風のない夜だった。虫の音が聞こえている。
大きな月が、まるでこちらを見下ろすように夜空に浮かんでいて、今宵が満月であるとルセアは知った。月明かりに透かされた、己の金の髪に視線を落として、ルセアは小さくため息を漏らした。
性別を間違えられるのは、初めてのことではない。この長い髪がそれを助長させているのなら、いっそのこと短く切りそろえてしまったほうがいいのかもしれなかった。
ふわ、とやさしい風に、髪がなびく。
顔にかかった髪を指で払って、ルセアは視線を上げた。あっ、と思わず声が口をついて出たのは、視線の先にひとがいたからだった。
「さん……」
ルセアの声に気がついて、振り向いたが、深くかぶっていた外套を脱いだ。月明かりのおかげで、頼れる軍師の顔が浮かび上がるように目に入った。
何と声をかけるべきか迷っていると、がすたすたとルセアに近づいた。
じっと見上げられて、ますますルセアはかけるべき言葉を見つけられなくなる。がふにゃりと眉尻を下げて、小首を傾げた。心配されるような顔色をしていただろうか、とルセアは自分の頬に指を添えた。
「……さんも、眠れなかったのですか?」
が瞳を瞬く。違ったようだ、と苦笑したルセアの肩に、の外套が掛けられる。
「い、いけません! お風邪を召しでもしたら……」
すこし大きくなったルセアの声を咎めるように、が人差し指を唇の前に立てた。そうして、大丈夫と言わんばかりに胸を叩いて、力こぶを作って見せる。もっとも、軍師であるの細腕に、力こぶなどないに等しかった。
呆然とするルセアは、そこでが寝巻きのような薄着ではなく、きちんと軽装していることに気づいた。ルセアのように寝付けず、気分転換に外に出たわけではないのだろう。
ルセアは肩から外套が落ちてしまわぬよう、指で襟元を手繰り寄せる。
「すみません、すこしだけお借りします」
が嬉しそうに笑って頷くと、ルセアの手を引いた。
戦場をひとたび離れると、は途端に口を噤んでしまう。けれど、意思疎通に関してそれほど問題がないのは、彼女の表情やしぐさによるのだろう。
の指先は冷えていた。
ふと、何気なく繋がれた手を見やって、ルセアはその小ささに気がつく。そこから繋がる手首は、白くて華奢だ。
この小さな手に、どれだけの重荷が乗っているのだろう。それを思うと、ルセアは胸を締めつけられるような気持ちになる。できることなら、その重荷をすこしでも分け与えてもらいたい。
ルセアはの手をきゅっと握った。
が不思議そうに振り返るが、その歩みが止まることはなかった。
「あの……どこへ向かっているのでしょうか」
が答えることはなかったが、悪戯っ子のような顔をして、空いている手で指をさした。ルセアはその指の先を追って、瞠目する。
村に川があるのはルセアも知っていた。昼間、子どもたちが釣りをして遊ぶ光景も目にしていた。人気のない夜の小川は、静かに水の流れる音を奏でている。そして、その周りをふよふよと漂うのは、蛍だ。
「美しいですね」
ほう、とため息が漏れる。ルセアは目を細めた。
に手を引かれるまま、水辺に近づいていく。蛍が飛び交う様は、ひどく幻想的だった。
「さん、あまり近づきすぎては危ないですよ」
暗くて足元がよく見えない。うっかり川に落ちてしまう恐れもある。
ルセアは咄嗟にの手を引いた。それほど強い力を込めたつもりはなかったが、ふいを突かれたせいか、の身体はよろけて背中がルセアにぶつかった。ルセアは慌てての肩を支える。
「す、すみません。大丈夫ですか」
ルセアの胸元に収まったが、首をひねって振り返る。の瞳が、月明かりを受けて輝いて見えた。ルセアは思わず息を呑む。
が気恥ずかしげに笑って、体勢を整える。そのタイミングで繋がっていた手も離れた。
それを残念に思う自分に気づいて、ルセアは内心で自嘲する。浅ましくて邪な思いを、には知られたくなかった。
の視線が、ルセアから外れて蛍に移る。
けれど、ルセアは、蛍よりもの横顔に目を奪われた。戦場で見る力強い眼差しとは異なる、やわらかくてやさしげなその瞳が、ルセアには蛍よりもずっと美しく思えたのだ。
ここにいるのは、軍師ではない。ただのひとりの女性なのだという気がしてくる。
「…………」
が振り向いて、ルセアはさっと目を伏せた。やさしく笑う気配がする。
ルセアの髪の先を、の指がそうっと撫でる。それだけで、何故だかその金糸が、特別であるような錯覚を覚える。
