は弟と10も年が離れていて、何なら彼のおしめだって換えたことがあるのだから、そんな存在を愛おしく思わないわけがなかった。身長はそこそこ昔に超えられてしまったけれど、それでもの中ではいつまでも可愛い可愛い弟だった。
 それを言うと、思春期の青年らしく嫌がるので口にはしない。でも恐らく、の愛情は駄々洩れで、本人にもその周囲のひとにもバレていることだろう。

「ふーじた!」

 見つけた背中に抱きつくと、びくりと大袈裟なほどに震えた。
 思えばこの背中も大きくなったものだ。感慨深く思いながら、は鼻先を背中に擦りつける。「ちょっ……」と焦る声が聞こえてくるが、無視してぎゅうっと抱きつく腕に力を込める。

 弟の藤田は煙ファミリーに入ってからというもの、魔法の練習ばかりしていて、ろくにに構ってくれない。寂しいし不満だし、心配である。ホールでパートナーの松村を失って以来、何やらファミリーの幹部と行動を共にしている。
 そのせいで顔を合わす機会もほとんどないのだから、たまに会ったときくらい、可愛がらせてほしい。
 なのに、の身体はグイっと後方に引っ張られて、藤田から引き剥がされる。

「あっ、心さん……」

 振り返る藤田が、あからさまにほっとした顔をする。姉さんは悲しい。
 の首根っこを掴むのは、煙ファミリーの掃除屋である心だ。心臓を模したマスクは相変わらず気持ちが悪くて、おどろおどろしくて、最高に強そうである。実際、心は強い。

「離していただけますか?」

 は内心で悪態をつきながら、なるべく穏やかな声を出した。力では敵わないのはもちろんのこと、が角を立てては煙ファミリーの下っ端である藤田に迷惑が掛かる。

「…………」

 じっ、と見下ろす心の表情は、マスクのせいでわからない。
 ふいに首元の圧迫感がなくなって、は自由になる。軽く放り投げるように手を振るわれて、はよろめいた。ふらふらと藤田にぶつかる。

「……ねぇ、心さんっていつも不機嫌だよね」

 はこそっと藤田に耳打ちする。「ソレは、アレだよアレ」と、藤田が目を逸らした。には藤田の言う”アレ”が何であるのか、皆目見当もつかなかった。

「なぁに? はっきり言って、藤田」

 途端に、心がぎろりと睨んできたので、藤田が竦みあがっての後ろに隠れる。は軽く肩を竦めた。

「心さん、あまり藤田を怖がらせないでください」
「……なら藤田、いますぐから離れるんだなァ」

 心の手にハンマーが握られるのを見て、藤田が猫のように俊敏な動きでから距離を取った。3メートルくらい離れていたので、はすこしショックだった。

「姉ちゃん。悪いけどオレ、もう行くわ」
「えっ」
「まだ死にたくないしさ」
「え?」

 ハハ、と乾いた笑いを漏らした藤田が、一目散に去っていく。

「まさか心さん、藤田のこといじめているわけじゃないですよね」
「ハァ? しねーよ、んなこと」

 心外だ、と言わんばかりである。
 心にとっての藤田などその辺の石ころみたいなもので、興味も関心もなければ、よしんば敵意をもって攻撃されたとしても蚊に刺された程度に過ぎないことは想像に難くない。

「それならいいんですけど……」

 ふう、とは小さくため息を吐く。突き刺さるような視線を感じるが、心の表情も考えもにはさっぱりわからなかった。
 藤田と話していると、大抵いつも、心の邪魔が入る。

「心さんは、お仕事帰りですか?」

 は小首を傾げ、心を見上げた。
 スーツが汚れているのはいつものことだったが、今回はその血が乾いたものではなく、湿っていた。ふいっ、と心が顔どころか身体ごと背けた。

「まあ、そンなとこ──
「せんぱぁい! なァんで置いてくんですかーって……アレ? 藤田のねーちゃんじゃん」

 ドスドスと駆け寄ってきた能井が、不思議そうにを見下ろす。心といい、能井といい、何を食べればこんなに背が伸びるのだろう。視線を合わせていると首が痛い。

「こんにちは、能井さん」
「オウ!」
「……オイ、待て。俺と能井との態度が違い過ぎないか」
「まさか、そんなことありません」

 はそう言って笑ったが、本音は己の胸に手を当てて聞いてほしいくらいだった。能井は間違ってもの首根っこを掴むような真似はしないし、理由もなく藤田を睨みつけたりしない。

