の生まれた村では、花嫁は手ずから花嫁衣装に刺繍を施すという風習があった。の母は祖母から受け継いだ真っ白なドレスに、ひと月もの時間をかけて刺繍を完成させたらしい。
 一度だけ「今度はの番よ」と、大切にしまわれていたそのドレスを見せてもらったことがある。袖の刺繍は祖母が、裾の刺繍は母が、そして「胸元に刺繍をしたら、きっと綺麗ね」と母が嬉しそうに笑ったことを覚えている。

 残念ながら、がそのドレスに刺繍を施すことも、袖を通すこともなかった。村は山賊に襲われ、家もろともドレスは灰となってしまった。
 ドレスの顛末までは話していないが、そんな風習を教えたとき「素敵!」と目を輝かせたのはミストだった。同じく話を聞いていたヨファは、不思議そうに「大変そうだね」と言った。耳に入っていたらしいシノンが呆れた顔をして「面倒な風習がなくなってよかったな」と、投げやりに言った記憶がある。

 村がなくなってしまったことを知っているのは、その場ではシノンだけだった。

「その風習、なくなっちゃったの?」
「うーん、どうかしら」
「……私は、やってみたいけどな。お母さんのドレスはないけど」
「不器用なミストにゃ無理だろうよ」

 ケッ、とシノンが悪態をついた。
 それに対してむくれるミストはまだ、子どもだった。結婚なんて、まだまだずっと先のことだと思うくらいに、子どもだったのだ。



 ひと針ひと針、布地に針を通すたび、その子どもであったミストが結婚するのだということを実感するようだった。本来なら花嫁たるミストがやるべきなのだが、繕い物には慣れていても刺繍は難しかったようで、が手伝いを申し出た。
 たかだか世間話で聞かせた風習を覚えていて、やりたいと言ってくれたことが、には嬉しかった。

 けれど、完成が近づくにつれて物寂しさを覚えるのは、妹のように可愛がっていたミストを嫁に出したくない気持ちがあるからだろうか。いつまでも子どもだと思っていたのは、ばかりだった。

 は小さくため息を吐いて、針を置く。
 ドレスが皴になってしまわないように気をつけて、ハンガーにかけた。胸元の刺繍は、あと二、三日もすれば出来上がるだろう。いつかの母の言葉を思い出しながら、は刺繍に指を這わせた。

 ミストの花嫁姿は想像できても、自分の花嫁姿は想像できなかった。

「おい、付き合え」

 ノックもそこそこに、顔を覗かせたのはシノンだった。
 横暴な物言いにも慣れたもので、はくすりと笑って頷く。傍若無人のように思えるが、案外やさしいことをは知っている。どうせ、いまの今までガトリーの愚痴を聞いてやっていたのだろう。

 が裁縫道具を片づけていると、シノンが室内に足を踏み入れた。翡翠色の瞳が、まじまじとドレスを見つめる。

「へえ、よく出来てるじゃねぇか」

 褒められるとは思っていなかったため、思わずの手が止まる。世辞でないことは明白で、は嬉しくも気恥ずかしさを覚える。

「あ、ありがとう」
「お前にとっちゃ、面倒でも苦でもなかったってことか」
「え?」
「……何でもねぇよ。早くしろ」

 シノンが踵を返すと、長い髪が馬の尾のように靡いて風を切った。
 まさか「面倒な風習がなくなってよかったな」という、己の発言を顧みての言葉だったりするのだろうか。思い返してみれば、風習について覚えていたのはミストだけではなく、シノンも同様だった。

 その発言は、失言といえば失言なのかもしれなかった。けれど、にとっては、いつまでも過去に固執することなく前を向けた一因でもある。シノンの辛辣ともいえる言葉の数々は、の俯きそうになる顔をあげさせてくれたのだ。
 ぱたん、と裁縫箱の蓋を閉める。入口に立つシノンが顎をしゃくって、を催促した。




 ガトリーと街に出ていたという割に、シノンが酔った様子はなかった。普段と変わらぬ足取りで廊下を歩くので、後に続くは歩幅の違いから自然と小走りになる。
 暗さに気を取られて足元を見ていたせいで、はシノンが立ち止まったことに気づくのが遅れた。

「あっ、」

 とん、とぶつかったのは背中ではなく、胸だった。シノンが振り返っていたらしい。

「別に置いていきやしねぇよ。走って足音立てるな」
「……うん」

 シノンの手が、ぶっきらぼうな仕草での手を握る。大きな手のひらから伝わる温かさが心地よい。はそうっと、その手を握り返した。
 置いていきやしない。「ほんとうに?」と言いかけた唇を、は慌てて結ぶ。
 シノンが何も言わずに傭兵団を去ったことを思い出すと、胸が苦しくなる。なぜ自分ではなく、ガトリーだったのだと問い詰めたいのに、にはそうすることができない。答えを聞くのが怖いのだ。

 夜更けの食堂には、当たり前だが誰の姿もなかった。シノンが明かりを灯す。赤く浮かび上がる横顔を、は黙って見つめた。

「何だよ」

 の視線を躱すように、シノンが肩を竦めて厨房に消える。あっさりと離れてしまった手が寂しかった。その手が届かないところへ行ってしまうのではないか──三年前のあの日から、はずっと不安に思っている。

