「あ、あの、困ります。お客さま……」

 わたしの腕を掴む手は、ちょっとやそっとじゃ離れてくれそうになかった。こんなふうに絡まれるのは初めてでない。この辺りは、暗くなればわりかし物騒だし、酒が入ると厄介な客も多い。
 いつもは父がそういう輩を一喝してくれるのだが、ちょうど厨房で手が離せないらしかった。

「いつも気になってたんだよね~。ここの看板娘は別嬪さんだなぁってさ」

 腕を掴んだ手を引っ張られ、咄嗟に踏ん張ったにも関わらず、わたしの身体はよろめいて前のめりになる。
 お客さまは大事だけれど、女神様ではない。

 する、と手が腰を撫でた。わたしは悲鳴をすんでのところで飲み込んで、ぐっと唇を噛みしめる。

「一杯、付き合うくらい構わないだろ? 常連なんだから」

 そう言って顔を近づけてくるので、わたしは精一杯背を反らす。ひどく酒臭い。とても酔っているのは、明白だった。
 たしかによくみる顔ではあったけど、お互い名前だって知らないのだ。馴れ馴れしい態度にわたしは嫌悪感を覚えて、思わず眉をひそめた。邪険にして角が立ってはいけないと思ったが、ニコニコするのも限界だ。

「その辺にしとけよ」

 割り入った声と共に、わたしの腕も腰も解放される。捻りあげられた手は、先ほどまでわたしの腕を掴んで離さなかったものだ。

「まだここに通いたいなら、もうちょっと弁えるんだな。ここの主人の娘に手ぇ出したらどうなるか、わかんねえのか?」
「いっ……いでででで!」

 情けなく涙を滲ませ、悲鳴じみた声を上げるお客さまを呆然と見つめる。ちら、と向けられた瞳の美しさにはっと息を飲み、わたしは我に帰った。
 いくら不躾な客だとろうとも、怪我をさせてしまうのは本意ではない。

「お客さま、どうかその辺で──
「あーはいはい」

 わたしの意図を汲んで、その方はすぐに手を離してくださった。そうして「おーい親父、この客が娘さんに不埒なことしてたぜ」と、厨房に向かって声を上げるが、目の前のこの方から発せられたのだと理解するのを脳が拒むようだった。
 美しいかんばせに違わぬ美しい声であるのに、言葉遣いがちょっと粗野だったからである。

 思わずぽかんとしてしまって、そうこうするうちに、厨房から父が顔を覗かせた。

「なんだって?」
「ひっ……あ、いや、その、つい出来心で」
「出来心? ほーお……?」
「す、すいやせんでんしたッ!」

 勢いよく頭を下げるお客さまを前に、わたしはハラハラと成り行きを見守る。父は大きなため息を吐いて「次はないぞ」と、低く告げた。お客さまは首が取れてしまうのではないかと思うほど、激しく頷いている。

「命拾いしたな」

 くつくつと笑いながら、どかりと椅子に腰を下ろす。その様までもがちぐはぐに見えるのは、あまりに美しすぎるせいだろうか。
 わたしの視線に気づいて、その方は愉快げに目を細めた。

「あんたより、俺様のほうがよっぽど別嬪だと思うけどねえ」
「おい、ユーリス。俺の娘にケチつける気か?」
「あっはっは、悪い悪い。つい本音が出ちまった」

 ひどい言われようだが、悪気がないことはわかる。事実、わたしなんかよりずっと美しい。女性と言われたって、信じてしまいそうだ。
 それにしても、随分と豪快に笑う方である。

「助けていだたき、ありがとうございます」
「気にすんなよ。見てるこっちも不快だっただけだ」

 ひらひらと片手を振る仕草は気安く、普段店に来ているお客様とそう変わりのない態度だった。でも、わたしは彼が身にまとう服の意味を知っている。
 だから、わたしはできるだけ丁寧に腰を折る。すぐには顔をあげられなかった。

 声が降ってくることはなかった。
 そっと顔をあげると、その方は頬杖をついて、ただじっとわたしを見ていた。菫色の瞳にわたしの呆けた顔が映っている。
 ユーリス。父が呼んでいた名前を脳内でなぞりながらも、口にする勇気はなかった。

