コツリ、とあまりに軽い物音だったため、は始めそれが訪問を知らせる音だと気づかなかった。コンコン、と規則正しく、はっきりと聞こえた音に顔をあげる。
 夜更け、というにはまだ早いが、ひとが訪ねるような時間ではない。
 は怪訝に眉をひそめ、手にしていた本を閉じる。ゴン、と強まった扉を叩く音は、焦れるようだった。「」と、扉の向こうから聞きなれた声がする。

「……クロード、」

 はようやく扉を開けてやる。
 時間も時間だ。部屋に上げるつもりは毛頭なかったのだが、そんな考えなどお見通しとばかりに、クロードが隙間から素早く身を滑り込ませた。
 はむっと唇を尖らせ、険のある声を出す。

「リーガン家の跡継ぎともあろうお方が、こんな時間に何の御用かしら」
「まあそう言ってくれるな、俺との仲だろ」

 クロードの腕が肩に絡みついた。ふわ、と酒の匂いが香って、は胡乱げにクロードを見た。
 色素が濃くてわかりにくいが、頬が薄らと赤らんでいる。

 は小さくため息を吐いて、クロードの腕を払った。酔っ払いに付き合う道理はない。

「あのねぇ、いま何時だと思ってるの?」
「んー?」
「さっさと帰って寝なさい。明日寝坊したって知らないわよ」
「手厳しいな。少しここで酔いを醒まさせてくれよ」

 クロードの腕が、再びに巻きついた。
 平民であるの部屋は、寮の一階にある。言うほど酔っているようには見えないが、ここで追い返して階段を踏み外されても困る。
 はもう一度ため息を吐くが、腕を払い除けることはしなかった。「は俺に甘いな」と、クロードがの首筋に顔を寄せて、上機嫌に呟く。別に甘いつもりはなかった。ただ、クロードが何枚も上手なので、が何をしようとも結局折れるほかないのである。

 クロードもそれをわかっていて、あえて口にしているのだ。はじろりとクロードを見るが、にこりと笑いかけられて毒気を抜かれる。

「冷たい水を持ってくるわ」

 酔いを醒ますというのなら、必要だろうと思っての言葉だった。
 クロードの腕から抜け出そうとするが、ぎゅっとますます抱きすくめられて身動きが取れなくなる。

「クロード?」
「行くな」
「えっ? いや、でも」

 は困惑する。思いのほか、クロードの拘束がきつくて、身じろぐ気にもならないくらいだ。

「……わかった」

 そう言って頷くと、クロードが腕を緩めた。けれど、解放してくれる様子はない。
 顔を覗き込まれて、翡翠色の瞳が至近距離に迫る。目を逸らしたくなるが、はクロードを見つめ返した。恥ずかしさに、じわりと顔が熱を帯びるのがわかった。

 ふ、とクロードが笑みを零す。を見つめる双眸が、柔らかく細められる。

「相変わらず、俺の恋人は可愛いな」

 は小さく息を呑む。
 近くで視線を交わすことに耐えられなくなって、は顔を俯かせた。

 酔いせいなのか、クロードにしては随分と直接的な表現をする。を揶揄うための言葉ではなかった。
 それがわかるからこそ、は顔をあげられない。
 
「耳まで真っ赤になるとは。どれ、顔はどうなっていることやら」
「ちょっ……」

 が止める間もなく、クロードの指が顎を掬った。

「おっと……これは予想以上に、」
「言わなくていい」

 顔から火が出そうだ。はせめてもの抵抗として、ふいと目を逸らした。
 クロードがなおも恥ずかしくなる台詞を口にしようとするので、はさっとその唇を覆い隠した。クロードが目を丸くする。

 望み通りにクロードが沈黙して、は内心でほっとする。たとえ揶揄いや冗談とわかっていたとしても、クロードに甘言を囁かれては、心臓が持たない。ふう、とため息ともつかぬ息を吐いて、は心を落ち着けようと努め──
 ふいに口を押さえた手のひらに、ぬるりとした感触を得る。は悲鳴を寸でのところで飲み込んだ。

「な、ななにを、」

 は慌てて手を離す。
 露わになった口元から、赤い舌先が覗いていた。ぺろ、と下唇を舐める様は、いやになまめかしい。
 舐められたのだと理解した瞬間に、引き始めていた熱が、顔に戻ってくる。クロードが、の手首を捉えた。

「馬鹿だな、そんな顔をしてたら食われるぞ?」

 笑いながら、クロードがの指先を口に含んだ。軽く前歯が押し当てられる。

「ば、馬鹿はどっち! 酔ってるからって、何をしても許されるわけじゃないんだから」
「それは違う」
「はあ?」
「酔っていなくたって、何をしようがは俺を許すね」

 クロードが自信満々に言ってのける。ぐ、とは顔をしかめたが、否定しきれなかったので黙する。
 その顔を見つめながら、クロードが小さく吹き出す。ちゅ、と音を立てて指先に口づけを落とし、ようやくの手を解放した。はさっと手を背後に隠す。

