返す返すも腹立たしい。フェリクスは人気のない道を、足を踏み鳴らすようにして歩く。

 幼い頃から剣に慣れ親しんだフェリクスにとってもソードマスターになるには、なかなかに骨が折れた。
 魔道の勉学に励むよりも剣の腕を磨いたほうがよほど有意義と思っていたが、ベレトは「魔法も使える剣士のほうが強くなれる」と言った。その言葉を真に受けたわけではなかったが、フェリクスは魔道の講義も真面目に受けることにした。すべてはエピタフになるためである。
 その甲斐あって、フェリクスは下級魔法を扱えるようになった。ほんの少しエピタフが見えてきたような気がしていた。

「いつになったら資格試験を受けられる?」

 フェリクスとて、すぐに手が届くと思っていたわけではなかった。ベレトが「まだ君に受験資格はない」と、静かに首を横に振った。淡々と告げる様は事務的にすら感じた。
 歯噛みするフェリクスに対し、ベレトが表情をほとんど変えずに続けた。

「エピタフを目指すのなら、少し魔法が使えるくらいじゃ駄目だ。悪いが、もっと理学の学習を深めてくれ」

 ベレトがそこで一度言葉を切って、顎に手を添えて思案顔をした。

 フェリクスはベレトを睨むように──いや、睨みつけていた。
 しかし、さすがは灰色の悪魔と言ったところか。フェリクスの怒りと共に滲み出る殺気に気づいていながらも、眉のひとつも動かすことはなかった。

「理学を得意とするアネットやと、一緒に勉強してみては?」
「は?」
「そのほうが効率がいいだろう」

 名案だとばかりに、ベレトが真面目くさった顔で頷いた。


 フェリクスは歩調を緩める。
 勉強好きなアネットならば、恐らく喜んで教鞭をとるだろう。容易く想像がつく。しかし、温室で歌う姿を見て以来、妙な曲調と妙な歌詞が頭を過ぎってしまう。アネットを前に、集中できそうになかった。却下だ。
 次にの顔を思い浮かべ、フェリクスは足を止めた。青獅子の学級のなかで目立つ生徒ではない。他人に教えられるほど、理学が得意であったことをフェリクスは初めて知ったほどだ。

、か」

 口の中で転がすように、小さく呟く。
 見るからに善人、呆れるほどのお人好し。それがフェリクスの抱く、への印象である。

 つい最近、ゴーティエの領内に赴いたときのことを思い出す。
 頭目たるマイクランを失った賊たちが領内で暴れ出し、フェリクスたちは討伐に当たった。魔道士のくせ、がやけに張り切って前線を行くので、フェリクスは呆れた顔で咎めた。
 思い詰めたような顔して「いやなの」と、が言った。

「これ以上、シルヴァンに何でもないような顔をして、お兄さんの仲間だった人たちを手にかけて欲しくない」

 兄の尻拭いは俺の役目だからな、と笑ったシルヴァンの顔がフェリクスの脳裏を過ぎった。こんなときにまで笑うシルヴァンにも、仮にも兄の仲間だった連中を討伐させるゴーティエ伯にも、正直腹が立った。

 思わず、フェリクスは神妙な面持ちでを見た。あのどうしようもない幼なじみにも、こんなふうに心を砕く者もいるのだな、と感心を覚えた。それと同時に、胸が焦げるような不可思議な心地がした。苛立ちとは違う。
 が何かを堪えるように、伏せた睫毛を震わせた。

「わたしね、学校生活ってもっと楽しいものだと思ってたの。でも、全然違ってた。花冠の節のことも、翠雨の節のことも……ルミール村のことだって、全然消化できてない。だけど、だからこそ、すこしでもみんなの力になりたいなって」

 真っ直ぐ前を見据えたの横顔は、教室で見る顔とは違って見えた。




「わたしでいいの?」

 ベレトから言われたことをかいつまんで話したのちに、が不思議そうに瞳を瞬かせて言った。
 恥を忍んで頭を下げたのだから、二つ返事をもらいたかったものだ。フェリクスは舌打ちする。近くにいた馬が怯えるように、あるいは威嚇するように、ブルルと鼻を鳴らした。

「あ! 全然、嫌とかじゃなくて……あんまり、フェリクスとは話したことがなかったからびっくりして」
「だったら、なおさらいい機会なんじゃないか? そうだフェリクス、おまえ理学を教わる代わりにに乗馬を教えてやれよ」
「……なんだと?」

