どこで、なにを間違えたのか、考えぬ日はありません。
 ”白銀の乙女”たるアリアンロッドが、王国軍によって落とされたあの日、わたくしも共にあの地に眠るべきだったのではないかといまでも思うのです。あれから、もう何年経ってしまったのでしょうか。わたくしは、もはやローベの名を名乗りもできぬというのに、いまだにローベ家の娘のであり続けるのです。

 アッシュ=デュランは、我がローベ家の管轄に当たるロナート卿の養子でした。
 貴族のとはいえ、元は平民である彼とは、顔を合わせたことはあれど言葉を交わした記憶はほとんどありませんでしたわ。
 ガルグ=マク士官学校から戻り、彼はローベ家に仕えて下さった。話をするようになったのは、それからでした。アッシュは、わたくしに声をかけるとき、緊張していたようでした。ローベの娘と知って、声をかける者などほとんどいませんでしたから、わたくしは驚きました。年の頃も近く、わたくしもまた情けなくも緊張してしまったのです。異性と話したことなどなかったものですから。

様、汚れてしまいますよ」

 騎士たちが訓練する場へ足を運んだ際、先日降った雨のせいで地面がぬかるんでいたため、アッシュが少し困った顔をしてそう言いました。

「お気遣い、ありがとうございます。ですが、汚れてもいい服を着ていますから、心配には及びません」
「えっと、じゃあぬかるみに足を取られないように……」

 アッシュが周囲に視線を走らせてから、恐る恐るというふうに手を差し出しました。「手を借りてもいいですか?」と、アッシュが自信なさげに言いました。手を借りるのはわたくしのほうですのに、となんだか可笑しくて、笑みがこぼれました。
 わたくしが、アッシュ=デュランを認識したのは、それがきっかけです。それまでは、騎士のひとりにすぎませんでした。

 それからわたくしは、アッシュと時おり言葉を交わすようになりました。
 アッシュは、士官学校のことをはじめとして、色々とお話を聞かせてくださいました。もともと平民である彼は、わたくしの知らぬことをたくさん存じていましたから、楽しい時間だったのです。
 よく、青獅子の学級の話をしてくださいました。驚いたのは、そのなかに、すっかり疎遠となったローベ家の養子ユーリスが含まれていたことです。養子と言っても、父はユーリスのことをグェンダルに任せるばかりで、ほとんど関わる機会もなかったのですけれど……名ばかりでも家族だと思っていましたから、元気そうなご様子に安心したことを覚えています。

 グェンダルというのは、”灰色の獅子”と呼ばれるローベ家の騎士ですわ。凡庸と呼ばれる父が、唯一誇れるものといえば、グェンダルに他なりませんでした。
 彼は最期まで、ローベ家に仕えて下さった。仕えたのが我が家でなければ、きっといまもファーガス随一の騎士でしたでしょうに。忠臣であったが故に、王国の裏切り者という汚名を背負わせてしまった。父には何か、思うところがあったのかしらね。
 ……グェンダルの死に場所は、煉獄の谷アリル。ほんとうに、父は、…………いえ、話を戻しましょう。


 アッシュとそんなふうに、楽しくお話できたのは、たったの一年でした。
 ローベ家は、王国と帝国との戦いに際し、帝国に与した。アッシュはそれを許すことができずに、ローベを去りました。わたくしは、その日が来るまで、アッシュはわたくしの騎士でいてくれると思い込んでいました。

「ごめん」

 そのたった一言を残して、アッシュはわたくしの前から消えました。そのときの顔は、いまでも思い出せます。おそらく、彼にとっても苦渋の決断だったのだろうと、わたくしは理解して納得しました。
 追いすがるなんて、わたくしの頭には浮かびもしませんでした。

 娘のわたくしから見ても、父は凡庸で、領主としての才はどう贔屓目に見てもありませんでした。
 でも、それでも、ローベはわたくしの生まれた家で、育った家です。アッシュのように捨てられるわけがありませんでした。……そう、捨てられるわけが、なかったのです。