「あの、何かお礼をさせてください」
「律儀な奴だなあ。ま、義理堅い奴は嫌いじゃない」
「……ええと、」

 何をどう答えたらいいのか戸惑っていると、彼はわたしに向かって右手を差し出した。思わずぎょっとして、わたしはその手を見つめた。

「ユーリスだ。よろしく、

 美しい声で名前を呼ばれて、妙に緊張してしまう。父とは顔見知りで親しくしているようだが、どう考えたって、わたしのような者が握手を交わせる方ではないはずだ。
 けれども、促されるような視線を向けられて、わたしは彼の手を握るほかなかった。

「こちらこそよろしくお願いします、ユーリス様」

 その手は、思っていたよりも大きくて、硬かった。
 「お堅いねえ」と、ユーリス様はわたしの顔を覗き込んで、心底おかしそうに笑った。


 助けてくれたお礼にお代はいらないと言ったのに、ユーリス様が座っていた卓には代金が置かれていた。律儀なのはどっちだろう、と思いながら、わたしは慌ててユーリス様を追いかける。
 ユーリス様が「ごちそうさん」とわたしに声をかけてくれたのは、つい先刻のことだ。
 追いつけると思ったのに、ユーリス様の姿はどこにもなかった。

「……、」

 あまり宿場から離れるわけにはいかなかった。日が落ちると薄暗く、住んでいるわたしでさえも尻込みしてしまう。
 きょろきょろと辺りを見回すも、やはりユーリス様の姿はない。たぶんおそらく、ガルグ=マクのほうへと向かわれたのだと思われるが、わたしにはそんな遠くまで追いかける勇気はなかった。わたしは諦めて宿場に戻ろうと踵を返した。

「きゃっ……!」

 突然現れた腕が、わたしを狭い路地裏に引っ張り込んだ。
 悲鳴を上げた口を、素早く手のひらに覆われる。お酒の匂いがした。

「さっきはよくも俺をコケにしてくれたな」
「……っ」

 後ろから抱きすくめられて顔を見ることはかなわなかったが、さきほどわたしにしつこく絡んだお客さまに違いない。ああ、今日は厄日だ。

「言われなくたってなぁ、もう二度とあんなところに行くもんか! おまえはただニコニコ愛想振りまいてりゃ良かったんだよ!」

 お客さまは、周囲を憚ることなく大声を上げる。
 この辺りには、わたしを助けてくれるような人はいないと知っているのだ。治安が悪いとはそういうことだ。
 わたしだって、そんなことよくわかっている。これはすべて、わたしの不注意が招いた事態だ。

 たとえば、もっとうまくお客様をあしらえていたら。
 たとえば、ユーリス様を追いかけなければ。
 たとえば、すぐに宿場に戻っていれば。

「汚ねえ手を放しな」

 諦めの気持ちで閉じかけた瞳をはっと見開く。月明かりを背に現れたユーリス様は、まるで女神様なんじゃないかと思うほどに美しかった。

 気がつくと、ユーリス様がわたしの手を引いてくれていた。
 前を歩くユーリス様の背中は、抱いた印象よりもずっと男らしくて、女神様のように見えたはずなのにと不思議に思った。

 ユーリス様は何も言わなかった。宿場に送り届けると、去り際にわたしの頭を二度ほど軽く叩いて、そのまま背を向けた。何も言わなかったのは、わたしも同じだった。お礼を言うべき唇は震えるばかりで言葉など紡げようがなかったのだ。
 握りしめた手のひらに、返すべきお代があったことを、わたしはすっかり失念していた。




 今度来てくれたときには必ずお返しして、お代をいただかずに食事をしてもらおうと思っていたのに、ユーリス様はしばらくお顔を見せることがなかった。あんまり美しい方だったので、もしかしたら幻想か何かだったのかなと思い始めたころ、ユーリス様はまた宿場を訪ねてくださった。

「……ユーリス様?」
「よう、変わってないな。
「は、はあ……ええと、いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「ああ、見りゃわかんだろ」

 まるでひと月ふた月、会っていなかったかのような口ぶりである。でも実際は違う。もう一年以上、わたしはユーリス様のお顔を見ていなかった。

 背が伸びている。
 以前見た服装とは違うが、よく似ていた。わたしは内心で首を傾げる。ガルグ=マクの士官学校は、一年で卒業するはずだ。まだ、彼はガルグ=マクにいるのだろうか。

