長い前髪が左目にかかっているが、それを鬱陶しげにする様子もなく、払い除けることもない。本に落ちた視線は、一度だってリンハルトを捉えてはいなかった。リンハルトが書庫の同じ机に座っていることにすら、気がついていないのかも知れない。それだけ真剣に読む本が気になるが、おそらく紋章に関するものであることは、想像に容易い。
少しのつまらなさを感じるものの、を観察する絶好の機会でもあった。
リンハルトは手元に本を開きながらも、すでに関心はにしかない。
眼鏡がうまく瞳を隠しているが、それでもこれだけつぶさに見つめていれば、の左右の瞳の色が異なることなどリンハルトはとうに知っていた。
最近の彼女は、何かに急き立てられるかのように、以前にも増して書庫に閉じこもって勉強している。
その理由は見当もつかないが、だからこそリンハルトは知りたかった。
「あら、リンくん。珍しいですねぇ、気持ちのいいお天気なのにお昼寝していないなんて」
リンくん、という呼び方をするのはドロテアだけである。ふいに「リンさん」と、が口にしたことが、脳裏を過ぎった。
帝国の歌姫と名高いだけあって、ドロテアの声はさして大きくはないのに、よく通った。
が顔をあげる。リンハルトを捉えた視線がドロテアに向いて、何故か気まずそうに目を伏せる。おや、とリンハルトは内心で首を傾げる。とドロテアに接点があるとは到底思えなかった。
「こんにちは、ーちゃん」
耳慣れない呼び方だが、のことを指しているのだろう。が「こんにちは」と、小さな声で答えて、会釈する。
リンくんやらエーデルちゃんやら、妙な愛称をつけるものだ。
「ふふ、真面目なんですね」
ドロテアが机上に重ねられた本を見て、双眸を細めて微笑む。
「いえ……」
「意外だな。君がドロテアと親しいなんて」
「えっ、いえ、そんな」
慌ててかぶりを振るに対し、ドロテアが腕を首に絡めた。まるで恋人にするかのような、甘やかな仕草だった。
「意外かしら? 私はーちゃんみたいに可愛い子、好きですよ」
「ド、ドロテアさん……」
ドロテアの腕の中で、が困り果てた顔をしている。嫌なら嫌と言えばいいし、腕を振り解いたっていいはずなのに、が救いを求めるようにリンハルトを見つめた。リンハルトは小さくため息を吐く。
「やめなよ、が困ってる」
「違います。困っているんじゃなくて、照れているのよ」
の顔を覗き込んだドロテアが、くすくすと囁くように笑う。うっすらと赤みが差したの頬を、ドロテアの指先が撫でた。
居心地悪そうに、が身を竦める。
面倒だな、とリンハルトは思う。このままを見捨てることは容易い。リンハルトは面倒ごとに首を突っ込むような性質ではないし、お人好しでもない。
リンハルトはもう一度ため息を吐く。
それでもを放っておけない理由は、単純に興味があるからであるに他ならない。
興味──が隠そうとしていた紋章も、隠したい理由も暴いてしまったのに、それ以上彼女の何に興味を抱いているのかリンハルト自身判然としない。一応、考えてはみるものの、考えているうちに眠くなってしまってどうでもよくなる。
の瞳がわずかに潤んだように見えて、リンハルトは眉根を寄せた。
「……ドロテア」
一段低い声を出せば、ドロテアが渋々といった様子でから離れた。が静かに胸を撫で下ろす。
「ねぇーちゃん? もしグリットちゃんみたいなことがあったら、私に相談してくださいね」
が肩を震わせて、身を強張らせた。眼鏡の奥の瞳が不安げに揺れる。
ドロテアが励ますように、あるいは慰めるように、の肩に手を乗せた。「悪い男に引っかからないように、私が目を光らせていますから」と、意味ありげにリンハルトを見やりながら、ドロテアが片眼を瞑って見せる。
まるでリンハルトが悪い男だと言わんばかりで、心外である。
艶やかに彩られた唇に笑みを乗せ、小さく手を振ってドロテアが踵を返す。上機嫌なその背を見送ってなお、の身体は緊張したままだった。
じっと見つめるリンハルトにも気づく様子が微塵もない。
もしグリットちゃんみたいなことがあったら──学級も違えば、興味もないイングリットのことなど、リンハルトにわかるわけもなかった。
「」
リンハルトは、が開いていた本を閉じてしまう。「いくらなんでも、根を詰めすぎじゃない?」と、ため息交じりに言えば、が唇を噛み締めた。
「リンハルトさんには、関係のないことです」
「あれ? ひどいな、ドロテアにはそんなふうに言ってなかったじゃないか」
物言いたげな瞳がリンハルトを見つめて、すぐに伏せられる。
の口を噤む癖が、リンハルトはあまり好きではなかった。
リンハルトの言葉はすべて本音であるが、他人がそうではないことなど知っている。ただ、言葉にすらされないと、彼女の内心など考えようもなかった。リンハルトは決して、感情の機微に明るいわけではないし、むしろ他人の気持ちなど蔑ろにしがちである。