 アッシュが、わたくしのまえに再び現れたのは、三年後のことでした。
 わたくしが最後に見た日よりも背が伸びて、大人びた顔をしていました。アッシュは、白銀の乙女を攻略しにやってきた、王国軍の一員でした。アリアンロッドは王国一の堅牢さを誇る城塞都市です。けれど、もはやローベ家の誇る灰色の獅子もおりません。
 こちらを落としにかかるのは、亡くなったと言われていたディミトリ王子殿下でした。わたくしたちローベ家は、絞首台に向かうような気持ちでした。王国を裏切った者として、当然の報いがしかるべきだということも、わたくしは正しく理解しておりました。

 なんて皮肉なことなのでしょうね。元は帝国を裏切って王国の爵位を得たローベが、今度は王国を裏切っているのです。我がローベ家は、風見鶏という他ありませんわね。王国貴族にあるまじき恥さらしです。
 そんなローベ家に、アッシュが仕え続けてくれるわけがありませんでしたわ。
 わたくしは、これまで見ないようにしてきた我が家の恥部に、ようやく自嘲しました。

 アッシュの手によって、終わりを与えられるのなら、それでいいと思いました。
 わたくしの知るアッシュは、だれより騎士道を貴ぶ方でした。己の信じるべき道を歩んでいる彼の手は、正義なのだと思えました。

「変わってねぇなあ、お嬢様」

 わたくしの前に現れたのは、ユーリスです。「あんたのその、背筋のピンと伸びた立ち姿。ローベ家でも、あんたのことは嫌いじゃなかった」と、ユーリスは笑いながら言いました。

「あなたも変わっていませんね」
「そうか? 相変わらずの美少年、ってことかね」
「……ほんとうに、変わっていませんわ」

 ふ、と思わず笑ってしまいました。ユーリスの軽口が懐かしくて、まるで昔に戻ったかのような気持ちになれたのです。でも、もう過去に戻れるわけがありませんでした。
 窓の外へ視線を投げると、まだ帝国軍と王国軍が戦っているさなかでした。

「……あなたは、ローベ家を離れて正解でした」

 そう呟くと、ユーリスが美しいその顔を、わずかに曇らせました。ローベ家の行く末を、ユーリスは知っているのでしょう。だからわたくしは最期に少し、彼を笑わせてあげようと思いました。

「わたくし、あなたと一緒に士官学校に通いたかった。あなたがきちんと制服を着て、真面目に授業を受けていする姿を見てみたかったですわ」

 そうしていたら、なにかが変わっていたとは思いません。ただ、アッシュの話してくれたような、学生生活を経験してみたかった。ただ、それだけのことでした。
 ユーリスが、兄めいた顔で、仕方がないなというふうに笑いました。

「……これは、俺様からの餞別だ」

 そう言って、ユーリスが扉の外から引きずり込んだのは、アッシュでした。わたくしの前にまろび出たアッシュが「様」と、戸惑いの声を上げました。わたくしはただ、驚いてアッシュを見つめることしかできませんでした。

「お前がいつまでもウジウジ悩んでるから、来るところまできちまったんじゃねーか」

 ユーリスが吐き捨てるように言って、アッシュが悔し気に顔を歪ませました。わたくしは、黙ったままアッシュを見つめました。かけるべき言葉など、わたくしは持ち合わせていなかったのです。

「……僕は」

 アッシュの声は震えていました。
 ぎゅっと握られた拳が開かれて、わたくしに差し出されました。ですが、わたくしはその手を取ることができませんでした。

 アッシュを突き放すべきだった、と、いまになって痛感いたします。いいえ……いまになってではなく、その手にわたくしの手を握られてから今日までずっと、そう思い続けているのです。
 帝国が滅亡して、フォドラがファーガス神聖王国の名に統一されて、新たな時代が幕を開けたのに──わたくしはまだ、アリアンロッドにいるかのような錯覚を覚えます。他者から見れば愚かという他ないローベ家でした。それでも、わたくしはローベ家に帰りたいと願ってしまいます。もう、帰る家がなどないと、わかっているはずなのに。
 わたくしもまた、父と同じ愚かな人間だった、ということなのでしょうね。