「ユーリス様は、もう来てくださらないのだとばかり」

 ユーリス様の菫色の瞳が、わずかに見開かれて、長い睫毛が上下する。その動きを目で追っていれば、ユーリス様はふと笑みをこぼした。苦笑いのような、すこし寂しげな、何だか儚いものだった。

「……まあ、色々あってな」
「そうですか」

 色々。曖昧な言葉で誤魔化されてしまえば、わたしは口を噤むほかない。ひとつ頷いたわたしに、ユーリス様は窺うような視線を向けた。
 注文を待つけれど、ユーリス様は何も言わない。しばし見つめあって、先に根を上げたのはわたしだ。恥ずかしくなってしまって、目を伏せる。

「ご注文は、いかがなさいますか?」

 このまま目を合わせ続けたら、わたしの心臓は口から飛び出してしまう気がする。そんなわけないのだけれど、そのくらいわたしは緊張していたし、高揚していた。

 そして、はたと気づく。
 わたしは、ユーリス様にもう一度会いたかったのだと。お代をお返しするためだとか、助けてくれたお礼を言いたくてだとか、そんなことは関係なく──ただユーリス様に会いたかった。

 その日、ユーリス様は帰り際に、いつかと同じようにわたしの頭をぽんぽんと叩いていった。


 恋とは呼べなかった。だから、わたしはこの気持ちは、ただの憧れなのだと言い聞かせなければならなかった。ガルグ=マク大修道院の士官学校に通うお方に、好きだと告げる勇気などないことは、初めからわかっていた。

 わたしは、この先もずっと、きっとこの宿場にいる。
 結婚して、子をなして、いずれ父の跡を継いで宿場を営んでいく。わたしは、そうしながらユーリス様にいらっしゃいませと言うのを、心待ちにするんだろうなと思った。
 それが現実味を帯びたのは、つい先日のことだった。

「へえ、お見合い」

 頬杖をついたユーリス様が、興味深げに瞬いた。

「お見合いと言うほどでは……一度会ってみてくれないか、って常連さんに頼みこまれて、父も断れなかったみたいで」
「ふーん? ま、浮いた話のひとつもないには、ちょうどいいんじゃねえか?」

 ユーリス様が、大口を開けて豪快に笑う。
 「ちゃん、結婚しちゃうのかい?」「ついに看板娘が人妻に?」「それはそれでありかもねえ、色気が出てますます人気が出るかもね」と、周囲のお客さまが口々に言いだすものだから、わたしは居たたまれなくなる。色気がなくてすみませんでしたね。

 むっと口を尖らせて、厨房に下がろうとしたわたしの腕を、ふいにユーリス様が掴んだ。
 この菫色の瞳に見つめられると、わたしはどうしてか、途方に暮れた気持ちになる。なんですか、と問いかけたかったのに、口は錆びついたように動いてくれない。

「俺様が化粧を教えてやろうか?」

 ユーリス様がにやにやと笑いながら続ける。

「見合いなら、とびきり美人にならないとなあ」

 どれだけ化粧を施したって、ユーリス様には敵わない。それがわかっているから、なんだか気鬱になる。お客さまが「美人に言われちゃあなぁ」と笑った。いつも別嬪だとわたしをもてはやす癖に、失礼じゃないですかね。



 お客さまを、自分の部屋へ入れるのは初めてのことだった。
 父はいい顔をしなかったが、相手がユーリス様だと知ると「ユーリスなら、まあいいか」とあっさり態度を変えた。思った以上に、父とユーリス様は親しいようだ。

「化粧道具、これだけか?」

 机に並べられたものを吟味しながら、ユーリス様が尋ねた。わたしは頷く。
 幼い頃に母を亡くしたわたしにお化粧を教えてくれる人などおらず、手元にある化粧道具はあまりの化粧っ気のなさを心配して、お客さまがくださったものだった。

「仕方ねえなあ、足りないもんは俺様のを譲ってやる」
「えっ! そ、そんな、いただけません」
「いいんだよ。俺がただ、にしてやりたいだけなんだから。ほら、さっさと始めるぞ」

