あ、死んだ。
 そう思うのは、何も初めてのことではなかった。絶命した馬から転げ落ち、あちこちを地面に打ちつけながら、は武器を手放さなかった。
 「さん!」と、フォルデの焦る声が聞こえて、ふとの脳裏に他愛ない日常が呼び起こされた。

 主のために死ねるのならば、それは騎士としての本望である。
 武器の手入れをしながらそんな話をした際、真面目なカイルからは賛同が得られたが、フォルデには「エフラム様が聞いたら怒るぞー」と茶化された。たしかに我らが主は、自分のために命を投げ打つことなど許しはしないし、ともすればその辺の騎士よりも強い。
 だって、死ぬ覚悟ができているかと問われれば、否である。それでも、騎士としての矜持はあるのだ。

 けれど、最期の瞬間に、思い浮かぶのはいつだって──

 振りかぶられた槍先がギラリと光って、に迫る。
 痛みを堪えながら握りしめた剣の柄は、洗っても落ちない血が染み込んでいる。いくら丁寧に刃を研いだって、消耗品であることに変わりはない。

「っ……」

 は体制を整えきれないまま、刃を剣で受け止める。ピシ、と嫌な音が聞こえて、剣身にヒビが走る。騙し騙し使ってきたツケがこんなところで、とは歯噛みした。
 折れた剣先に目もくれず、は短くなった剣を敵兵の首元へと突き刺す。
 呻いた敵兵の手から落ちた槍を、は拾い上げた。多少、には重いが、使いこなすのに問題はなさそうだ。

「大丈夫そうですね、さん」

 軽い蹄音が近くで止まる。なんだと言わんばかりのいいように、は肩を竦めた。

「ええ、なんとか」
「馬はダメですね。俺の後ろに乗ってください」
「ありがとう、フォルデ」

 レンバール城内での戦い、そしてヴァルター率いる蛇竜騎士団との連戦は、確実にを疲弊させていた。悔しいがには馬の足がなければ、この包囲網を突破するのは厳しい。

「さ、もうひと暴れしましょうか」

 軽口を叩いてフォルデが口角を上げる。は手に馴染まぬ槍を握り、先陣を切るエフラムの背を見つめた。

 主のために死ねるのならば、それは騎士としての本望──それは決して嘘ではないし、紛れもないの本音だ。だからこそ、死を覚悟した瞬間に、彼の顔が過ぎったことが信じがたかった。
 ああ、と内心で嘆息する。
 まだ、この想いを捨てきれない自分が馬鹿馬鹿しくて、は小さく嘲笑を漏らした。




 レンバール城を辛くも脱出し、グラドに進軍したのも束の間、たちはまたも城内へと足を踏み入れていた。愛馬を喪ったは、新兵のような気分で槍を握る。
 王都が落ちたと聞いたとき、の脳裏を過ぎったのは、もちろんルネス王ファードとルネス王女エイリークのことである。それと同時に、ゼトの存在もの中で大きく割合を占めていたことは誤魔化しようもない。自分と同時期に騎士になりながら、将軍という地位を得たゼトに限って、まさか命を落とすなんてあり得ないと思いつつも不安で仕方がなかったのだ。

「エイリーク、無事か!」

 獅子奮迅と呼ぶにふさわしい戦いぶりで敵兵を蹴散らし、エフラムがエイリークへと駆け寄る。
 エイリークの傍らにゼトの姿を見つけて、は安堵すると同時に、胸に鈍い痛みを覚えた。騎士が主を守るのは当然のことであり、ゼトがエイリークの傍に仕えるのもまた当然である。
 は未練がましい自分の気持ちを断ち切るように、やけに重たい槍を振るった。


、君も無事だったか」

 馬上から、やわらかい声が降ってくる。
 は刃先に付いた血を振るい落としてから、顔をあげた。ゼトの信頼に満ちた眼差しを受けて、は笑んだ。

「ええ。見ての通り、愛馬はいなくなってしまってけれど」
「エフラム様はずいぶんと無茶をされたようだな」

 ゼトが苦笑を漏らす。「いつものことだもの、慣れたものよ」と、は笑みを浮かべたまま眉尻を下げる。
 エフラムの英断は無謀でもあり、結果としてそれらすべてをねじ伏せてきたに過ぎない。

