セネリオにぶつかる。肩口に当たった額を押さえながら、呆けた顔がセネリオを見上げた。
 果てしなく緊張感がなければ、危機管理能力の欠片もないその顔に、セネリオは眉をひそめた。

「セネリオさんが、わたしの心配を……」
「は?」
「だ、だって、いつもわたしのことなんて”どうでもいい”って感じで、しらーっとした顔してるのに」
「……」
「セネリオさんが、アイクさんのこと以外で慌てるところ、初めて見ました」

 信じられないものを見るような顔つきを、じっと見つめてから、セネリオは何も言わずに踵を返した。

「せ、セネリオさん。待ってください」

 が袖を掴む。セネリオは足を止めるが、振り向く気にはなれなかった。
 慌ててなどいなければ、心配などしていない。の言う通り、彼女はどうでもいい存在である。

「そ、そういえば、セネリオさんにまた教えてほしいことが」
「他の方にお願いしては?」
「え」
「僕以外にも、戦術を教えられる英雄はいるはずです」

 セネリオはを見下ろして、冷たく告げた。
 がへにゃりと眉を八の字にして、顔を俯かせた。
 袖を掴む指先が震えている。セネリオはそれを認めてなお、その手を振り払った。が、弾かれたように顔をあげる。こぼれんばかりに見開かれた瞳が、窓から差し込む陽射しによって、煌めくように見えた。

「いっ、いやです!」

 珍しく、にしては大きな声だった。
 一度離れた手が、今度はセネリオの手を掴んだ。セネリオよりも小さなその手は白魚を思わせた。苦労など知らず、守られ愛されてきたのが、それだけでわかる。
 こんなふうに、躊躇わずに自分に触れてくる手が、いったいどれだけあるだろうか。
 額の印が、精霊の護符ではないと気づいたのはいつだったか。身体の成長が、緩やかになっていると気づいたのはいつだったか。誰からも忌み嫌われる不浄の存在”印付き”を知ったのは、いつだったか──

 セネリオは目を細めた。

「何故です?」
「な、何故って、それは」

 が目に見えて狼狽える。あちらこちらに視線が飛んで、再びセネリオに戻ってくる。
 きゅ、と力んだ唇がおもむろに開かれるのを、セネリオは黙って見つめた。

 彼女の視線の意味を、考えなかったわけではない。
 誰に似たのか知らぬこの見目が、悪くはないという自覚はある。興味がないからと、向けられる好意はすべて切り捨ててきた。もしくは切り捨てなくたって、見た目に反した辛辣な態度や物言いに、すぐにその好意は反転する。

「……セネリオさんは、はっきりものを言ってくれるでしょう」
「当然です。あなたに忖度する理由がありません」

 そういうところです、とがもじもじしながら告げる。セネリオは怪訝にを見つめた。

「セネリオさんは、きっと、わたしを好きにならないから」

 を慕う英雄は多い。
 それは、ブレイザブリクの力による影響とも言われている。召喚師を裏切らないように、好意を抱くように何らかの力が働いている可能性は、無きにしも非ずである。

 恥ずかしそうに笑ったが、ぱっと手を離した。柔らかい感触とぬくもりが消える。

「えーと、その、やっぱりまだまだ未熟なので、厳しく鍛えてほしいといいますか」
「……わかりました。お望み通り、厳しく鍛えましょう」
「え……」

 セネリオはの手を引っ掴んで、書庫へと歩き出す。足早に歩けば、転びかけながらも小走りでがついて来る。

「セネリオさん、手……」

 小さな声に、セネリオは顔だけで振り向いた。そこには赤い顔があった。セネリオの視線に気づいたが、慌てて目深にフードを被る。
 いまさら隠したって遅い。
 この後手に回りがちな癖は、矯正していかなければならない。それから──立ち止まった、セネリオの背中に、軽い衝撃が走る。がぶつけた鼻先を押さえて、セネリオを見上げる。フードが落ちるが、その顔の赤みがぶつけたものによるものか、羞恥によるものか判別が難しい。
 セネリオは身体ごと振り返り、と向き合った。

「セネリオさん? どうし……」
「根拠のない決めつけはやめたほうがいいです」
「え? あ、は、はい。そうですね、自分に限って……とかは、大きな命とりに……」


 あまりに見当違いなことばかり言うので、セネリオは口を挟んだ。がきょとんとした顔で、首を傾げる。

「僕が、あなたを好きにならないとは限らない。そうは思いませんか?」

 数拍置いたのち、が先ほどよりも真っ赤な顔をして、素っ頓狂な悲鳴を上げた。

ルミナス・セラフ

(冷ややかな瞳が、燃える火の色をしてわたしを焦がす)