「あ、先輩! メシ食いに行きましょうよ。藤田のねーちゃんもどうだ?」
「わたしも?」

 は思わず、二人の血まみれの服を見つめてしまった。

「う-ん……おなかが空いていないので遠慮します。誘ってくださったのに、ごめんなさい」

 残念そうに肩を落とした能井に対し、心はまったく関心がなさそうだった。
 は二人に会釈をして、踵を返す。藤田がいない以上、ここに留まる理由はない。
 もっと藤田と話したかったのに、と内心で唇を尖らせるは、すでに心と能井のことなど脳内の片隅にもなかった。当然、二人のやり取りなど耳に入るわけもない。

「先輩も素直じゃないなア」
「……ほっとけ」




 ソフトクリームを受け取った恵比寿が、髑髏のマスクを脱いでペロペロと口にする。魔法使いのマスクは己の強さを誇示するもので、どれもこれもが可愛らしいとは程遠いデザインをしている。しかし、この髑髏の下の素顔はとても愛らしくて、は頬を緩ませた。

「姉ちゃん、恵比寿を甘やかすのも大概にしろよ」

 と、言いつつも、同じように甘やかされている藤田がまんざらでもなさそうにソフトクリームにかぶりつく。
 は藤田をちらりと見てから、恵比寿へと視線を戻す。藤田にだって、このくらい素直な時期もあったはずだが、最近ではすっかり素っ気ない。というか、顔を見るとすぐに逃げ出す姿勢を取るようになってしまった。姉さんは寂しい。

「なんか最近冷たいよね」
「え!? いや、そんなつもりは」
「あーあ、前は姉ちゃん姉ちゃんって可愛かったのになぁ」
「いつの話だよ! つーか、姉ちゃんさぁ……」

 藤田がキョロキョロと辺りを見回し、声を潜める。

「心さんと──
「俺がどうしたって? 藤田」

 ぐいっ、とリュックサックを引っ張られた藤田が、カエルがつぶれたような悲鳴を上げる。

「やだ心さん、藤田に乱暴しないでください」
「ちょっ、姉ちゃん、そういうのいいから!」

 藤田が慌てての声を遮る。”アレ”やら”そういうの”やら、肝心なところをぼかすので、にはいまいちピンとこない。
 黙ってソフトクリームを舐めていた恵比寿が、すっと右手で心を指さした。

「シン。シット、ミグルシイ」

 幼い声が告げる台詞とは思えなかった。
 はぽかんと恵比寿を見つめる。心が、壊れたブリキのようなぎこちなさをもって、恵比寿を振り返った。マスクのせいで表情はわからない。

「バカっ、恵比寿!」

 藤田がさっと恵比寿の口を手で覆うと「心さん、スイマセン!」と、脱兎のごとく走り去る。

「嫉妬……?」

 は首を傾げる。

「ばっ、な、ちが」
「心さんったら、そんなに藤田のことを大切に思って」
「ンなわけあるか!」

 心の怒声がびりびりと鼓膜を震わせる。は咄嗟に両耳を手のひらで押さえた。
 おもむろに、心の手がの手首を掴んで、耳から遠ざける。あ、とは小さく声を漏らした。

 いつもマスクをかぶっていて、表情がわからないと思っていたが、心の首がほんのりと赤みを帯びているのが見えた。怒りのせいかとも思ったが、わずかに震える心の指先から伝わる緊張が、そうではないのだと教えてくれる。

「俺は」

 は首の痛みも厭わずに、じっと心を見つめて、言葉を待った。

「アンタのことが」
「先輩! またオレを置いて……」

 飛び込んできた能井が、素早く状況を察して、くるりと踵を返す。「能井」と、心の口から地を這うような声が吐き出され、能井が固まった。

「せ、先輩? これは不慮の事故で」
「そーか、そりゃ不幸なこった」

 心の指先からケムリが伸びて、あっという間に能井の身体がバラバラになる。「しぇんぱい……」と、悲しげな声が弱々しく聞こえてくる。

「しばらくそのままで反省してろ」
「心さん、やり過ぎですよ。大切なパートナーでしょう」
「……アンタのほうが大事だ」

 ぼそ、と呟かれた言葉に、は目を丸くする。
 「あ、やっと先輩が素直に」と、能井が呑気に漏らしたので、その身体はますますバラバラのままになるのだった。

たぬきだってもう少しスマートさ

(告白ひとつ満足にできないなんて、可愛いところがあるのね)