身体が鉛のように重くて、何気ない動作をするだけであちこちが痛む。油断すると、瞼が落ち切ってしまいそうだった。
 つい読書で夜更かししたときや、刺繍に集中して同じ姿勢を続けたときの疲労感とは、まったく異なる。あまりの眠気に欠伸が出そうになって、は慌てて噛み殺す。目尻にじわりと涙が滲んだ。

「大変だなあ、貴族令嬢ってのは。大口開けて欠伸もできないとはね」

 指先で押さえた唇から、危うく悲鳴が漏れるところだった。辛うじて、はっと息を呑むだけに留めたは、恐る恐る視線を声のほうへと向けた。
 空いている席は数多とあれど、何故かの向かいに腰を下ろしたのはユーリスだ。

 つい最近、青獅子の学級に編入したばかりの彼を、はよく知らない。貴族令嬢と揶揄するユーリスもまた、それなりの貴族子息なのではと思いながら、は黙して目を伏せた。
 申し訳ないが、世間話をする元気もない。

 答えぬなど欠片も気にする素振りもなく、ユーリスが食前の祈りを手短に捧げる。おざなりであったが、その美貌ゆえに敬虔な司祭めいていた。
 けれど、次の瞬間にはユーリスが豪快に口を開けて、雉肉にかぶりついた。無作法に唇についた肉汁を指で拭う。思わず視線を奪われていたことに気づいて、は己を恥じた。

「お前、それしか食わないのか?」

 声をかけられるとは思っていなかったせいで、その言葉が自分に向いているのだとすぐには気づけなかった。は一、二度瞬きをして、ユーリスを見る。
 お前とはのことであり、食わないとは食べないの意である。
 は耳慣れない言葉遣いを脳内で噛み砕いてから、それしかと称された皿に視線を落とす。

「少ない、でしょうか」
「俺の目にはそう見えるけどね。ほら、これやるよ」

 ユーリスが軽く肩を竦め、小皿を差し出す。手付かずの桃の氷菓は、表面が溶け始めていた。

「少しは腹の足しになるだろ?」
「いえ、いただくわけには参りません。あなたが食べたかったのでしょう」
「…………真面目だなあ」

 はあ、とユーリスがため息を吐く。
 厚意を無下にして、不快にさせてしまっただろうか。は不安に顔を曇らせる。
 謝罪を口にしようとした唇に、冷たいものが触れた。小さな口の隙間から、匙がこじ開けるようにして差し込まれる。冷たさと甘さが舌の上に広がっていく。

「もうこれはお前のもんだ」

 ユーリスが満足げに笑う。
 すでに口をつけてしまった手前、これ以上断るわけにもいかない。「お気遣いありがとうございます」と、は小皿を受け取った。

 眠気のほうが勝っていてあまり食欲はなかったが、食べなければ身体がもたないこともわかっていた。
 学級対抗戦で全くの役立たずだったため、せめて鷲獅子戦では少しくらい力になりたい。そう思って日々訓練に励んでいるものの、には荷が重いのかもしれなかった。
 可憐なヒルダが軽々と持つ斧も、ペトラが踊るように捌く剣も、イングリットが軽々と振るう槍も、にはどれもこれもが重くてうまく扱えない。引き篭もりのベルナデッタでさえも弓が得意だというのに、の矢は的に届かない。かといって、魔法の才もない。「士官学校では、いい人を見つけてくれたらいい」と、両親の言葉を聞くたび、悔しいような情けないような気持ちになる。

 氷菓が溶け切る前に、と急いで食べたつもりだったが、小皿の中身は半分ほど液状になってしまっていた。ふと、すでに食事を終えたユーリスが、頬杖をついて見つめていることに気づく。

「ああ、悪い。ずいぶん難しい顔して食うから、つい見ちまった」

 ははっとして、眉間を押さえる。無意識に皺が寄っていたようだ。

「少し、考えごとを」
「あのなあ、食ってるときまで余計なことは考えるんじゃねえよ。うまいもんも不味くなるだろ」
「お、おいしくなくなることはないと思いますが……」