「さんは、恐らくご存じでしょうが……実は、セーラさんにシスターだと思われていたようなのです。やはり、わたしは男らしくないでしょうか。いっそ、髪を切ってしまえばよいかと考えて」
いたのです、と告げるより早く、が首を横に振った。その顔はすこし怒っているようにも見える。
の手が、ルセアの手を取った。ぴたりと重ねあわされた手に、ルセアの心臓がどきりと跳ねる。の真摯な瞳が、ルセアをひたと捉えている。
ルセアは体格がよいほうではないが、それでもを見下ろすことができるし、この手を包み込むことができる。先ほど触れたの肩だって、頼りなげなほどに華奢だった。男らしくない自分だって──
ルセアは、との静かな声が落ちる。虫の音に、川の音に、かき消されてしまいそうな小さな声だった。
「男のひとです」
ただ、事実を告げられたに過ぎない。
のその一言で、ぶわりとルセアの頬に熱が集まってくる。
「は、はい。そう、ですよね」
ぱっ、とルセアは手を離し、わずかに後ずさる。いくら夜だとはいえ、満月では頬の赤みも見えてしまうだろうか。そんな不安から、ルセアは俯く。
頬に触れた冷たい指先に、ルセアは反射的に首を竦めた。
「さん、冷えて……」
思わず顔をあげれば、怪訝そうに眉をひそめるの顔がすぐそこにあった。距離の近さに固まってから、ルセアはぎこちなく借りていた外套をに纏わせる。
「戻りましょう。夜更かししては、明日に響きます」
来たときとは反対に、ルセアはの手を引いた。が大人しく後ろをついてくる。
「さんは、わたしの髪を好いてくれているのですか?」
先ほどの反応を見るに、髪を短くしてほしくないようだった。もっとも、髪を切ったとて、周囲の反応が変わるとも思えない。
返事がないまま数歩進んだところで、が立ち止まった。
振り向いた先で、が気難しげに眉を寄せている。してはいけない質問だったのかと、ルセアは慌てた。慌てて謝罪を口にしようとして、けれど、ルセアの唇に人差し指が押し当てられる。黙り込んだが手を引くので、ルセアはすこし身を屈めて近づいた。
「すきなのは髪だけじゃありません」
耳に吹き込まれた声は、脳を揺らすような衝撃を与えた。
ルセアは呆然と立ち尽くす。身を離したが、はにかんだ笑みを浮かべる。一見揶揄われただけのようにも思えたが、の顔は暗がりでもわかるほど真っ赤だった。
それを目にして、ルセアの引いたはずの熱が頬に集まってくる。慌ててルセアは片手で顔を覆い隠す。
「えっ!? い、いま、何と……」
くす、とが小さく笑う。そうして、二度は言わないとばかりに、ふるふると首を横に振った。
そのまま、ルセアの手を解いて駆け出す。
宿まで競争、というように、が楽しげにルセアを見る。
「あっ、さん、待ってください……!」
もルセアも、決して体力自慢ではない。互いに息を切らしながら宿にほぼ同着して、顔を見合わせる。いったい何をやっているのだろうと思うが、それが何だか可笑しくて、ルセアは小さく吹き出した。
冷え切っていたの手を握ると、その指先はほんのりと温かった。
「よかった、ほどよく身体も温まったみたいですね」
「……、」
が気恥ずかしげに手を引っ込めようとするので、ルセアはぎゅっと握って離さない。そろり、とが視線をルセアに向けた。
想いを告げることは、許されるだろうか。
けれどそんな逡巡は、と目が合った瞬間に、どこかへ吹き飛んでしまう。この手を離したくない。
「嬉しかったです。さんが……好きだと、おっしゃってくださって」
微笑めば、がさっと顔を伏せる。照れるしぐさが愛おしい。
「わたしと同じ気持ちでいてくれるのでしょうか。わたしは、あなたをお慕いしています」
「……!」
弾かれたように顔をあげたの瞳が、丸く見開かれる。
赤くなった顔を隠すためか、ルセアの胸に突撃するような勢いをもって、の頭が預けられる。じわじわとルセアの顔も熱を帯び、心臓が飛び出すのではないかと不安になるほどドキドキしている。
にはこの鼓動が聞こえてしまっているだろう。隠すすべなどない。
「これでは、ますます眠れそうにありません……」
苦笑交じりに呟いて、ルセアはそうっとを抱きしめた。一瞬だけ身を強張らせたが、緊張を解くと頬を胸元に擦りつけて、ルセアの背に手を回す。
言葉などなくてもの気持ちが伝わってきて、ルセアは嬉しさに頬を緩ませた。