 ぐい、とユーリス様がわたしの顎を掴んだ。
 思わず、はっと息を呑む。ユーリス様の瞳がすぐそこにあった。

 睫毛が長くて、肌はまるで陶器のようだ。やっぱり、ユーリス様は女神様のように美しい。わたしは直視できずに、目を伏せる。

「おい、。ちゃんと見てないと意味ねえだろ」
「あ、は、はい」

 ユーリス様のすらりとした指が、化粧筆を取った。「まあ、綺麗な肌してるし、厚塗りする必要はなさそうだな」と、粉をつけた筆先を手の甲で軽く叩く。
 す、と肌の上を筆がなぞる。自分でするのと違って、すこしくすぐったかった。

「なるべく薄く、均一に。顔全体に粉を乗せたら、毛先で叩くようにする」

 ユーリス様の声に耳を傾ける。
 いかに女性と見まごう美人でも、やはり男性なのだとわかる低音は、耳に心地よい。

は色が白いな」
「……ユーリス様ほどでは」

 言葉の矛先を急に向けられて、わたしは一拍遅れて返事をする。ユーリス様は、小さくため息を吐いて筆を置いた。

「あのなあ……」
「は、はい」
「確かに俺様は、類稀なる美少年だ。そんなこったわかりきってる。だがな、別におまえに褒めそやしてもらいたいとは微塵も思ってない」
「…………」

 ユーリス様に強い視線を向けられるのは初めてだった。怒っているのだろうか。
 まなじりを吊り上げた瞳に浮かぶ激情が、何からくるものなのか、わたしにわかるわけがなかった。当然だ、わたしはユーリス様のことをほとんど知らない。所詮、宿場の娘とそこに来る客でしかない。
 わたしはただ、瞬きを繰り返す。謝ればいいのかさえ、わからなかった。

「……悪い。続けるぞ」

 目を閉じろ、と言われるがままにわたしは目を瞑った。

「好きな色あるか? ねえなら、俺が勝手に選ぶけど」
「ユーリス様にお任せします」

 答えてから、いまの言い方はすこしずるいかもしれない、と思う。
 わたしは、自分の想いに蓋をしたくせに、たかだか化粧ひとつでユーリス様の色に染めてほしいなんて考えている。

 ユーリス様は何も言わなかった。目を閉じているので、どんな表情をしているかもわからない。そうっと、瞼にユーリス様の指が触れる感覚がする。
 瞼から指が離れるのを感じて目を開けようとすると「まだだ」と、ユーリス様が言った。
 その声が存外近くから聞こえて、わたしはどきりとする。

 する、とわたしの頬を筆先が撫でる。目を閉じているせいなのか、よけいにくすぐったいような感覚に、わたしは首を竦めた。ちゃんと見ていないと意味がない、と言ったのはユーリス様なのに、説明する声もない。

「……ユーリス様?」

 薄らと開けた目を、ユーリス様の手のひらが覆い隠した。
 唇に柔らかい感触が触れる。指、ではないような気がした。「できたぞ」と、普段通りの声と共に、ユーリス様の手が離れていった。

 呆然とするわたしを鏡の前に立たせる。
 自分でする化粧とは全然違っていて、パッと華のある顔が、怪訝そうにわたしを見つめ返してくる。

 最後に唇に触れたのは何だったの?
 それを問うことはできないし、鏡越しにでさえユーリス様の顔を見られない。

「俺と同じ色にしてみた」

 ユーリス様の指が、鏡をとんと叩いた。わたしの唇だ。

「どうだ? 美人になっただろ」
「あ……は、い」

 自分で自分を美人と言うのもどうだろうと思うも、同意を求められれば頷くしかない。
 ユーリス様と同じ唇の色。唇に触れたもの。考えれば考えるほど恥ずかしくなってしまって、俯きそうになるが、ユーリス様の手が顎を掴んで阻止した。

「綺麗だよ、俺なんかよりずっと」

 呟くような声が寂しげで、わたしはちらりとユーリス様を見やる。儚い笑みが、美しいかんばせに浮かんでいた。
 すぐそこにいて、手だって触れてるのに、ユーリス様がとても遠くに感じる。

