小さく音を立てて、琥珀色が注がれてゆく。波がおさまった水面にの顔が映った。はこの瞬間がたまらなく好きだ。見つめ返す自分の顔に視線を落としながら、瞼を下ろす。香りが肺いっぱいに広がっていく。
フェルディナントが手にした茶器を、音もなくそうっと机に戻した。
この時ばかりは、フェルディナントも何も言わずに沈黙を保ってくれる。
が目を開けてから、ようやくフェルディナントが「さあ、召し上がれ」と口を開いた。を見つめるフェルディナントの顔には、やさしい笑みが浮かんでいる。
フェルディナントに促されるまま、は茶器を持ち上げた。口元へ運ぶと、湯気と共に芳醇な香りが鼻先を掠める。上質な茶葉を使っているのだと、それだけでわかる。
フェルディナントの視線を感じながら、ひと口紅茶を含む。渋みのない上品な味が、喉を通っていく。
「おいしい」
ほうっ、と息を吐いてが言えば、フェルディナントがうれしそうに笑みを深めた。淡い夕陽色の瞳が柔らかく細められる。
茶葉や茶器に関する御託をたれるわけでもなく、フェルディナントはにとってとても心地よい空間を作り出してくれる。のことをよく理解してくれているのだ。ただ、こうして目を見て、微笑みあって、おいしいねと共感を得る──の至福だ。
それを初めて伝えたとき、フェルディナントは「大袈裟だ」と言って笑った。きりりと整えられた眉をほんのわずかに下げたその笑みは、の脳裏に焼きついている。
「紅茶に合わせて用意した焼き菓子だ」
フェルディナントが焼き菓子を乗せた皿を差し出した。
種類ごとに数個ずつ、見栄えよく並べられている。つい先日、ベレトとお茶をした際の籠いっぱいに盛られた焼き菓子とは正反対だった。どうすれば美味しそうに見えるのか、フェルディナントが考えているところを想像すると、つい笑みがこぼれた。
「む……何かおかしかっただろうか?」
「ううん」
は首を横に振ったが、思わずふふと笑い声が漏れてしまう。フェルディナントが器用に片眉を跳ね上げた。
「」
焼き菓子に伸ばした手は、フェルディナントによって机に縫いつけられる。
の手を容易く包み込む大きな手だ。形のよい指には、これまた形のよい爪が並んでいる。爪の先まで手入れが行き届いている貴族らしい手でありながら、武具を持つ手らしく指には蛸があった。
は視線をあげた。フェルディナントが訝しげにを見つめている。
「おかしいんじゃないの。ただ、幸せだなあと思って」
フェルディナントが瞠目し、素早く目を逸らした。
「……君は、驚くほど素直だな」
は小首を傾げる。
フェルディナントの視線がに戻ってくる。ふ、とフェルディナントが小さく息を吐くように笑った。
「いや何、想いを伝えるのに、美しく飾った言葉など不要なのだと思っただけさ」
「わたしには、フェルディナントのような語彙がないだけよ」
ふいに、重なった手が動いて、指先が絡められる。「愛おしいな」と、フェルディナントの声が静かに落ちた。
は無意識に息を止めていた。
「、いる?」
はっ、と鋭く息を呑む。フェルディナントの手が、跳ねるように離れていった。
扉を叩くと同時に、取っ手を回してリンハルトが顔を覗かせる。とフェルディナントを一瞥することもなく、勝手知ったる様子で窓際に置かれた本を手にした。
「これ、借りていくよ」
リンハルトがようやくを見た。かと思えば、すぐにフェルディナントへ視線が移る。
「そういえば、エーデルガルトさんが先生と訓練場に向かっていたな……」
「何っ!」
フェルディナントが慌ただしく席を立つ。
「すまない、。エーデルガルトに遅れを取るわけにはいかないのだ。失礼する」
はぽかんと一連の流れを見ていたが、扉が閉まったところで我に返り、深いため息を吐いた。フェルディナントにとって、とふたりで過ごす時間よりも、エーデルガルトに負けんと切磋琢磨する時間のほうが大事なのだろうか。
ただ何となく選んだ焼き菓子を口にして、少し冷めた紅茶を飲む。はもう一度ため息を吐いた。
「の好きな茶葉だね」
当たり前のように向かいに腰を下ろしたリンハルトが、茶杯を覗き込んで言った。
「なぁに? 本以外に、まだ何かあるの?」
うーん、とリンハルトが不思議そうに首を傾げる。サラ、と髪の毛が柔らかそうに揺れた。
「リンハルト、髪紐がすこし緩んでいるわ」
はリンハルトの後ろに回って、一度紐を解いて結び直す。「はい、できたわ」と声をかけると、リンハルトが首を捻って振り返る。
大きな瞳にじっと見つめられ、はたじろぐ。
