紫陽花に視線を落とした目元の繊細な睫毛の影だったり、雨粒のついた葉先をなぞる指先のたおやかさだったり、そんな何気ないものが時おりタクミをハッとさせる。いつも背筋を伸ばして、前を向くの姿を見てきたからかもしれない。
綺麗ね、とが紫陽花を指して微笑んだが、タクミには彼女のほうが余程美しく見えた。
けれど、そんなことを口にできるはずもなく、タクミはから目を逸らした。無意識にきゅっと結んでいた唇から「あ」と、思わず声がこぼれ落ちた。それと同時に、眉の付け根に力が篭る。
が顔をあげて、タクミの視線の先を追った。
「あら、カムイ様」
「あっ!」
向こうもタクミたちに気づいて、駆け寄ってくる。
慣れない和装だというのに、いつもと変わらぬ調子で走り出したせいで裾がはだけてしまっている。傍らのジョーカーの制止は、カムイに届くことはなかった。
「こんにちは、タクミさん。さん」
ニコニコと笑うカムイから、タクミはため息を吐いて顔を背けた。
「ご機嫌よう、カムイ様。御御足が眩しすぎて、タクミは目も開けられないようですわ」
「なっ……そ、そんなわけないだろ」
「だったら、きちんとご挨拶なさいな。あまり好ましい態度ではないわね」
「おみ足?」と首を傾げるばかりのカムイが、ジョーカーの手によってささっと身なりを整えられる。暗夜でも白夜でも相も変わらず、この執事は甲斐甲斐しく世話をやき過ぎている。
タクミはうんざりした気持ちで、カムイに向き直る。
真紅の瞳が、タクミを真っ直ぐに見つめ返す。悪意の欠片もないような、その目がタクミは苦手だった。
「タクミ、」
の声はどこか心配げで、出来の悪い弟を見守る姉のように感じるのは、タクミの劣等感ゆえだろうか。
ちら、とタクミはを見やる。何だか、姉二人に挟まれるような気分になって、心地が悪い。言われなくたって、挨拶ぐらい──
「……やあ、姉さんも散歩?」
「はい。この服にも、慣れないといけませんから」
ふぅん、と気のない相槌を打ちそうになって、タクミは慌てて「そうなんだ。大変だね」と、当たり障りなく答える。
本当は、カムイとの会話など早々に切り上げたかったが、の視線ももっと言えばジョーカーの視線も、それを許してくれそうになかった。
リョウマを始めとするきょうだいたちもそうだが、タクミの周りの者はカムイに対して甘い。
「私はもう、白夜の人間ですから」
「カムイ様がそうおっしゃって下さること、本当にうれしいです。ミコト様もきっと、喜んでいらっしゃるでしょう」
に柔らかく微笑まれ、カムイがはにかむ。
呑気だな、とタクミは内心で吐き捨てる。白夜国王となったリョウマの妻という立場は、カムイではなくがなるかもしれなかったものだ。少なくとも、タクミはそうと信じて疑わなかった。
リョウマと並び歩くを、タクミはずっと昔から見つめていた。もっとも、もカムイもそんなことを知るわけがない。タクミだけが苛立ちを募らせる。
亡きミコト前女王は、タクミの継母であり、にとっても母のような存在であった。ミコトの面影を見ているのか、がカムイを見つめる眼差しは、やさしい。
その視線を断ち切るように、タクミはの手を取った。
「ほら、もう行くよ。カムイ姉さんだって忙しいだろうし」
子どもじみた真似だとはわかっていたが、我慢ができなかった。
タクミには、カムイと過ごした時間がある。ミコトを失うきっかけとなったカムイを、敵国の王女であったカムイを、タクミは時間をかけて受け入れていった。がそういった蟠りを抱かずに、カムイと仲良くすることに不満があるわけではない。
「ええ、そうね。失礼します、カムイ様」
が笑い、会釈をする。
──ミコトを亡くしてから、まだ一度だって、タクミはの涙を見ていない。
年下である自分が頼りないのかもしれないし、タクミたちきょうだいに遠慮しているのかもしれなかった。故郷を失い、天涯孤独の身になったに、ミコトは確かに母のようではあったが、あくまでもその関係は主従にしかなり得ない。
だからこそ、がミコトを母と呼んだことなどないのだ。
庭から拝借した紫陽花を花瓶に挿して、が満足げに笑んだ。紫陽花から外れた視線が、タクミを捉える。
