「っ……」

 その小さな呻き声を聞き漏らさなかったのは、ライがラグズの獣牙族であったからだ。
 ストン、と軽やかに木から降り立ったの姿を見て、ライは足を止めた。それ以上は近づけなかった、というほうが正しい。

「ほら、もう大丈夫」

 穏やかな声で語りかけているにも関わらず、腕の中から飛び出した子猫が、一目散に逃げていく。木の上から降りられなくなって震えていたところを助けてもらったのだろうに、とんだ薄情者である。しかし、駆け抜けていった子猫と同じように毛を逆立てる己が言えたことではないかもしれなかった。
 子猫を追いかけた視線が、ライを捉えて軽く見開かれる。
 ふと、右手の甲に走る三本線に目が止まって、ライは眉をひそめた。がさっと手を後ろに隠す。



 ほんとうは手首を掴んでやりたかったが、ライは名を呼ぶに留めた。それだけで、十二分に伝わるはずだ。
 思った通りに、が気まずげに目を伏せる。

「傷、ちゃんとミストに見てもらえよ」
「必要ない」

 先刻の穏やかな声音とは打って変わり、硬い声が答えた。ライの視線を跳ね除けるように、が踵を返す。

「……いつものことだ」

 ライは手を伸ばしかけてしかし、一歩も踏み出すことができなかった。
 宙に浮いた手で目元を覆うと、ライは深くため息を吐いた。己の不甲斐なさに嫌気がさす。の気配が消えて、逆立っていた毛がぺたりと戻る。自分の身体だというのにままならない。

 じわりと汗が滲む手のひらに視線を落として、ライはもう一度ため息を吐いた。




 金属と金属がぶつかり合う音を捉えて、ぴくりと耳が動く。
 筋骨隆々とした腕から繰り出される剣技を凌ぎきれず、弾き飛ばされた訓練用の剣がライの足元まで転がってくる。考えるよりも動くタイプのアイクはやはり、スクリミルと似ている。いま頃スクリミルも訓練に励んでいるはずだ。

「ライ」

 剣を拾い上げたライに声をかけたのはアイクだった。三年前とはまるで別人のように逞しく、ベオクの成長の目覚ましさには驚くばかりだ。すい、とライは視線を動かす。
 アイクと対峙していたが、顔を強張らせた。
 剣を弾かれた衝撃で痛むのか、右腕をさすっている。手の甲の傷を確認したかったが、グローブのせいで見えなかった。

「……戦いに備えて、体力を温存しておけよ」
「もっと言って、ライさん! もうっ、お兄ちゃんもも、わたしが言っても聞かないんだから」

 頬を膨らませたミストが駆け寄り、ライの手から剣を受け取った。「怪我したらどうするの」と、ミストに詰め寄られたが、大人しく鞘を差し出す。アイクも剣を鞘に収めていた。

 とミストが向かい合わせになると、鏡に映った姿を見ているような気分になる。
 二人の顔も体格もほぼ同じだが、の髪と目はアイクと同じ色であり、中身もアイクに非常に似ている。双子なのに不思議なものだが、考えてみれば同じく双子であるキサとリィレも見た目こそそっくりだが、正反対な性質である。そういうこともあるのだろう。

、手は?」
「……」

 途端に、が嫌そうに顔を歪める。
 逃げの姿勢を見せたに気づいて、ライは素早くその手首を掴んだ。がぐっとまなじりに力を込めて、非難がましい視線を向けてくる。

 その理由を、ライはよくわかっているつもりだ。が無言で不服を訴えてくるが、ライは無視して右手からグローブを脱がせた。手の甲の三本線は出血こそしてないものの、赤く痛々しい。

「わっ、どうしたの? それ……」
「……猫に引っ掻かれた」
「ええっ! もう、だめだよ。は動物と相性が悪いんだから」

 ミストが腰に括りつけていた杖を手にして、に掲げる。ふわりとした光に包まれて、の傷が消えてなくなる。ライは甲に目を落とし、指先で撫でてその滑らかさを確認する。
 が素早くライの手を払った。

「余計なことを。わたしは、あなたに世話を焼かれる筋合いはない」

 可愛げのかけらもない態度に、ライは肩を竦める。確かに、ライが世話を焼くべきは他に──思い当たりがありすぎて、耳が痛い。
 ぽこっ、との後頭部をミストの杖が叩いた。

「こら! ライさんに失礼でしょ」
「……ミスト、痛い」

 が不満そうに、わずかに唇を尖らせる。
 ミストと比べると口数が少なくて、やや大人びて見えるけれど、そういう表情をすれば年相応の少女らしい。

「ごめんなさい、ライさん」
「いや、気にしなくていいさ。アイク、邪魔したな」
「ライ、何か用があったんじゃないのか」

 アイクの言葉に、ライは首を横に振って己の甲を指さした。アイクがを見て、不可解そうに眉をひそめる。

「可愛い妹に傷が残ったら大変だろ?」

 おどけて言えば、アイクがなおもわけがわからないと言わんばかりに首を捻る。どこまでも朴念仁である。
 ライはアイクの肩を軽く叩くと、踵を返した。


 の気配を探ることは、ライにとっては朝飯前だった。
 それは決して誇れることでも喜ばしいことでもなかったが、戦場において彼女の居場所を把握するのには、役立っている。そんなふうに、ライが気にかけていると知れば、おそらくは嫌がるだろう。