「……さすがだな、。エフラム様に付いて行けるのは、君たちくらいなものだ」

 ゼトが目を細め「ほんとうに無事でよかった」と、噛み締めるように呟いた。なんだか気恥ずかしさを覚えて、は目を逸らす。

「あなたこそ、たったひとりでエイリーク様をお守りするなんて、さすがは真銀の聖騎士さまね」

 まるで、物語に出てくるような──
 皮肉のつもりはなかったが、それ以上は険のある言葉が出てきそうで、は口を噤んだ。ぎゅ、とは槍を握り直す。

「再会を喜ぶのは、この辺にしましょう」
、これを」

 近づいたゼトが、にひと振りの剣を差し出した。

「その槍は、君には重すぎる」

 なにもかもお見通しなのだと思うと悔しいようで、それでいて安心するような不思議な心地がした。は素直に槍と剣を交換する。

「ありがとう、ゼト」

 の言葉に、ゼトが頷くだけで答えた。
 手綱を引いたゼトが、エイリークの元へと駆けていく。石造りの城内は広々としていて、騎兵が数騎いてもひしめく印象はなかった。

「いやあ……将軍がご無事で何より、ですね」

 ゼトと入れ替わるようにして、近づいてきたフォルデがぱちんと片目を瞑っておどけてみせる。その視線の意図に気づかないわけがなかったが、はあえてなにも言わなかった。
 はフォルデを一瞥し、ゼトの背へ視線を戻した。

 ゼトは、エフラムがずいぶんと無茶をしたと言ったが、彼もまた無茶をしたのだということは見ればわかることだった。いくら腕の立つ騎士とはいえ、誰かを守りながら戦うということは容易ではない。
 エフラムとエイリークは双子だが、性別から性格に至るまで、まるで異なる。
 いまでこそ、こうしてレイピアを手にしているが、エイリークは武器を持って戦場に立つような方ではない。彼女は、守られるべきひとであり、たちにとって守るべきひとである。

「気を抜くのはまだ早いわ。フォルデ、フランツに兄らしい姿を見せてあげることね」
「へ? ああ、まあ……ほどほどに頑張りますよ」

 気を抜くなと言うのに、気の抜けた返事である。あまりにフォルデらしくて、は笑みを零すと「カイルが睨んでいるわよ」と、忠告してあげたのだった。






 フレリア城でようやくひと心地ついたは、久しぶりに鎧の手入れをして、ゼトに手渡された剣も丁寧に研いだ。新しい相棒となる馬にも挨拶を済ませたし、出立の準備は整った。
 けれど、胸のもやもやが消えてくれず、の表情は妙に晴れなかった。

 ロストン聖教国に向かうエイリークに対し、エフラムが向かうのは敵地グラド帝国である エイリークはロストンに向かうにあたって、これまで一緒に過ごしてきた者たちを、エフラムに預けた。そこにはもちろん、ゼトも含まれている。
 主の決めたことに異を唱えるつもりはない。そんなことは許されないと理解している。
 けれど、従うのと、納得するのは違う。

 厩舎にゼトの姿を認めて、は足を止めた。が声をかけるより早く「か」と、ゼトが振り向いた。は動揺を悟られないように、いつも通りを装って自分の馬の元へと近づいた。

「早いのね」
「それを言うなら、君のほうこそ」
「わたしは……なんだか、気が急いてしまって」

 馬を撫でながら、は目を伏せた。

「ゼト、あなたはほんとうに……」

 ブルル、と馬が鳴らした鼻の音に、の声が紛れる。
 の声が届かなかったのだろうゼトが、眉をひそめてこちらへと距離を詰めてくる。は意を決して、ゼトを見つめた。

「ほんとうに、これでいいの? エイリーク様のお傍にいるべき──いいえ、いたいのでは?」

 ゼトが虚を突かれたように、瞠目する。

「なにを……」
「あなたは騎士の鏡のようだわ。でも、騎士にも心はあるでしょう。エイリーク様のお傍を離れず、手ずからお守りしたいと思ってはいない?」
「何故、そんなことを」

 険しい顔をして、ゼトがの手を掴んだ。
 何故、とゼトはほんとうにそう思っているのだろうか。十年来の同僚を少しも理解していないのか、もしくは理解することを拒んでいるのか、を見つめる静謐なその瞳からは読み取ることができない。

 捨てたくて、断ち切りたくて、でもいまだにこの胸を軋ませる。
 それを口にするのには、ひどく勇気が必要だった。

「あなたはエイリーク様を、」

 は一度、口を噤む。

「……いいえ、わたしが言うべきことではないわね。ごめんなさい、いま言ったことは忘れて」

 はゆるくかぶりを振って、掴まれた手首へと視線を落とした。エイリークを守り抜いた手が、そこにはある。
 には、どうしたって、エイリークを守るべき手に見えた。

 確かなことがあるとすれば、この手に守られるべくは、決してではないということだ。ゼトの手よりも小さいの手は、剣だこもあるし、肥厚してかさついてもいる。女性らしさの欠片もない。
 普段は誇らしく思える手が、なんだか途端に恥ずかしく思えた。は手を引っ込めようとするが、ゼトの手が離れてくれない。