「……クロードに食べられるなら、本望だけど」

 にやにやと笑うクロードを挑むように見つめて、はおよそ睦言とは思えぬ声音で告げる。やられっぱなしは性に合わない。
 クロードが大仰な仕草で、片手で顔を覆ってかぶりを振る。片側に垂れた三つ編みが、可愛らしく揺れた。

「やれやれ、参ったな……」

 意外にも、ほんとうに困り果てた言いようだった。
 おや、と首を傾げる間もなく、クロードが眼前に迫る。先刻まで揺れていた三つ編みが、の頬に触れた。じっとを見つめながら、クロードが確かめるように鼻先をこすり合わせる。ふんわりと香る、お酒の甘い匂い。

「明日」

 クロードの唇が、ほとんど触れる距離で動く。声と共に感じる吐息に、はきゅっと唇を真一文字に引き結んだ。

も仲良く寝坊だな」
「いや、それは困」

 の言葉はむなしくも、クロードの口の中へと消えていった。





 扉の隙間から、きょろきょろと辺りを窺う。昨夜のうちに、クロードを部屋から追い出せなかったことは、この際もうどうだっていい。二人そろって寝坊、という事態を防げたのは、不幸中の幸いだった。
 あとは人目につかず、クロードが自室に戻るだけである。

「コソコソし過ぎると、かえって怪しまれる。こういう時は、堂々としたほうがいいのさ」
「あっ」

 が慎重に外の様子を確かめていたのに、クロードが構わず扉を大きく開けた。

「クロード……」

 は呆れた顔をして、深いため息を吐いた。
 クロードの人差し指が、の唇をそっと抑える。「ため息を吐くと幸せが逃げるらしい」と、ちっとも信じていないような顔をして、クロードが笑いながら言った。
 はクロードの手を、やや乱暴に払った。このくらい、可愛い仕返しである。

「もう二度と、あんな時間に訪ねてきたって、部屋には上げないから」
「そりゃ残念」
「……本気だからね! ほら、もう早く行って」

 クロードの背を押しやったところで「朝から元気だね」と、平坦とも言える静かな声が掛けられた。
 は絶望的な気持ちになる。クロードもさすがに、顔を引きつらせていた。

「おはよう、先生。早いな」
「……クロード、。仲がいいのは構わないが、風紀を乱す行いは見逃せないな」

 ほんの少し、困ったように眉をひそめて、ベレスが告げる。彼女の存在自体が、風紀を乱していると囁かれているとは微塵も思っていない様子で、その豊かな胸を張っていた。

「ごめんなさい、先生。学生として、しっかり節度は守ります」

 はしゅんとして、素直に頭を下げる。いけないことをしてしまった、という自覚はあった。
 ぽん、との頭に、クロードの手が慰めるように乗った。

「悪かった。俺が軽率だったんだ、は追い返そうとしていたしな。だから叱るなら俺にしてくれ。先生」
「クロードだけのせいじゃ……!」

 は慌てて顔をあげる。狼狽えるに向けて、クロードが安心させるように口角を上げた。
 ベレスが軽く肩を竦める。

「反省しているようだし、今回はこれ以上何かを言うのはやめるよ」
「さすが、先生。心が広いな!」

 気安く教師の肩を叩くクロードを、ベレスが胡乱な目で見やる。前言撤回、と言いだしそうな雰囲気に「ありがとうございます。クロード、ほら早く行って」と、は慌てて口を開いた。

「はいはい。じゃ、またあとでな」

 の額に口づけ、クロードが片手を上げて逃げるように去っていく。
 呆然と立ち尽くすの肩を、ベレスがぽんと叩いた。

「困ったことがあるなら、力になる」
「……はい、頼りにしてます」

 は額を押さえながら、力なく答えた。
 ようやくひとりきりになった部屋で、はうずくまる。真っ赤になった顔をベレスにも見られてしまった。恥ずかしい。クロードはなぜすこしも人目を憚らないのだろう。

「クロードの馬鹿」

 今度という今度は、甘いなどと言わせない。クロードを跳ね除けてやる。
 けれどもやはり、そんな決意をしようとも、はクロードには折れるほかないのだ。
 熱っぽい瞳が自分を見て、伽羅色の手がやさしく触れ、その口で名を呼んでくれるのなら──クロードの手の上で転がされたってかまわないと思ってしまうのは、惚れた弱みというやつかもしれなかった。

勝ち負け引き分け無関係

(甘いのは、どっち?)