「シノン」
「あ? ……んだよ、しけた面しやがって」

 シノンが苛立ちをそのままに、手にした酒瓶をどんとテーブルに置いた。

「お前もガトリーみてぇにくだらねえ愚痴聞かせる気か? 勘弁しろよ、酒がまずくなるだろうが」
「そ、そんなことしないわ」
「……そうかよ」

 疑わしげな目をしながら、シノンが椅子に腰を下ろした。はおずおずとシノンの隣に座った。
 酌をすると、シノンが酒をあおった。喉仏が上下する様を見つめながら、は苦笑を漏らす。シノンは酒好きだが、酒豪ではない。

「ペース落として、シノン」

 空になったグラスを向けられて、は先ほどより少なく酒を注いだ。「へいへい」と、空返事をして、シノンがにも酌をしてくれる。

「……で?」

 グラスに口をつけた瞬間、顔を覗き込まれて思わず咽そうになる。

「しけた面の理由、あんだろ」

 酒がまずくなると言いながらも耳を傾けようというのだから、やはりシノンはやさしい。
 はそんなやさしさに触れるたび、泣きたくなるような、よくわからない感情が沸き起こる。は慌てて目を伏せた。翡翠の瞳にすべてを見透かされてしまいそうな気がした。

「シノンは……わたしのこと、すき?」

 シノンの反応を確かめられずに、はじっと手元を見つめる。たっぷり間を開けて「はぁ?」と、シノンが棘のある声を発した。

「どうした、ミストの浮かれっぷりにやられたか? あーそれともアレか、ミストに先を越されて焦っちまったか? グレイル傭兵団には行き遅れが二人もいやがるからなあ」

 捲し立てたシノンがハッと鼻で嗤う。素直に答えが得られるとは思っていなかったが、こうも攻撃的になるとは想像していなかった。思わぬ形で、ティアマトまでもが侮辱されてしまっている。
 はそろりと視線をあげた。

「待って、ティアマトさんは関係ないでしょう」
「……ケッ」

 シノンが不機嫌そうな顔をして、グラスを傾ける。

「わたしは、ずっと昔から、シノンがすきよ」

 返事はなかった。それが答えとでも言うのだろうか。
 が己の花嫁姿を想像できないのは、シノンのせいかもしれなかった。隣に立ってほしいのはシノンしかいないのに、そんな未来が待っている気がしないのだ。

 は気持ちを通わせたつもりだったけれど、シノンにとってはそうではなかったのかもしれない。だから、捨て置いた。ただ、それだけのこと──

「んなこたぁ知ってる」

 ふいに、シノンが投げやりに言った。は俯かせた顔をあげる。
 シノンが皮肉気に口角を上げている。

「オレさまに責任取れとでも言うつもりか?」
「そういうわけじゃ……わたしはただ、シノンの気持ちが知りたいだけよ」
「ふーん?」
「わからないの。シノンにとってのわたしが何なのか」

 グレイル傭兵団は、家族だ。何だかんだ言いつつも、シノンが傭兵団を大切に思っているのは知っている。だからこそに向けられる情が、特別なものなのか、判別がつかない。確かめる勇気もなかった。

「すきならすきって、言って……」

 声が震える。
 シノンの答えによっては、はきっと泣いてしまう。

「誰が言うか、バーカ」

 シノンの嘲るような声が唇に触れる。咄嗟に何かを言おうと開いたの口は、空気すら取り込めなかった。ぴたりとシノンの唇が隙間を埋めているせいだ。
 は遅れてぎゅっと目を瞑った。頬をなぞる指先が熱い。

「小っ恥ずかしいだろうが」

 シノンの小さく掠れた声は、酒気を帯びていた。







 晴れの日にふさわしい、よく晴れた空だった。
 ミストの花嫁姿は想像以上に綺麗で輝いていて、眩しかった。誓いの言葉もそこそこに、大泣きするミストに釣られて、の涙腺も緩んでしまった。

「何でお前までピーピー泣いてんだ……」

 はあ、とシノンが大きくため息を吐く。

「だって、何だか感慨深くて……」

 あのミストが結婚だなんて。しかも、が刺繍を施したドレスを着てくれている。物寂しげな気持ちは綺麗さっぱり吹き飛んだが、嫁に出す母親のように胸がいっぱいだ。
 グレイル団長も、さぞこの姿を見たかっただろう。

「あっちは泣き止んだみたいだぜ」

 くい、とシノンが親指で指し示すほうでは、ボーレとアイクに散々宥めすかされてようやく涙を収めたミストの姿があった。

「……ったく、いい加減にしろよ」

 シノンの指先がの目尻をなぞる。その仕草か、いつになくやさしい。

「あらあら、次はの番かしら?」

 ティアマトがくすくすと笑って、シノンが「けっ」と悪態をついた。けれど、目元に触れた指先は、いつかの夜と同じく熱かった。

余裕なさげな熱いゆびさき

(それは何よりも雄弁に愛を語る)