 いやだな、と思った。そんな顔をしてほしくなかった。

「ふふ、ユーリス様のおかげですね」

 でも、何と言えばいいのかわからなくて、わたしはそんなふうに茶化して笑った。「おう、もっと感謝しな」と、ユーリス様はすぐにいつもの調子に戻って、胸を張った。








 あ、今日は厄日だ。
 そう思ったのは、いつだかぶりに路地裏に引き込まれた時だった。履きなれない、踵の高い靴が片方、引っ張られた拍子に地面に放り出される。
 ユーリス様がお見合いと称した顔合わせは、惨憺たるものだった。曰く「素朴な女性が好きなのに」と、めかしこんだのが裏目に出たらしく、早々に解散した。是非会いたいと言ってきたのは向こうなのに、失礼にもほどがある。

 まだ日暮れ前なのに、こんな目に遭うとは予想していなかった。「なかなか上物だな」と、わたしを羽交い絞めにした輩が舌なめずりする。気持ち悪い。

「んん……!」
「おっと、大人しくしたほうが身のためだぜ?」

 ひたり、と頬に添えられたのは、刃物だ。
 それは包丁なんかとは違って、人を傷つけるためのものだった。わたしの身体は反射的に強張って、身動きが取れなくなる。いつの間にか、わたしを数人が取り囲んでいる。

「痛い目に遭いたくないだろ? こっちとしても、大事な商品に傷はつけたくない」
「…………」

 商品。わたしが。
 ぐっと奥歯を噛みしめる。こんなことのために、化粧をしたわけでも、おしゃれしたわけでもなかった。ああ、どうせならユーリス様に見てもらいたかった。俺様の次に美人だよ、って、屈託なく笑ってほしかった。

 じわりと涙が滲む。でも、こんな奴らの前で泣きたくなかった。

「おっ、身体のほうもなかなか……」

 複数の手が、服の上から身体をまさぐる。そのうち誰かが「ちょっと味見してみるか」と、言った。その意味を理解しても、わたしにはいやだと叫ぶことも、助けを求めることもできない。
 頬に触れていた刃が、ぴっと服を裂いた。
 わたしはぎゅうときつく目を瞑る。

「汚ねえ手で触ってんじゃねえ!」

 空気を切り裂いた声は、わたしのよく知るものだった。けれど、わたしは安堵よりも不安を覚えた。だって、相手はただの柄の悪い輩ではない。人身売買をするような悪人だ。それも複数人。
 カラン、と足元に落ちたのは、わたしの服を切り裂いた刃物だった。

「っひぃ!」

 男の悲鳴がして、思わずそちらに目線を向ける。右腕から血が出ていた。
 わたしは目にしたことのない光景に、瞠目する。

、目ぇ瞑ってろ」

 ユーリス様の言葉は魔法のように、わたしの瞼をくっつけてしまった。



「お頭、片付きましたぜ!」
「ああ、ご苦労さん。根城があるはずだから、そっちはお前らに任せる」

 お頭、とはユーリス様のことだろうか。似合わない響きなのに、どうしてか納得できる気がした。
 わたしはゆっくりと目を開ける。
 地面に血だまりができていて、靴をなくしたほうの足先が赤く染まっていた。

「……怪我、ないか」

 ユーリス様が、わたしに手を伸ばそうとして、やめる。ユーリス様の元へ戻っていこうとするその手を、わたしは咄嗟に掴んだ。戻ってしまえばそのまま、永遠にユーリス様に触れられない気がした。

「はい。ユーリス様は、大丈夫ですか?」
「ああ……」
「いつも、ユーリス様には助けていただいてばかりですね。ありがとうございます」

 震えた唇はそれでも、何とか笑みを形作ることができた。
 ユーリス様がくしゃりと顔を歪める。泣き出しそうな、遺憾そうな、とにもかくにも後悔に満ちた顔だった。

「無理すんじゃねえよ。いま、宿場に使いを出してる。すぐ親父が迎えに来るだろうよ」
「送ってくれないんですか」

 前のように、という意味を込めて、わたしはユーリス様を見あげた。
 菫色の瞳が、揺れる。

「この期に及んで、」

 ちっ、とユーリス様は小さく舌打ちをした。
 ユーリス様の手がわたしの手を払って、荒々しく肩を掴んだ。「きゃっ」そのまま、ユーリス様はわたしを壁に突き飛ばした。勢いよくぶつけた背が痛む。ユーリス様の指が食い込んで、肩も痛い。