「隈ができているし、顔色もよくない。僕が言うのもなんだけど、君、寝てる?」
が顔を俯かせる。リンハルトはもっと色々言ってやりたいところを抑えて、積み重ねられた分厚い本を手にする。
素早く伸びたの手が、リンハルトの手ごと本を押さえた。指先のひやりとした温度が伝わってくる。
「……自分で、片づけます」
しばし、睨み合うように見つめあったあと、が呻くように告げた。
桃の氷菓を前に、が不可解そうに眉をひそめる。
「どうしたの? 甘いもの、好きだったよね」
リンハルトは小首を傾げながら、匙に氷菓を乗せての唇に押しつけた。結ばれた唇が、冷たさに耐えかねたのかリンハルトの強引さに観念したのか、おもむろに開かれる。
「美味しい?」
「……はい、おいしいです」
「そう」
が眉根を寄せながらも小さく頷いたのを確認して、リンハルトはもう一度氷菓を掬った。
「あ、あの、自分で食べられます」
リンハルトはの言葉を無視して、口元に匙を突きつける。
が困り果てた顔で、視線を彷徨わせ、意を決したように口を開けた。リンハルトは、その小さな隙間に匙を差し込む。
「…………」
の白い頬が、淡く色づく。
ドロテアの時と同様、困っているし、照れてもいる。
さすがに揶揄いすぎたかな、とリンハルトは今度こそに氷菓の乗った小皿と匙を差し出した。が戸惑いながら自分で、氷菓を口にする。リンハルトは頬杖をついて、その様子を見つめた。
ドロテアとの関係を意外だと言ったが、ドロテアとイングリットが親しいのだって意外である。明るく華やかなドロテアに対し、どちらも真面目で堅実であり、どちらかといえば地味なほうだ。
「最近の君の様子、イングリットと関係があるの?」
考えてもわからないことは、聞いたほうが早い。
リンハルトはそう判断して、ズバッと核心に迫った。まどろっこしい言葉遊びは好きではない。
「えっ……」
が思わず、というように、丸く見開いた瞳でリンハルトを凝視した。
中途半端に持ち上げられた匙から、溶けた氷菓がぽたりと皿に落ちる。
「いえ、イングリットさんは何も……」
がさっと目を伏せる。
「……わたしは、」
きゅ、と噛み締められた唇が、慄く。匙を握る指先が、力んで白んでいた。
「ほんとうに、無価値なのだと──」
震えた声が、尻つぼみに消えていく。
に言いたくないことを言わせるのは、一体何度目なのだろうか。覚えた既視感に、思わずじっと見つめた瞳は、乾いていた。
「君は無価値なんかじゃない」
「っ」
「少なくとも、僕にとっては、こうして昼寝を惜しんで時間を割くくらい価値のある人だよ」
「……、」
が小さく息を呑み、きつく唇を結んだ。
その顔が見ていられなくて、リンハルトはの手から匙を奪うと、彼女の口へ桃の氷菓をねじ込む。
「んっ」
小さく驚きの声を上げたが、リンハルトを見やった。
舌の上で氷菓が溶けていくみたいにして、滲むようにそっとの唇が綻ぶ。
「ありがとうございます、リンハルトさん」
丁寧に頭を下げるのつむじを見つめながら、リンハルトは肩を竦めた。
「あのさ……別にこれ君を慰めるためのお世辞でもなんでもなく、本音だからね」
「……え?」
「え、って。聞こえなかったの? 僕は、心の底から君は価値のある人間だって思ってるんだけど」
が、二度三度と瞳を瞬く。そうして、青ざめてすらいたその顔が、じわりと赤みを帯びた。
「わ、わたしは……縁談すらもなく、家のお荷物にしか」
「縁談? ああ、ドロテアがそんな話をしていた気もするな。ふーん……なんだ、そんなことを気にしてたんだ?」
「そんなこと……」
「なら、帝国貴族なんてどう? ヘヴリング伯爵家の嫡男だったら、親御さんだって文句は言わないんじゃない?」
「は、はい?」
の声が裏返る。
思いつきで口にしたものの、案外よい考えかもしれない。一緒にいれば、何故こんなにも興味を抱くのか、その理由も自ずと見えてくるだろう。リンハルトはひとり、頷いて納得する。
ふと、先ほどの書庫でのやりとりを思い出す。の縁談があれば、ドロテアが口出しするのだろうか。
「そうだ、ドロテアのお眼鏡に適うかな? どう思う?」
リンハルトは小首を傾げての顔を覗き込む。数拍待っても返事はなく、気がつけば氷菓がすべて溶け切っていた。
「」
「あ……」
「言っておくけど、冗談でも揶揄っているわけでもないよ」
リンハルトはそう念を押して、の逃げ道を塞いでしまう。
ちょっと“悪い男“っぽい気がしなくもないが、こうでもしないと冗談だなんだと言って、が取り合ってくれないのは目に見えている。
「……ど、ドロテアさんに相談してみます」
が上ずった声で、小さく呟く。
「うん、そうしてよ」
リンハルトは涼しい顔で答える。
いずれにしたって、には悪いが彼女の返事は是しか認めないと、リンハルトは決めていた。