 ユーリスが「どうだかな」と、呆れた顔をする。
 口では敵わないと判断して、はそれ以上は何も言わずに氷菓を口に運ぶ。溶けてしまったとはいえ十分に冷たく、モモスグリの甘酸っぱさが眠気を遠ざけてくれるようだった。

「爪」

 ユーリスがとん、と卓上を指で叩いた。

「割れてるな」

 反射的に、は匙を持つ手をもう一方の手で隠した。過剰な反応だったのか、ユーリスが菫色の目を丸くしている。けれど、にとっては、割れた爪を晒すことは恥ずべきことであり、みっともないことだったのだ。
 ユーリスの爪はよく手入れされていて、美しかった。

「別に、恥ずかしいことじゃないと俺は思うけどね。お前がそれだけ頑張った証拠だろうよ」
「……そう、でしょうか」

 は俯きながら、爪の先を撫でる。両親がこの手を見たら、どれほど嘆くことだろう。

「少なくとも、俺様はそう思うぜ」

 ユーリスの言葉は、にほんの少しだけ、自信をくれた。



 閉じていた目を開くと、隣のメルセデスはまだ熱心に祈りを捧げていた。
 はメルセデスと違って、信心深いわけではない。貴族としての義務感のようなもので、ただ習慣的に祈りを捧げているに過ぎなかった。メルセデスの邪魔をしないよう、はそっとその場を離れる。



 聞き慣れた声に顔をあげれば、ベレトがいた。目が合うと、その人形のような顔にほんのわずかに笑みを乗せた。

「ちょうどよかった。今、時間はあるだろうか」
「はい、大丈夫です」

 ベレトの影に隠れて見えなかったが、ユーリスの姿もあったようだ。いつになく不機嫌そうである。
 に気づくと「なんだ、も捕まったのか」と、同情めいた顔をする。

「捕まる、とは……?」
「ユーリス、を不安にさせないでくれ。合唱練習をするだけだ」
「合唱……ああ、聖歌のですね」

 合点がいったは小さく頷いた。構いません、と言いかけたの肩に、ひどく気安い仕草でユーリスの手が回る。びくりと跳ねた肩にも、ぎくりと強張る身体にも気づいていながら、ユーリスがを抱き寄せた。

「歌が好きです、って奴なら他にもいるだろうよ。なあ、

 ぐ、と肩を掴む手に力がこもった。
 ユーリスが合唱から逃れたがっているのがわかり、は口籠る。困惑しながら、ベレトを窺う。

「いや、今回は二人にお願いする」

 ベレトの意思は頑なだった。


「参ったぜ……」

 ユーリスが深くため息を吐く。
 随分とぐったりした様子のユーリスを、は不思議に見やった。隣で聞いていた限りでは、別段音痴だというふうでもない。むしろ──

「とてもお上手でしたのに」
「……まあ、お前にそう言われるのは悪くねえ」

 ようやく、ユーリスがいつもの調子で口角を上げた。
 はその横顔を見つめて、女神もこんなふうに美しいのだろうなと思う。

「そういや、爪治ったんだな」

 ふいに手を掴まれ、はぎょっとする。反射的に引っ込めようとしたのに、思いのほか強い力で掴まれて動かなかった。
 ユーリスの指先が、丸く整った爪を撫でた。

「あまり、気安く異性に触れるのは、如何なものかと」
「うん? あー……悪い、確かに配慮が足りてなかったな。士官学校で悪い虫がついたとなっちゃ、お前にとってもよくねえよなあ」
「いえ、あなたが悪い虫だなんてそんなことは思っていません。ただ、慣れていないものですから」

 一瞬、キョトンとした顔をしたユーリスが、声を立てて笑う。
 何がそんなにおかしかったのか知らないが、笑い過ぎて滲んだ涙を、ユーリスが指で拭った。その仕草ひとつとっても美しい。は掴まれたままの手に視線を落とすも、振り解く気にはならなかった。





 頬を撫でる風は、冷たさを孕んでいた。
 ため息が白むも、ファーガス神聖王国で生まれ育ったにとっては、まだ堪えるほどの寒さではなかった。ぼんやりと暮れていく空を見つめる。