「……俺は、おまえが思ってるような奴じゃない」

 それでも、ユーリス様のほうがずっと、痛みを堪えるような顔をしていた。

「ユーリス様、なんて柄じゃねえんだよ。俺は、薄暗い地下の住人だ。おまえとは住む世界が違う。おまえが想像できない汚ねえことばかりやってるのさ」

 住む世界が違う。わたしとユーリス様とでは、反対の意味を持っていた。
 ユーリス様は、自分が汚れていると思っているのだろうか。だから、わたしのことを綺麗だと言ったのだろうか。

 わたしと同じ紅を引いた唇は、皮肉気な笑みを浮かべる。そうして、ユーリス様はわたしから手を離した。

「なあ、いまなら逃げられるぜ。怖いなら、逃げたっていい。俺はおまえを追ったりしない」
「……ユーリス様、」
「わかるだろ、。いや、わかってるのは俺のほうか」

 ふ、とユーリス様がまなじりを緩めた。すべてを諦めたような顔で、笑う。

「おまえは俺が触れていいような人間じゃない」

 決めつける口ぶりに腹が立った。
 わたしだって、好きになったって無駄だと決めつけていたから、腹を立てる資格なんてないのかもしれない。それでも、腹立たしくて、どうしようもなかった。

 先ほど、意地でも見せなかった涙が、ぽろりと落ちた。わたしは泣いている顔を見られる前に、ユーリス様の胸へ飛び込んだ。

「逃げません。あなたが触れられないって言うなら、わたしが触ります」

 わたしはぎゅっとユーリス様に抱きつく。

「だから、そんなこと言わないでください」
、」
「わたしたちは、全然違う世界に住んでいたとしても、いまここに一緒にいるじゃないですか」

 ユーリス様の手がわたしの肩を掴む。引き剥がそうとしたのか、抱きしめようとしたのか、わからない。その手は、ただ肩に触れているだけだ。

「わたし、思っていたんです。この先、誰かと結婚したとして、それでもあの宿場であなたが来るのを待ち続けるんだろうなって」

 ぴくり、とユーリス様の指先が跳ねる。
 わたしは目を固く閉じて、涙を堪えてから、ゆっくりと顔をあげた。

「わたしも、あなたに手は届かないと思ってたから」

 ユーリス様が、虚をつかれたようにはっと息を呑んだ。

「……そうか、そうだよなあ。手なんざ、こんな簡単に届くんだよな」

 はは、とユーリス様が小さく笑う。
 肩に置かれたユーリス様の手が、わたしをぐっと抱き寄せた。

「なあ、」

 ぽつりとユーリス様の声が、耳元に落ちる。互いの顔は見えなかった。

「俺を迎えてくれるなら……いらっしゃいませじゃなくて、お帰りって言ってくれるか」

 わたしはユーリス様の腕の中で頷く。勿論です、って答えたかったけど、口を開けば嗚咽が漏れてしまいそうだった。
 ぽんぽん、と慰めるように、ユーリス様の手がわたしの頭を叩く。

「……ありがとな」

 ユーリス様の声は、驚くほど柔らかかった。


「おい、ユーリス! 待て待て待て、まだ娘を嫁にくれてやる気はないぞ!」
「うん? そうは言っても、結婚で大事なのは親の了承より、本人たちの意思だしなあ……」
「ゆ、ユーリス様? お父さんも落ち着いて、」

 慌ててやってきたかと思えば、父はわたしとユーリス様を引き離した。抱き合っていたのだから、勘違いしてもおかしくはないが、嫁だ結婚だなんてさすがに気が早くはないだろうか。
 オロオロするわたしに対して、ユーリス様は器用に片目を瞑って見せた。

「後で宿場に行くから、待ってな」

 とん、とユーリス様の指先が唇に触れた。何故だか、ユーリス様が化粧を施してくれた時のことが思い起こされて、わたしは途端に恥ずかしくなる。
 唇を押さえて真っ赤になったわたしを見て、ユーリス様が豪快に大口を開けて笑った。

好い唇にご褒美を

(今度こそ、触れた柔らかさを確かめる)