澄み渡る青い空の下、白いシーツがはためく。
 空になった籠を抱えて、はふうと息を吐いた。城仕えになったばかりの頃は洗濯物の量に驚き、慌てふためいたりもしたが、久しぶりに洗濯をこなした気分は爽快だった。

 もう二度と城には戻れない、という気持ちがあったからかもしれない。

「うーん、いいお天気!」

 誰もいないのをいいことに、大きく伸びて、これまた大きな声を出す。はしたないやら、うるさいやらと叱る侍女頭の姿もないのだから、の自由なのである。
 ぶわりと風が吹いて、シーツが膨らんで揺れた。はためいたシーツの向こうに見えた姿に、はピシリと固まった。

「……すまん。覗き見るつもりは」
「わー! アイクさん、なんでここにいるんです!?」

 穴があったら入りたい。は慌ててシーツの影に隠れた。

「訓練場から戻るところだったんだが、がいると聞いて」

 そう言うアイクはどこか気まずげであったか、気まずいのはのほうである。ちら、とはアイクを窺う。

 様付けの敬称を嫌がるから、は仕方なく「アイクさん」と口にするが、いつ不敬だと叩き切られるか心配である。何せ彼は、一度はデインに支配されたクリミア王国を救った英雄である。
 英雄とはいえ──こうして近くで見るとただの青年だ。初めこそ、とてつもなく緊張したが、同い年と聞いては一気に親近感を覚えた。

 クリミア復興に尽力してくれているグレイル傭兵団には、王城の客室を与えられている。
 とはいえあちらこちらへと足を運んで、城を空けることも多かったため、世話を任されたのすることといえば部屋の換気と掃除くらいなものだった。
 エリンシアの即位式を控え、アイクたちは城に滞在している。そのため、ようやくは侍女として、役割を果たせるようになったのだった。

「わたしに何か?」
「騎士たちと手合わせしていたら、熱が入って……」
「まさかお怪我を!?」

 気まずさも忘れて、は慌ててアイクに駆け寄った。

 勢い余っての手から飛び出した籠を、持ち前の反射神経でアイクがキャッチする。その上、何もないところで躓いたを片手で支える芸当をアイクが披露した。
 アイクの手を頼りに体制を立て直し、は顔をあげた。存外、近くで目が合って、お互いに小さく息を呑む。
 ふい、とアイクが視線を逸らした。

 はアイクの腕にしがみついたまま、まじまじと彼を観察する。顔色は悪くない。血がついたところもない。は怪訝に眉をひそめ、背中を覗き込む。
 外套が大きく切り裂かれ、二つに割れていた。

「……怪我はない。破れたところを直してほしい」

 アイクがを引き剥がしながら、告げる。はアイクの後ろに回ると、破れた外套を手に取って、状態を確認する。
 ぱっと見ではわからなかったが、外套には落ちそうにもないシミや、破れて修復した跡があった。これが、アイクと共に死闘を潜り抜けた外套なのだと思うと、が触れてはいけない気になる。はぱっと手を離した。

「これは……直すより、仕立てたほうがいいと思いますけど。かなり傷んでますし」

 そうか、とアイクがひとつ頷く。
 はアイクから距離を取ると、キョロキョロとあたりを見回した。大体いつも、アイクの傍には口うるさい参謀がいるのである。
 やれ、距離が近すぎるだのなんだのと難癖をつけ、アイクさんと呼ぶたびに睨まれるわため息を吐かれるわで、は辟易している。

「どうした?」
「セネリオ様はいらっしゃらないんですか?」
「別に、いつも一緒なわけじゃない」

 アイクがどこか不機嫌そうに答えるので、は首を傾げた。見あげたアイクの顔は、特別むっとしているわけではなかった。

「セネリオ様は、四六時中アイクさんと一緒にいたそうですけど」

 じろ、とアイクに軽く睨まれ、は口を噤んだ。
 アイクが目線だけで促して、歩き出す。ひら、と二又の外套がなびく。はその動きを目で追ってから、はっとして動き出す。

「あ、アイクさん、籠……」
「これくらい持つ。あんたにはでかいだろ」

 たしかに、が持つと空とはいえ、それなりに大変ではある。シーツが山になっていると、前が見えないなんてザラだ。

「ありがとうございます」

 はへへ、と照れ笑いをする。口数は決して多くないし、愛想もないが、アイクはやさしい。さり気なく、歩幅を合わせてくれていることに気づいて、はもう一度小さく笑った。
 一瞥をくれたアイクが何かを言うことはなかった。



