の密かな楽しみは、斜め前に座るクロードの片側に編まれた髪の毛が、彼の動きに合わせて揺れる様を見ることだ。
ふあ、と気の抜けた呼気と共に、毛先の飾りが揺れる。教壇に立つベレトがわすがに眉をひそめた。「クロードくんってば、大胆すぎー」と、ヒルダが笑っている。
「悪い。先生の授業がつまらない、というわけじゃないんだ。勘違いしないでくれよ?」
「…………」
責めるようなベレトの視線に、クロードが肩を竦める。わざとらしいが、不思議と嫌味っぽくはない仕草だった。
ゆらゆらと揺れる三つ編みの可愛らしさに、はひっそりと口元を綻ばせる。ベレトの視線を感じ、は慌てて表情を引き締めると姿勢を正した。
クロードと言葉を交わしたのは、恐らく片手で数える程度しかない。
裕福で何不自由なく育ったとはいえ、は所詮商家の娘である。紋章などあるわけがないし、成金と謗られたことだって数知れない。にとって貴族とは商売相手であり、肩を並べる存在ではなかった。
まして、リーガン家の跡取りとなれば、住む世界が違い過ぎる。
欠伸を噛み殺したクロードの目尻に、涙が浮かんだようだった。ふと、クロードがちらりとを見て、唇に人差し指を立てる。
は小さく息を呑み、さっと顔を伏せた。
視線を気取られたのだろうか──そうっとクロードの様子を窺えば、すでに前を向いていた。ほっとすると同時に、すこし残念なような心地もする。ともあれ、斜め後ろからとはいえあまり不躾に見つめるものではないと、は気持ちを入れ替えて授業に集中した。
「さん、落としたよ」
掛けられたのは、穏やかで柔らかな声音だったが、の身体は反射的にぎくりと強張った。振り返った先で、ローレンツがにこやかな笑みを浮かべていた。
差し出された手巾は確かにのものだったので、礼を言って受け取る。
「見事な刺繍だ。それはさんが?」
「あ……ええ、でも見事だなんて。ローレンツさんにお見せするようなものでは」
はかぶりを振り、さっと手巾を懐にしまった。ローレンツが柳眉を悲しげに下げる。
「なぜ、卑下するんだい? 僕が世辞を言ったと思っているのかい」
「いいえ。ですが、わたしの刺繍は趣味に過ぎませんから」
「趣味だろうと何だろうと、素晴らしいものは素晴らしい。僕は素直な感想を告げただけだ」
だから誇りに思え、と言わんばかりの態度に、は内心で辟易する。
名門貴族たるグロスタール伯爵家には、も何度か足を運んでおり、その嫡男であるローレンツとは顔馴染みだ。昔からローレンツは紳士的であったが、いかんせん貴族然とし過ぎている。
は如何にもうれしげに微笑んだ。
「そう思っていただけてうれしいです、ありがとうございます」
ローレンツが満足げに頷いて、立ち去る。
その背を見送り、は緊張していた肩から力を抜いた。
「そういや、ローレンツとは既知だったか」
いつからやりとりを見ていたのか、傍に立ったクロードが愉快げに双眸を細める。
は気まずさを覚えて、目を逸らした。
先刻の授業中、目が合ったクロードが静かに、という仕草をに向けたのは、見間違いでも勘違いでもない。
「グロスタール伯爵は、我が家にとって上客でしたから」
「へえ、ちなみにリーガン家は?」
「ええと……グロスタール家とリーガン家の関係は、平民でも知っています。さすがに見境なく手を出す真似はしていません」
「そりゃそうか」
なるほど、とひとつ頷いたクロードが「二兎を追う者は一兎をも得ず、とは言い得て妙だな」と笑う。
「だが、士官学校では関係ないだろ?」
「え……?」
クロードの言葉の意味を図りかね、は首を傾げる。
「ローレンツだけじゃなく、俺とも仲良くしてくれよってことさ」
ぱち、とクロードが器用に片目を瞑ってみせる。
伸びた手が、半ば無理やりの右手を掴んで、握った。伽羅色の手は、当たり前だがよりも大きい。剣だこのない指はすらりと長いが、指先は硬く肥厚していた。
「もちろんです」
戸惑いながらも、は笑って手を握り返した。
士官学校の生徒である以上、クロードとは同級生である。
貴族と平民の垣根はない──それは半ば建前であるが、ガルグ=マクにおいてがグロスタール家に気を遣って、クロードと距離を置く必要はない。
の答えに満足がいったのか、クロードが笑みを深める。もにこりと笑い返した。
この時は、社交辞令に過ぎないと思っていた。
特に予定のない休日は街に出て、様々な店を見て回ることにしている。買い物が目的というよりも、商品に触れて目を肥すためであり、実際にが何かを買うことは少ない。