 すぐ傍で馬を撫でていたシルヴァンが口を挟んでくる。

「し、シルヴァン、余計なこと言わないでいいから」
はヴァルキュリア目指してるんだが、これが目もあてられないほど馬術の才能が……」
「は、恥ずかしいからやめて! えーと……フェリクス、わたしでよければ喜んで。さっそく明日、放課後に書庫で待ち合わせしましょう」

 慌ててシルヴァンの言葉を遮ったが、気を取り直すよう早口に告げる。フェリクスはじろ、とシルヴァンを睨みつけた。肩を竦めるだけで、シルヴァンからの謝罪はない。

「……了解した」

 身を翻したフェリクスの背後で「もうっ、シルヴァン!」と、が尖った声をあげていた。








 当番の仕事を終え、フェリクスは書庫に足を踏み入れた。
 フェリクスにはあまり縁のない場所だ。ぐるりと室内を見渡して、アッシュと談笑するの姿を見つける。フェリクスが声をかけるより早く、アッシュが気づいて「フェリクスが書庫に来るなんて、珍しいですね」と屈託のない笑みを浮かべた。

「……フン」

 だから何だ、とフェリクスは笑みを跳ね除けるように仏頂面をする。

「あっ、じゃあ僕はこれで」
「わざわざありがとう、アッシュ」

 アッシュが小さく頭を下げて、書庫を後にする。アッシュが小脇に抱えた本は、例の如く騎士道物語のようだった。無理やり押しつけられた苦い記憶が蘇る。

 が手にした本を机に置いて、椅子に座る。フェリクスは何気なく視線を落とし、その表紙の文字を読み取った。「はじめての乗馬……」と思わず口にすると、の手が慌てて表紙を押さえた。

「こ、これはいいから。さあ、座って」

 が恥ずかしそうに俯きながら、隣の椅子を引いた。フェリクスは黙って腰を下ろす。

「えーと、まず……魔道は、闇雲に魔法を放てば強くなるとかではなくて、仕組みや理屈を理解する必要があるの」
「チッ……わかってはいたが、七面倒だな」
「フェリクスは雷の初級魔法を覚えたばかりだから、次は上級魔法のトロンを目指しましょう。なるべくわかりやすい魔道書を選んだから、読み進めて解らないところがあったら聞いてね」

 が差し出した本の分厚さにげんなりする。「図も多いから、見た目ほど読むのに時間はかからないと思う」と、フェリクスの表情を見たが苦笑を漏らす。
 なるほど、とフェリクスは内心で納得する。
 は感情の機微に聡い。育った環境が環境だけに疑り深く、ねじ曲がった性格のシルヴァンが、心を開いた理由がわかったような気がした。

 の手から本を受け取り、表紙を開く。ぱらぱらと頁をめくれば、確かに文字ばかりが並んでいるわけではないようだった。

「……感謝する」

 小さく告げれば、が目を丸くしてフェリクスを見た。
 思わず悪態をつきそうになるが、それより早く「お礼なんていらないよ」とが笑った。

「フェリクスの力になれるなら、うれしい」

 がはにかむように目を伏せて、囁くほどの声を落とした。



 空腹を感じ、そろそろ夕餉時かと顔をあげる。
 難しい顔をしたが“はじめての乗馬”に、目を通していた。

「……あっ、どこかわからないところがあった?」

 フェリクスの視線に気づいて、が身を乗り出した。

 開いた頁を覗き込んで、頬に落ちた髪を一房指で掬って耳にかける。
 距離が近いせいなのか、その仕草に釘付けになりそうになって、フェリクスは素早く目を逸らした。

「そろそろお開きにしようと思っただけだ」
「わ、もうそんな時間? ごめん、集中してて気づかなかった」

 が慌てた様子で、机上の本を片づける。それを横目で見ながら、フェリクスは魔道者を閉じた。

「食堂に行くぞ」
「う、うん」

 フェリクスに続いて、が立ち上がる。
 抱えた本やら帳面が重そうだったので、フェリクスは「貸せ」と、なかば引ったくるようにして奪い取る。

 ぽかんとしていたが意図を察して、小さく笑った。

「ありがとう、フェリクス」

 これこそ、礼を言われるようなことではない。







 また一週間後に、と食堂で別れてから、フェリクスとが言葉を交わすことはなかった。彼女の言う通り、わかりやすい魔道書だったからに他ならない。
 しかし──やはり、机に向かうのは性に合わない。
 前方にの姿を認めて、フェリクスは足を止める。黒鷲の学級のリンハルトと一緒だ。一度、夕餉を共にしてわかったことだが、の交友関係は広い。やたら声をかけられては、フェリクスとの関係を邪推されるので、辟易したものだ。