 
 アイクにみっともない格好をさせるわけにはいきません、とセネリオに外套を取り上げられたアイクの背に、は布を当ててみる。何度もそうするうちに、アイクが堪えかねたように振り返った。

「そんなに悩む必要もないだろう。見てくれなんてどうでも……」
「何言ってるんです。クリミアの英雄ともあろうお方が、ださい格好していたら嗤われますよ」
「…………」

 アイクが深いため息を吐いた。そうして、今度は身体ごと振り返る。

「どんな格好だろうと俺は俺だ。たとえ嗤われたって、構わない」

 アイクに腕を掴まれて、の手から布が落ちる。
 侍女になっていなかったら針子になっていたかも、というくらいには裁縫が得意だ。外套を仕立てるくらいわけはないのだが、下手なものを作ればセネリオに嫌味を言われることは必至である。それに──アイクが嗤われるのは、彼自身が構わなくたって、が嫌なのだ。

 それを言葉にするのは、難しい。

「それは、そうかも、しれないですけど」

 掴まれた腕からアイクの手の熱が伝わってくる。その手を放して欲しくて、けれど触れて欲しくて、は身動きが取れない。
 は所詮、侍女だ。エリンシアから「私の信頼する侍女です」と誇らしい言葉を頂こうとも、平民も平民の、侍女に過ぎない。同じ平民の出でも、アイクはクリミアの英雄で、エリンシアの騎士として爵位を授かっている。
 本来なら「アイクさん」なんて、気軽に呼んで許される立場にないのだ。

 馴れ馴れしくしないでください。どうせ、あなたとはこの城にいる間だけの付き合いなんですから。

 ふいに、セネリオの冷たい声が脳裏に蘇って、心臓が冷えるような心地がした。
 そんなことは、言われなくたってわかっている。クリミアの復興が進めば、アイクが王城に留まる理由など何ひとつない。

?」

 俯いたの顔を、アイクが覗き込む。目を合わせられなくて、はぎゅうと瞳を閉じる。

「わたしが、アイクさんにできることなんて、このくらいしか……」
「……? いつも助かっているが」
「うそだぁ! 自分でできる、って身の回りのお世話だって碌にさせてくれないじゃないですかぁ」

 ぱっと顔をあげると、思いのほか近くにあったアイクの顔にぶつかりそうになる。アイクがよろめきながら、身を引いた。腕は、掴まれたままだ。

「うそじゃない」

 アイクの視線がを射抜いた。あまりに真っ直ぐすぎて、目を逸らすこともできなかった。

「あんたが城で待ってくれていると思えば、どんな疲れも吹っ飛んださ」

 アイクの触れた場所から、熱が広がっていくような気がした。
 あまりの驚きに言葉を失っていると、アイクがふっと笑みをこぼした。

「何なら、このまま傭兵団に連れて帰りたいくらいだ」

 穏やかな声が耳を撫でる。
 アイクの手がするりと肌をなぞって、の指先を囲って手中に収める。は一拍どころか三拍ほど間を開けて「へっ?」と、素っ頓狂な声を上げた。

「いや、いやいやいや! そんな冗談、」
「冗談じゃない、俺は本気だ。あんたが傍にいるだけで安らいだ気持ちになれるし、笑いかけてくれると力が湧いてくる。がいれば百人力だ」