「眠れないのか?」

 はっと息を呑んで、が振り返る。同時に、にゃあ、と小さな鳴き声がした。

「ん? ああ、昼間の子猫か」
「……ライさん、」

 実に、不機嫌そうな声だった。ライは足を止める。
 が苦虫を噛み潰したような顔でライを見ているのが、暗がりの中でもわかった。

 に嫌われている、というのは正しい表現ではない。ただ、こんな顔をさせてしまっているのは、他ならぬ自分に原因があるとライは知っている。
 生まれつき正の気が強いミストに反し、は負の気が強い。
 ミストほどの極端さはないが、動物には好かれないし、ライのように影響を受けやすい者は調子を崩してしまう。リュシオンやリアーネの傍には寄らぬよう、鷹王直々に言付けられていたくらいだ。どうにもライと折り合いが悪いのは、致し方のないことである。

 子猫がの元を離れて、ライに飛びついてくる。それを、が羨ましげに見つめていた。

「ミストには言わないでほしい」
「わかってる。また、引っ掻かれてないか?」
「……あなたは、兄より過保護だ」

 がため息交じりに呟く。

はアイクに似て無鉄砲だからな。過保護なのは多いほうがいい」
「兄さんと一緒にされたくない」

 が不満げに唇を尖らせた。日が落ちて、距離もあるから、こちらには見えないと思っているのかも知れない。生憎と、ライは獣牙族の中でも夜目が利くほうだった。ライは、その子どもっぽい仕草をしげしげと見つめる。

 しばらく足元にまとわりついていた子猫が、構ってもらえないと気づいたのか、ふいっと顔を背けて立ち去る。少しも後ろ髪を引かれる様子がなくて、ライは苦笑を漏らした。

「ほら、。戻ろう」

 そう促すが、の足が動く気配はない。「ミストが慌てて探しにくるかも知れないぞ?」と、言えば、渋々といった様子で近づいてくる。

「ひとりで戻れる」
「あのなあ……いくら腕っぷしに自信があったって、おまえは女の子なんだぞ。ミストとおんなじ」
「はあ? わたしはミストとは違う」
「いーや、違わないね。例えば──化身しなくたって、オレはおまえを力づくでどうにかできる」

 そう言うが否や、ライは地を蹴って、距離を詰める。反射的に身構えたの足を払って、バランスを崩した身体をそのまま草地に押し倒す。丸い瞳がライを見つめていたが、すぐに鋭い視線に変わった。

「……不意打ちなんて、卑怯だ」

 が悔しげに唇を噛む。ライは歯で傷つかぬように、親指で口をわずかに押し開いた。
 物言いたげな瞳が、さっと伏せられる。

「卑怯で結構。とにかく、過信は禁物だ。わかったな?」
「…………」

 が小さく頷く。
 ライはの右手を持ち上げて、ぷくりと浮き出た鮮血に目を細める。「あっ」と、が慌てて手を引こうとするが、ライは手首をがっちりと掴んで離さない。

「それから、身体に傷なんて残すなよ。女なんだから」

 指についた引っ掻き傷に、舌を這わせて血を舐めとる。が目を見開いて、固まった。

 ひょい、と身体の上から退くが、は仰向けのまま動かない。
 ライは顔を覗き込み、手を差し出した。しかし、その手を取ることなく、がのろのろと立ち上がる。

?」
「近づかないで。また、気分を悪くしたらどうするんだ」

 が苦々しげに言って、走るような速さでズンズンと歩いていく。
 ライは慌てて追いかけて、の隣に並ぶ。

「自分の身体は自分がよくわかってる。平気だよ」

 が疑わしげに見上げてくるので、ライは肩を竦めた。毛がざわざわする感じはあるが、まだの負の気に当てられてはいない。

「ミストと居るときしか、わたしの近くに寄れないくせに」
「……まあ、それはそうだけど」

 ミストの傍にいると、の負の気はほとんど感じられない。そのため、どれだけ近くにいても、長時間傍にいても、ライの調子が崩れることはない。けれどもそれでは──ミストの前では、到底できないことが多すぎる。
 ふと、が足を止めた。

「だったら、何故わたしに構うんだ。兄の妹だから?」

 が心底不思議そうに首を傾げる。朴念仁なところも、アイクとそっくりだった。
 ふ、と思わず笑いが漏れる。が眉をひそめた。

「ま、そのうち嫌でもわかるさ」

 三年前から、ライの気持ちは決まりきっている。化身した獣の姿を、恐れるどころかうっとりと見つめたの瞳に、ライこそが見惚れてしまったのだ。

世にも儚く口付けて

(この尾の緊張は、負の気のせいだけじゃない)