「ねぇタクミ、あなたカムイ様とは和解したのではなくって?」
がかんばせに苦笑をのせる。
タクミはふいと目線を外した。素直になれないのは性分であり、今さらどうしようもなかった。
「タクミ」
「…………」
「こら、タクミ」
の手が、タクミの両頬を挟む。無理やり視線を合わされ、タクミはせめてもの抵抗として目を伏せた。
「言葉にしないと、何もわからないわ。むくれている理由だって」
「……むくれてない」
「あらあら! どの口が言うのかしら? ん? この口かしら」
「っ……」
ぎゅむ、と頬を挟まれて、タクミは話すこともままならない。
タクミは非難を込めてを見た。
が愉快げな表情を一変させ、やさしげに笑むと手を離した。
「わたしたちは夫婦よ、隠しごとはなし。不満や納得がいかないことがあるのなら、ちゃんと口にして頂戴」
不満は山ほどある。
けれどもやはり、それを伝えるには、捻くれ者であるタクミには難しい。
口ごもるタクミを、が急かすこともなく、黙って言葉を待ってくれている。そのやさしい眼差しは、先ほどカムイに向けたものによく似ていた。
まるで、癇癪を起こした子どもを見守るよう──
「今は、話したくない」
叫びたい気持ちを抑え、タクミは辛うじてそう告げる。
「わかったわ」
ふ、とが表情を緩める。
仕方ないと言わんばかりのその顔に、タクミはますますへそを曲げたのだった。
弓を握ると、雑念が消えていくのがわかった。
タクミの目に映るのは、的だけである。すう、と小さく息を吸って、止める。矢が正鵠へと吸い込まれ、タクミはほっと息を吐いた。
ミコトより受け継いだ風神弓は、ようやくタクミの手に馴染む気がした。朝日が顔を出したばかりの弓道場には、人気がなかった。タクミは思いのまま、ぐっと伸びをする。
「やっぱり、ここに居たのね」
振り向けば、戸口に立ったが小さく欠伸をこぼしていた。的を見て、が眠たげな顔を破顔一笑させる。
「さすが、弓の腕前は衰えていないわね」
「な、何だよ。褒めたって何も出ないからな」
「あら、タクミの照れた顔が拝めたんだもの。それで十分よ」
の笑い声が、辺りに響く。タクミは手玉に取られたことが気に食わなくて、に背を向けた。
「そうだわ! ねえタクミ、狩りに出かけない?」
タクミの不機嫌さを物ともせずに、が腕に絡み付いてくる。「狩り?」と、タクミは怪訝にを見た。
が狩りを嗜むとは初耳である。
最近は、狩りはおろか弓を握ることさえ、あまりしていなかった。久しぶりに、動く獲物を相手にしたい気持ちは確かにある。
「……怪我しないでよ」
ふと、仕掛けた罠に仲間がかかっていたことを思い出して、タクミは小さくため息を吐いた。
が心外そうに眉を跳ね上げる。
「あら、心配無用よ。ミコト様も、たまに息抜きに近くの森へ出ていたのよ」
「母上が?」
「ええ。ユキムラに見つからないように城を抜け出すのは、刺激的で楽しかったわ」
タクミは呆れた顔でを見る。それはつまり、サボりじゃないか。
の前で十二分に狩りの腕前を披露でき、程よい疲労感と満足感を得て床についたはずだったが、タクミははっと飛び起きた。ドクドクとした拍動を感じながら、こめかみを伝う冷や汗を手の甲で拭う。
夢見が悪いのは、もはや慣れっこだ。
ただの夢だとわかっていても、指先が震えてならない。
「タクミ……?」
「、」
が目を擦りながら、身体を起こす。タクミの喉が引きつって、震えた声が漏れた。
の指先がそうっとタクミの頬を撫でる。その指がひどく熱く感じるのは、タクミの顔から血の気が引いているせいだろう。
目元をなぞったその手が後頭部へと回って、タクミを抱き寄せた。
「怖い夢を見たのね。もう大丈夫よ」
やさしく囁きながらぽんぽんと背を叩く手は、まるで昔と変わっていない。いつまで経っても、にとって己は子どもに見えるのだろうか。
「……いい加減にしてくれ! 僕はもう子どもじゃない」
ぐっと肩を掴んで、を引き剥がす。つい、力が篭ってしまい、指先が薄い肩に食い込んだ。
がわずかに顔を顰めたのがわかったが、タクミはこんなときでさえも素直に謝ることができなかった。