 はぽかんとアイクを見つめる。真摯に告げられる言葉は、まるで愛の告白である。
 そんなふうに思ってしまったせいで、顔に熱が一気に集まってくる。は慌てて顔を伏せた。

 アイクの指がこめかみの髪を掬って、耳にかける。その流れで、耳たぶをふに、と親指と人差し指で挟まれる。

「耳まで赤い」
「わあっ、そういうことは言わなくていいんです!」

 アイクの口を塞ごうと伸ばした手を、いとも容易く捕らわれる。は恐る恐る顔をあげた。
 を見つめるアイクの眼差しは、柔らかい。蒼い瞳が、悪戯っ子のような輝きを持って、細められる。

「なら、どういうことを言えばいいんだ?」

 は半ばやけくそになって、叫ぶように言う。

のことが好きで好きで堪らないから、傭兵団に来てくれって言えばいいんです!」

 はは、とアイクが珍しく声を上げて笑う。その笑った顔を拝もうとしたが、ふいに繋がった手を引かれて、の視界はアイクの胸元に覆い尽くされる。
 抱きしめられているとが理解したのは、頭上から声が降ってきてからだった。

のことが好きで──
「わあああ! うそ、うそですからぁ、復唱しないでくださいっ」

 恥ずかしさのあまり、泣き声が混じる。ぎゅっとを抱きしめて、アイクがまた小さく笑った。「あんたのためなら、なんでもできそうだ」という囁きが落ちて、はアイクの胸に顔を埋めながら身悶えする。
 口下手とか言いながら、なんて破壊力のある口説き文句をくれるんだ。
 だって、アイクの照れた顔が見たい。何とか一矢報いようと顔をあげるが、笑みを向けられただけでその気持ちが萎んでいく。

「どうした?」
「……別になにも!」

 む、と唇を尖らせて、はアイクの胸に額を押し付ける。顔から火が出そうだ。

「アイクさんが王城を離れても、わたし、アイクさんと一緒にいていいんですね?」
「……ああ」
「セネリオ様に文句言われても、堂々としますからね。わたしは、アイクさんの恋人ですって、胸張っていいんですね?」
「…………ああ、そうだな」

 妙に歯切れが悪い。が顔をあげようとすると、アイクの腕の力が強まって、身じろぎできなくなる。身じろぎできないどころか、息が詰まる。

「アイクさん、ちょ、苦しい」
「あ、ああ、すまん」

 腕が緩んで、今度こそ顔をあげるはずが「何しているんですか」と、氷点下かと思うほど冷たい声に阻まれる。
 セネリオがをアイクから引き剥がした。そして、つんと澄ました顔がを見下ろす。

「僕は認めません」
「どっ、どうしてあなたに認められる必要があるんです? セネリオ様には関係ありません」
「身を弁えるように言ったはずですが、理解できなかったようですね」
「もうっ、アイクさんもなんとか言ってください!」

 の視線を受けて、アイクが小さくため息を吐いた。「先が思いやられる」と呟きながら、アイクがの肩を抱き寄せた。

「セネリオ、後で話をする。ミストたちを集めておいてくれ」
「な……アイク、正気ですか?」
「どういう意味だ?」

 いいぞ、もっとやれ。は内心でアイクにエールを送る。
 アイクに、心底不思議そうな顔を向けられたセネリオが、諦めたようにかぶりを振った。

「わかりました。では、また後で」

 セネリオの悔しげな背中を見送って、は力んでいた肩から力を抜いた。アイクの手が、宥めるように肩を叩く。

「セネリオがすまない」
「アイクさんが謝る必要はないです。それより! 早く生地を決めちゃいましょう。わたしのこと、傭兵団の皆さんにきちんと紹介してくれるんですよね?」

 嬉しさと恥ずかしさを誤魔化すために、は口早に言いながら、布を手にした。の手を、アイクの無骨で大きな手が包んだ。
 は小さく息を呑んで、アイクを見あげる。

「決めるのは、後でもいいだろう?」

 を映すアイクの瞳には、まるで蒼い炎が揺らめいているかのように、熱がこもっていた。の手から布が離れて落ちていく。
 にはもはや、頷く以外の選択肢は残されていなかった。

その青いひとみで見透して

(好きで好きで堪らないのは、わたしのほうだって)