「ゼト、」
「……なるほど、私がいては邪魔ということか」
「え?」

 は瞳を瞬かせ、ゼトを見上げた。

「邪魔って」
「おい、そんなに急がなくてもいいだろ? まだ時間はあるじゃないか」
「お前という奴は、そう言っていつまでもダラダラと……」
「あれ? ゼト将軍……うわ、さんまで! みんなして、気が早すぎやしません?」

 はあ、とフォルデがこれ見よがしにため息を吐く。続けて「真面目な奴らに囲まれて、肩身が狭い」と、小さく唇を尖らせて不満を漏らすので、カイルが眉を吊り上げた。

「フォルデ!」
「いいのよ、気にしないで。わたしたちが早くに来すぎたのはほんとうだもの、ねぇゼト」
「…………」

 ゼトからの返事はなく、眉間に皴が刻まれるばかりだ。ぐ、と手首を掴むゼトの手に力が込められる。

「あー……と、そういやちょっと忘れものがあったような」
「なに? フォルデお前……」
「お、なんだカイル、お前もか! ははは、いやあ時間に余裕があってよかった」
「お、おいフォルデ、引っ張るな」
「あっ……二人とも、」

 止める間もなく、フォルデがカイルを連れて引き返していく。気を遣わせてしまったのは明らかで、は申し訳なく思う。
 見上げたゼトの顔は、険しいままだ。

 は不安に顔を曇らせる。十年来の同僚のことを、理解できていないのはのほうかもしれなかった。

「それに……あなたは深手を負って、万全ではないでしょう。苛烈な戦いに身を投じるエフラム様より、危険の少ないエイリーク様の元にいるほうがあなたにとっても」

 言いわけがましい言葉ばかりが並んでしまって、どれもこれもが詭弁じみていた。
 長いため息のあと、ゼトがようやく手を離した。

「……すまない」
「いいえ、謝るようなことはなにも……」

 は手を胸に抱き、俯いた。
 落ちた沈黙の中、馬が不機嫌そうに蹄を打ちつける。はそろりと顔をあげた。真摯な瞳がそこにはあって、は一瞬言葉に詰まる。喉になにかが張りつくような感覚を覚えながら、は口を開いた。

「……ゼト、あなたを邪魔に思うことなんてあり得ないわ。わたしはただ、あなたがあまりに騎士然としているから」
「私が、己の心を偽っていると?」

 は小さく息を呑む。
 ほんとうは、気づいていた。騎士らしくありたいと願い、自分の気持ちを偽っているのは、自身である。死の間際に思い浮かべるべきは、主君の顔であって、想い人ではない。
 ちがう、と言いたかったのに、の唇からは震えた吐息が漏れただけだった。

、君を責めるつもりはない。だからどうか……泣かないでくれ」

 ゼトの指先がの目尻に触れた。瞬きの折に、涙が弾けて落ちる。

「ごめんなさい、こんな……」

「わたし……」

 、ともう一度名前を呼んで、ゼトはの唇を縫いつけてしまう。は黙って、ゼトを見つめた。

「私は、君が思っているほどできた騎士ではない」

 そう言って、ゼトが険しい顔をようやく緩ませた。

「君は、私がエイリーク様の思いを汲み、望みを叶えたと思っているな。確かに、エフラム様の力になるように希望されたのはエイリーク様だが、進言したのは私だ」
「どうして……」
「どうして? ほんとうにわからないのか?」

 ふ、とゼトが笑みを零す。そうして「君は案外、私のことを理解していないのだな」と、の心を見透かしたかのように、ゼトが揶揄いを含んで言った。
 捨てるべき、断ち切るべき想いを、ゼトの手が掬い上げてしまう。

 ──ゼトが好きだ。
 もうずいぶんと前から、憧憬は恋に変わってしまった。想いと共に溢れた涙を、ゼトの指先がやさしく拭った。

「私の槍は、確かに主君を守るためにある。だが、時に君を守るために振るったとしても、許されるだろう?」

 うんともすんとも言えないのは、騎士であるが邪魔をするからだ。けれども、ゼトの気持ちに応えたくて、は小さく頷きを返した。
 「意固地だな」、とゼトが困ったふうに、苦笑交じりに呟きを落とした。

「だが、君の頑固さは嫌いじゃないよ」
「……それはよかったわ」

 ふい、とは顔を背ける。「あなたには嫌われたくないもの」と、続けた声は馬の嘶きに紛れて、ゼトに届いたかは定かではない。赤らんだの頬をひと撫でして、ゼトの手が離れていく。
 無意識に追いかけた視線の先で、ゼトが小さく笑った。

「私が君を嫌うわけがない」

 君が私を嫌わないように、とその言外には含まれているように聞こえたのだった。

生を惑わせない

(あなたの存在こそが、)