「君は、アッシュのことが嫌いなの?」

 ふと、それまで黙ってわたくしの話に耳を傾けていた大司教が口を開きました。
 わたくしは俯かせていた顔をあげて、硝子玉のような大司教の瞳を見つめました。その顔は、大司教というよりも教師と呼ぶにふさわしいようにも見えました。思ったよりも柔らかい眼差しを受けながら、わたくしは目を伏せました。

「わかりません」

 その答えこそが、なによりアッシュにとって残酷なのだと、わたくしは知っていました。大司教が「そう」と、小さく頷きます。

「わっ、だめだよ! まだお話してるんだから……」

 アッシュの声が、わたくしを現実に引き戻したような気がしました。
 振り返ると、幼子に手を引かれたアッシュが「あっ、すみません。先生……じゃないや、もう大司教でしたね」と、気恥ずかしそうに苦笑します。
 アッシュの手を振り解いた幼子が、わたくしの元へと駆け寄ります。

「おかあさま、おそいー」
「ごめんなさいね。つい、話し込んでしまいました。もう終わりましたよ」

 むくれた顔をする子の頭を撫でて、宥めます。アッシュと同じ銀灰色の柔らかい髪に、わたくしと同じ瞳の色をした、わたくしとアッシュの子どもを見て「かわいいね」と大司教が微笑みました。

「大司教、お時間を取らせて申し訳ございません。お話しできて、嬉しかったです」
「……話を聞くことくらいなら、できるよ」

 大司教がやさしく告げます。でも、わたくしはもう、胸の内を明かそうとは思いませんでした。だれにも言えなかったことをこうして打ち明けたというのに、わたくしの心が軽くなることなどなかったのです。ただただ、罪悪感ばかりが増えてゆきます。

「アッシュ、先に時間をいただいてごめんなさい。あなたのほうが、積もる話があるでしょうに」
「ううん、いいんだよ」

 アッシュが穏やかに微笑みます。わたくしを愛おしみ、慈しみ、守り抜いてくれた──変わらぬ眼差しが向けられます。わたくしは瞼をわずかばかり下げました。
 おかあさま、とつまらなそうにわたくしを呼ぶ声と、手を引っ張る小さな手がありました。

「わたくし、この子とガルグ=マクを見ていますわね」

 アッシュにそう声をかけて、踵を返します。

「すみません。いまさら、こんな僕が、合わせる顔がないと思っていたんですけど……」
「いや、元気そうな顔が見れて嬉しいよ」
「…………僕は、殿下の力になれなかったのに」
「真面目だね、アッシュは。大丈夫、ディミトリだって目くじらを立てたりしないよ。だから、安心して顔を見せてやればいい」

 アッシュと大司教の話す声が聞こえてきます。わたくしは、その声が聞こえないように、子の手を引いて足早に立ち去ります。
 ごめんなさい、アッシュ。
 あなたと同じように、あなたに愛情を返してあげられないばかりか、いつまでも過去に囚われて。煉獄の炎に焼かれるべくは、グェンダルなどではなく、わたくしだ。

「おかあさま? どうしたの? どこか痛い?」

 ぽた、と落ちた涙に気がついて、我が子が不思議そうに目を瞬きます。わたくしは何も言えないまま、首を横に振りました。
 ああ、あの日のアリアンロッドに戻りたい。
 そうしたら今度こそ、わたくしは白銀の乙女の元、ローベ家と共に眠りにつくのだ。

 わたくしがそんなことばかりを考えているのだと、アッシュもこの子も、知る由もありません。可哀想に、と大司教が小さく呟いたことを、わたくしが知ることがないのと同じように。

しあわせの線をひく

(わたくしは、その一線を決して越えられない)