「値切りのコツとかあるのか?」
「っ、」
ふいに声をかけられて、はびくりと身を震わせた。
「クロードさん」
クロードが右手を上げて、軽い挨拶をしてみせる。貴族らしさの欠片もない仕草だった。内心で驚きと好感を覚えながら「こんにちは」と、は小さく会釈を返した。
「わたしは売る側の人間ですから、コツがあったとしても教えられません」
「おっと、失念していたな」
言葉の割に残念がる様子はなく、呵呵と笑う。
はクロードを見つめ、首を傾げた。
「わたしに何か御用でしたか?」
「いいや? ただを見かけて、またとない好機だと思ったから声をかけただけだぜ」
「またとない好機……」
は首を傾げたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。一体、何の好機だと──
「これなんてどうだ?」
言いながら、クロードがの髪に触れた。
はあまりの驚きに、言葉を失う。咄嗟に身体が動くこともなかった。
ぐいぐいと無遠慮に距離を詰めてくるところはあるが、引き際も線引きも弁えている。それがの抱く、クロードへの印象だった。こんなふうに触れてくるなんて、想定外だった。
「俺の見立てだと、の髪の色に映えるんじゃないかと思うんだが」
す、とクロードが髪に当てていた髪飾りを差し出す。はぎこちない動きで、それを受け取った。
花の刺繍が施された髪飾りだった。刺繍はの趣味だし、持ち物には自分で施している。クロードは、が目を奪われていたものに気がついていたのだろうか。
この髪飾りは、確かにの髪色に合っているかもしれないが、すこし可愛らしすぎるような気もする。
「気に入らないか?」
クロードが顔を覗き込んでくる。いつも、斜め後ろの席から見ていた三つ編みが、眼前で揺れた。
「いえ、すごく素敵だと思います」
「そうか。じゃあ、これを」
「えっ」
の手から髪飾りを攫うと、そのまま流れるように会計を済ませてしまう。が止める間はなかった。
呆気に取られているの手を引いて、クロードが店を出る。街のざわめきが遠く感じるのは、夢心地のような、信じがたい気持ちのせいだろうか。
「クロードさん、困ります。買っていただく理由がありません」
「言っただろ? 仲良くしてくれ、って」
の思っていた“仲良く”とは随分違っている。
困惑するの髪の毛を、伽羅色の手が掬い上げた。パチン、と後頭部で小さく音がする。
「俺がに贈りたいんでね。それが理由じゃだめか? ま、お近づきの印ってことで貰ってくれ」
はそろりと後頭部の髪飾りに触れる。素直に、うれしい気持ちはある。けれど、ここで断らなければ、大変なことになる予感がした。
斜め前に座るクロードの三つ編みを眺めていただけの日常が、変わってしまう。
何と答えるべきか考えあぐねていると「あー! クロードくん、こんなところにいた!」と、怒気を孕んだヒルダの声があたりを割いた。げ、とクロードが顔を歪める。
「先生に頼まれた買い出し放り出して、最低ー」
「わ、悪かったよ。ヒルダ」
「急に走り出しちゃって」
「あー、ヒルダ! 買い出しなら、あとは俺が済ませるから。頼む、今回のことは許してくれ」
ヒルダが持っていた荷物を、引ったくるようにしてクロードが手にする。そうしてヒルダの背を押しやる姿は、珍しく焦りが滲んでいた。
「あれ、ちゃん?」
「ヒルダさん、こんにちは。買い出しに来ていたのですね」
「そうなの。休みだっていうのに、ベレトせんせに捕まっちゃってねー」
買い出しを投げ出すほど火急の用事があったのか、とクロードを見やれば、あちゃあと言わんばかりに目元に手を当て天を仰いでいる。
それを目にしたヒルダが「ふーーーん?」と、にやりと笑う。
「しょうがないなー、今回は見逃してあげる。じゃあ、買い出しの続きはおふたりでー!」
ヒルダが桃色の髪を跳ねるように揺らし、手を振って去っていく。
はあ、とクロードが大きくため息を吐いて、脱力した。
「……と、いうわけだ。、買い出しに付き合ってくれるか?」
「それはもちろん、構いませんが……」
歯切れの悪いの手を、クロードの空いた手が掴む。「商人の娘がいれば心強い」と、クロードがいつもの調子でおどけて言った。けれど──すこし前を歩くクロードの揺れる三つ編みに目をやって、は彼の耳がほんのりと色づいていることに気がつく。
今さら髪飾りを突っぱねることなど、できやしない。
は赤くなった顔を見られぬように俯いて、繋がれた伽羅色の手に視線を落とした。