「風邪ひくぞ」

 そう言いながら近づいてきたユーリスの顔には、呆れと心配が混じっていた。

「心配には及びません」

 はふい、と顔を背けて答える。あまり褒められた態度ではないとわかっていたが、いまは放っておいてほしかった。

 前節の鷲獅子戦で、ユーリスはめざましい活躍を見せた。
 はこれといった失敗もしなかったが、活躍の場もなかった。不甲斐ない自分に腹が立つものの、当然の結果と言えるため、それを妬む気持ちがあるわけではない。
 の心を乱すのは、両親から届いた手紙によるものだ。自分の気持ちを整理することが、うまくできない。

「……泣きそうな顔してるやつを放っておくほど、薄情者じゃねえのさ」

 ユーリスに顔を覗き込まれる。
 泣きそうな、と言われた情けない顔が、菫色の瞳に映っていた。は何かを言おうと開いた唇を、きゅっと噛み締める。

 の意思とは関係なく、とんとん拍子に縁談が進んで、士官学校を卒業したら顔も知らぬ婚約者に嫁ぐことが決まったのだという。
 両親からは、身体に傷が残らぬよう、戦場に立つことはもちろん武具を持つことさえ禁じられた。
 貴族の娘として生まれた以上、家のために嫁ぐことは、理解していたし覚悟もしていた。ただ──これまでの努力をすべて、否定されたような気がした。

 割れた爪を見たユーリスは、恥ずべきことではないと言ってくれたけれど、やはりには恥ずかしくてみっともないことだったのだ。

「泣いたところで、何が変わるわけでもないのです」

 言ってから、ひどく悲しくなった。
 じわりと涙が滲んで、あっという間にユーリスの顔がぼやけた。

「なら、俺が攫ってやろうか」

 ユーリスの指が、目尻の涙を拭う。たったそれだけの仕草が、相も変わらず美しくて、まるでどこかの王子のようだった。

「何のしがらみもないところへ、俺がを連れていく」
「そんな、こと」
「できるさ、俺様なら」
「違います! あなたに迷惑をかけるなんて、そんなことは許されません」
「いいや、許す」

 ユーリスが間髪入れずに断言するものだから、は咄嗟には言葉が出てこなかった。
 狼狽えるを見つめて、ユーリスが口角を上げる。

「他でもない俺が許すんだ、誰がお前を咎められる?」

 自信たっぷりに言われ、は今度こそ言葉をなくした。次から次へと涙が溢れて止まらない。
 その言葉に縋って、すべてを委ねてしまいたかった。

 ユーリスは、が思っていたような貴族子息ではなかった。大口を開けて欠伸をすることすら許されないと違って、自由だった。

「俺はなあ」

 それでも頑なに首を横に振るに対し、ユーリスがわずかに苛立った声を出す。

「好きな女が泣いてるのに、何もせず手をこまねいているほど、愚かじゃねえんだよ」

 は濡れた瞳を見開いて、ユーリスを見上げる。
 真っ直ぐにを射抜くその眼差しは、真剣そのものだった。口から出まかせというふうには思えなかった。

 顔に熱が集まる。心臓がうるさいくらいに脈打つ。叫び出したくなるほどの喜びに、胸が打ち震えている。
 知らぬうちに、こんなにもユーリスに惹かれていたのだと、はいま気づいた。
 あまりの驚きに、いつの間にか涙が止まっていた。頬に残る涙粒を、ユーリスが恭しい仕草で拭った。触れる手のひらに、はそうっと体重を乗せて、擦り寄せる。

「両親に手紙を書きます。縁談はお断りする、と」
「そりゃあいい。ついでにこう付け加えておけよ、もう心に決めた人がいるってな」
「……はい、そうします」

 が小さく笑って頷けば、自分から言ったくせにユーリスがたじろいだ。「どうにもならなかった時は、本気で攫ってやるよ」と、その台詞は恐らく照れ隠しであり、本音でもあった。
 もう一度、は頷く。ユーリスの親指が、そっと目尻をなぞった。

「恋人なら、いくらでも触れてもいいよな?」

 確認するような響きのくせ、の返事を待たずにユーリスの唇が重なったのだった。

おおよそすべての未来にて

(あなたが隣にいてほしい)