「フェルディナントは、君のどこがいいんだろう? 何から何まで平凡なのに」
「……本は、明日返してね。リンハルト」
「あ、別に嫌味じゃなくて、純粋に疑問に思っただけだよ。宰相の嫡男なら選り取り見取りだろうしね」
「いくら幼なじみでも、言っていいことと悪いことがあるでしょう」
瞬く瞳は、まったくもって悪意がない。だからこそたちが悪い。
「幼なじみ……僕たち、許嫁じゃなかった?」
リンハルトが立ち上がる。
女性のような顔立ちのくせ、すらりと背が高い。はリンハルトを胡乱げに見上げた。
「……紋章がない子に、どうやって興味を抱けばいいかわからない」
「うん?」
「言ったほうは忘れても、言われほうは覚えているの。わたしとあなたが結婚なんて、天地がひっくり返ってもあり得ないと思うわ」
いまいち納得がいかないような顔をしたリンハルトを部屋から追い出して、はコツンと扉に額を預ける。
リンハルトの言うとおり、フェルディナントならばきっと選り取り見取りなのだ。帝国貴族の中でも名高いエーギル家の嫡男であり、見目麗しい上に皇女と張り合うだけの才能もある。そして、その身には紋章を宿しているとなれば、彼とお近づきになりたい女性は後をたたないはずだ。
は貴族令嬢とはいえ紋章もなく、容姿だって何だって十人並みである。
フェルディナントがアドラステア帝国の宰相になったその時に、隣にいる自分など想像できるはずもなかった。あまりに不釣り合いで、分不相応だ。
──それでも、はフェルディナントが好きだ。
振り返ると、ひとつしか減っていない焼き菓子が目に入る。フェルディナントの茶杯は手付かずのままだ。
リンハルトも言っていたように、の好きな茶葉を選んでくれていた。
「フェルディナントと一緒だと、もっとおいしいのに」
ぬるくなった紅茶に口をつけて、は小さく呟いた。
コンコン、と扉を叩く音は控えめだった。すっかり日が暮れていたが、無遠慮に扉を開けてこないのでリンハルトではないことは確かだった。
「はい」
少しばかり扉を開けて顔を確認して、は「えっ」と小さく声を上げる。
「ふぇ、フェルディナント?」
は思わず、さっと周囲に視線を走らせた。幸い、人影は見当たらない。咄嗟にフェルディナントの手を取って、部屋に引き入れる。
扉を閉めて、はほっと息をつく。
「、?」
ひどく近い位置から声が落ちる。
顔をあげた先に、フェルディナントの驚いた顔があった。それが存外近くて、は慌てて距離を取る。
「ごめんなさい。でも、こんな時間に女生徒の部屋を訪ねるところを誰かに見られたら……」
「あ、ああ。すまない、私としたことが配慮に欠けていたな」
フェルディナントが前髪を掻き上げる。わずかに毛先が湿っていて、いつもと印象が違って見えた。
「昼間は申し訳なかった。あんなふうに別れたまま、明日を迎えるのはあまりに堪え難い。どうしても、の顔が見たくなってしまったのだ」
「さすがに、夜分に婦女子の部屋に上がる気はなかったんだが」と、フェルディナントが苦笑する。
そこでは、自分の振る舞いが貴族令嬢らしからぬことであったと気づく。いくら恋人同士であろうと、こんな時間に部屋でふたりきりだなんて──扉を開けて言葉を交わしているところを見られるよりも、よっぽど外聞が悪い。
「どうしよう……部屋から出ていくところを見られるほうが、」
す、とフェルディナントの人差し指が、の唇を押さえた。
は彷徨わせた視線を、そうっとフェルディナントに向ける。
「やましいことなど何もないのだから、堂々とすればいい」
そう言ったくせに、フェルディナントの唇は「でも」と言いかけたの唇を塞いでしまう。恭しく触れた唇が離れて「それに」と、囁く。
「噂など、痛くも痒くもないさ。何なら、君と恋人であることを皆に周知してもらいたいものだ。に悪い虫がつかないようにね」
フェルディナントが悪戯っぽく笑って、もう一度口付ける。もはや、やましいことをしていないとは、とてもじゃないがには言えそうにはなかった。
思わず後ずさると、とんと背が扉に触れた。は顔を伏せる。
「わたしで、いいの? 紋章もないし、秀でたところも」
「でいいんじゃない。が、いいのだよ」
フェルディナントの手がの頬を包む。近づいてくる気配に、は伏せた瞳をあげられない。
「愛しているよ」
飾り気のない言葉が鼓膜を震わせて、の身に染み渡っていくようだった。「わたしも」と答えた言葉は、フェルディナントの口付けに飲み込まれてしまって、彼に届いたかどうか定かではない。