くそ、と内心で悪態をついて、タクミは勢いのままを布団へと押し倒した。目を丸くしたの頬に、先ほど自分がされたように指を這わせた。
「子ども扱いするなよ」
「そんなつもりは」
ない、と言い募ろうとする唇を指で押さえる。困惑した瞳が、タクミを見つめていた。
「……年齢の差は、どうしたって埋まらないもんな。僕はいつも、リョウマ兄さんが羨ましかったよ。兄さんはと並んで歩けるのに、僕は後を追いかけるばかりだった」
「……、」
「正直、ホッとしたんだ。リョウマ兄さんが、カムイ姉さんを選んでくれて。そのおかげで、僕はを手に入れることができたんだからさ」
シラサギ城の口さがない者は、タクミの妻となったを、リョウマのおさがりだと嘲笑している。
タクミだってわかっているのだ。にとって弟のような存在であることも、リョウマのほうが彼女と釣り合いが取れていることも、さらにいえば己がどれだけ子どもっぽいのかだって自覚している。
「ずっと……ずっと、好きだったんだよ。僕は、のことが、好きなんだ」
の唇が動く。けれど、どんな言葉も聞くつもりはなくて、タクミは口づけでの声を奪った。
寝巻きの合わせ目に手を伸ばせば、の身体が強張る。慌てた様子でタクミを押し退けようとするので、腹が立った。タクミはの手首を布団に縫い付ける。
「僕は子どもじゃない。だから、力づくでをどうにだってできるんだ」
「馬鹿言わないで! タクミはそんなことしない」
「はあ? 何だよそれ、わかったような口を利くなよ」
「わかるわよ! 何年あなたのことを見てきたと思ってるわけ? わたしだって、ずっとタクミのことが好きだったわ」
「……は?」
思わず、拘束していた手が緩む。の手が容赦なく、タクミの頬を叩いた。そうして、身体を起こしたがタクミに掴みかかる。
「リョウマリョウマって何よ、くだらない嫉妬で目が霞んだんじゃなくて? わたしはリョウマ様のことなんて好きでも何でもない、そんなことにも気づいてなかったの? それでよく、わたしのことがずっと好きだなんて言えるわね」
タクミが言葉を挟む間もなく捲し立てるので、の息は上がって、沈黙が落ちる頃には肩が上下していた。その頬が紅潮しているのは、興奮のせいか、怒りのせいかタクミには判別がつかない。
ジンジンとした痛みを知覚したとき、の手がそっと頬に触れた。
「……ごめんね、痛かったでしょ」
「あ、……僕のほうこそ、ごめん」
「タクミったら、やっと素直になったわね」
が小さく笑う。
タクミは内心ムッとしながらも、それをおくびにも出さぬよう取り繕う。これ以上、子どもじみた真似をしたくはなかった。
頬に添えられたの手が、顎に触れ、喉元を過ぎて胸に伸びる。心臓が跳ね、タクミは思わず身をよじった。
「男らしい身体つきね」
「な……あ、当たり前だろ。男なんだから」
タクミは、思わぬ言葉に動揺してしまう。
そうよね、と頷いたがおもむろに胸元へと身を寄せた。タクミは言葉を詰まらせながらも、ひどくぎこちなく、の背に手を回した。
「こんなふうに、わたしをすっぽりと包み込めるのね」
「……の背丈を追い越したのなんて、もうだいぶ前のことだろ」
「そうねぇ」
のんびりと呟いて、が顔をあげた。視線がひどく近い。
目を逸らしてしまいそうになるが、タクミはじっとを見つめた。鼓動が聞こえてしまわないか、不安になる。
「子どもだと思っていたわけじゃないのは本当。でも、大人ぶっていたかもしれないわね。ミコト様に、あなたたちのことを頼まれていたから」
ふ、とがまなじりを緩めて、微笑む。
「でも、もうそんな必要もないわね。タクミも立派な大人だもの」
が目を閉じた。睫毛の先を見つめながら、タクミはごくりと喉を鳴らす。
ゆっくりと唇を合わせたが、タクミには大人らしい余裕などひとつもなかった。ぽふん、と布団がの背を受け止める。衝撃はそれほどなかったはずだが、が「あっ」と小さく声を上げた。
実のところ、閨を共にするのは、初夜以来初めてのことである。忙しかったのもあるが、一番の理由は恥ずかしかったからに他ならない。
「……や、やさしくするから」
タクミはそう言ったが、肩を掴む手に力が籠る。唇が触れ合う直前まで、の笑い声が途絶えることはなかった。