「じゃあ、約束通り君の身体を自由にしていいんだね?」

 何食わぬ顔をして近くを通ろうとしたフェリクスは、聞き捨てならぬ台詞に「は?」と、思わず声を上げて立ち止まる。
 目を丸くしたがフェリクスを振り返った。

「あっ、これは別に変な意味じゃなくて! ただ紋章学の研究に協力するだけだからね」
「変な意味? はおかしなことを言うね」
「ややこしくなるから、リンハルトは黙ってよ~! とにかく、ちゃんと約束は守るから。ありがとう、リンハルト」

 フェリクスはリンハルトを睨みつけるが、涼しい顔で「うん。じゃあまた」と立ち去って行く。

「…………おい、どういうことだ」

 いつもより、数段低い声が出た。

「あ、えっと、リンハルトにこれを貰ったの」
「なんだそれは」

 の手には、片手に収まる程度のつるりとした石が乗っている。フェリクスはなおも、唸るように問いただす。

「知識の宝珠って言って、珍しいものなの。だから、ちょっと研究に協力するくらい、安いくらいだよ。それに、わたしの紋章はフェリクスみたいに特別な紋章じゃないから、リンハルトだって本当はそんなに興味ないよ」

 に自分を卑下する様子はなく、ただ事実を述べているだけのようだった。不機嫌な顔をするフェリクスに向かって、が笑う。

「これを持っているだけで、魔法を使えば使うほどどんどん上達できるよ。だから、フェリクスに持っていて欲しくて」
 
 はい、と手渡された宝珠を反射的に受け取って、フェリクスは眉をひそめた。

「お前は……まさかとは思うが、俺のためにこんなことを?」
「えっ? へ、変かな?」
「……呆れる。人が良過ぎて、反吐が出るほどだ」
「それは、褒めてる? 貶してる?」

 の問いには答えず、フェリクスは肩を竦めた。なおも言い募ろうとしたの言葉を遮るように、フェリクスは口を開く。

「それより、今日は約束の日だったな」

 が開きかけた唇を結んで頷く。

「遠乗りに出るぞ」

 フェリクスはの反応を待つまでもなく、厩舎に向かって歩き出す。が慌てて追いかけてくるが、混乱のあまり何もないところで転びかけていた。

 には目も当てられないほど馬術の才能がない、とシルヴァンは言っていたが、馬に乗って走る程度は造作もないようだった。
 ただ、緊張しているのが目に見えており、それが馬にも伝わってしまっている。

「もっとゆとりを持て。堂々としろ、馬に舐められるぞ」
「む、無理だよ! わたし、手綱を持つのでいっぱいいっぱいなんだからねっ」

 遠乗り、とは言ったが、これではあまり遠くに行けそうにもない。フェリクスは適当な場所で馬を止めた。

「わっ、止まって止まって!」

 の馬が制止を無視している。
 馬は止まったものの、勢い余ってが振り落とされる。フェリクスは、落ちてきた身体を抱きとめた。

「あ、ありがとう……」

 が照れ臭そうに俯く。

「シルヴァンの言っていたことも、あながち間違いでもないかもしれんな」

 フェリクスは鼻で笑い、馬を木に繋いだ。が不安げにキョロキョロとあたりを見回している。
 それを横目で見ながら、フェリクスはしまっていた宝珠を取りだした。

「こんなものが本当に効果あるのか?」
「うーん、たぶん。リンハルトが言ってたから、間違いないと思うんだけど」
「…………」

 フェリクスの眉根に自然と皺が寄る。リンハルトがどうと言うわけではない。の口からその名が出るのが、心底腹立たしい。
 手にしたそれを、フェリクスはに押しつけた。

「いらん。俺は俺の実力で、エピタフになる」
「ええっ!?」
「それはあいつに返せ。どんな理由であれ、お前の身体を自由にさせるなど我慢ならん」

 フェリクスは吐き捨てるように言って、舌を打った。

「…………え?」

 の手から、宝珠が転がり落ちる。こつん、とつま先に当たったそれを、フェリクスは忌々しげに顔を歪めながら拾い上げた。
 が、宝珠を落とした格好のまま固まっている。

「そんなふうに言われたら、期待しちゃうよ」

 の小さな声が風に攫われていく。フェリクスはの手をむんずと掴むと、宝珠を握らせる。

「フン。せいぜい期待していろ」

 ぽかんとするに背を向け「魔法の練習をする。付き合え」と、フェリクスは殊更ぶっきらぼうに告げた。
 頬が熱を帯びている。しばらく、の顔を見れそうにない。

体温が反抗

(寒さのせいだ、と誤魔化す他ない)