はあ、とため息をついて、は穏やかな波を見つめる。
 サレフと行動を共にしてしばらく経つが、どちらの探しびとも見つからぬままだ。これ以上闇雲に探し回っても無駄足が増えるばかりである。互いに一度引き返すことに決めたのは、賢明な判断だったはずだ。はロストンへ、サレフは里へ──またお会いしましょう、と約束を交わすことはなかった。

 サレフには、は不運ではなくて、危機感がないのだと指摘された。確かに、腕に覚えがあるゆえの自負はある。
 けれどもやはり、運がないというのは、否定できないのかもしれなかった。幽霊船を恐れて、船を出してくれる者はひとりとしていないのだ。

「嵐が来るわけでもないのに、船が出ないなんて……」

 潮風に揺れる髪を押さえて、は眉根を寄せた。

「……いっそ、幽霊船を退治してしまえばいいのでは?」

 いかにも乳母姉妹が考えそうなことである。よもや、本当に幽霊船退治に乗り出してはいないだろうか。そんなまさか、とかぶりを振ったの肩を掴む手があった。

「やはり君は危機感が足りない」
「え? サレフさん?」

 やけに険しい顔をしている。先ほどの呟きを聞かれていたのだと気づいて、は苦く笑った。
 「冗談です」と、肩をすくめてみるも、サレフの眉間の皺は消えてくれない。

「さすがにしませんよ、無謀すぎます」
「…………」
「それにしても、サレフさんはどうしてここに?」

 もうすでに里に戻っているとばかり思っていた。
 ため息と共に、サレフの手がようやく肩から離れる。

「弟子の面倒を見ていた」
「まあ、お弟子さんの……お忙しい身ですのに、大変ですね」

 見たところ、サレフもまだ探しびととは再会できていないようだ。
 ミルラという名前の少女と聞いたが、妹というふうでもない。詳しい事情は知らないが、彼にとってとても大事な存在なのだということはわかる。幼な子の足ではそう遠くには行けないはずなのに、未だに行方を掴めないとなれば、誰かと行動を共にしているのかもしれない。
 それが善人ならばよい、とは少女を思って目を伏せた。

 サレフが港に目をやり、に視線を戻した。

「ロストンには戻れそうにないのか?」
「はい……でも、どうかお構いなく。陸路で行けば済むことですから」
「……簡単に言うが、陸路でロストンに向かうとなると相当な時間を要するはずだ」
「仕方ありません」

 それでは、とはサレフに短く別れを告げる。急ぎ、馬を手配しなくてはならない。
 踵を返したの手を、サレフが掴んで引き止めた。は首を傾げながら、サレフを振り返る。

「今度は君の面倒を見させてくれ」

 サレフの真摯な視線に射抜かれ、は頷くほかなかった。



「君と別れてから、魔物に遭遇することも、賊に絡まれることもなくなった」

 そう言いながら、サレフがお茶を差し出してくれる。ふわりと湯気と共に、やさしい香りが立ち上った。

「ありがとうございます」
「山道は険しい。今日はここで休み、明日経つとしよう。私は少し周囲を見てくる」

 サレフが席に着くこともなく、出口へ向かう。ここに至るまでの魔物との戦いで、体力を消耗したのはサレフも同じはずである。の不安げな視線に気づいたのか、サレフがふと足を止めて振り返った。
 は慌てて目を伏せる。ふ、とサレフが小さく笑みをこぼした。

「すぐに戻る」

 する、とサレフの指先がの頬をなぞって、離れた。
 は伏せた目をすぐにはあげることができずに、揺らめく湯気を見つめる。心が安らぐような香りがするのに、の鼓動は速まるばかりだ。

 サレフが出て行ってようやく、は視線をあげる。ふう、とため息ともつかぬ息を吐いて、お茶に口をつけた。疲弊した身体に染み渡っていくような気がした。
 不運であろうとなかろうと、こうして再びサレフと共にいることは、紛れもなく僥倖である。

 別れの際、またと口にできなかったのは、その約束が果たされないことが怖かったからだ。
 それを悟られまいと、港では随分と素っ気ない態度を取ってしまった。は反省しながら、サレフの帰りを大人しく待った。






 帰りを待つうちに、眠ってしまったらしい。
 髪を撫でる感覚に気がついて、けれどそれが心地よくて、すぐに瞼が持ち上がってくれなかった。

「ん……」
「眠っていてかまわない」

 やさしい低音が、の眠気を助長する。は重い瞼を押し上げて、何度か瞬きを繰り返す。柔らかい眼差しがすぐ傍にあった。

「サレフさん……」

 髪に触れていた手が、の頬を包んだ。は無意識にその手のひらに頬をすり寄せる。
 どうやら、思っていた以上に、サレフと別れたことが堪えていたらしい。旅は道連れ、とよく言うが、その旅が終わってしまえばそれまでだ。

 いつか終わりがくるなんて、嫌だ。
 そう思うのに、素直に口にできるほど、は子どもじみていなかった。

、君は私を試しているのか?」

 サレフの親指が、の下唇をそうっとなぞる。試す、とは──その意味を考える間も尋ねる間もなく、唇が重なった。
 やさしく何度か啄むように触れた唇は、拒むことのないの様子を確認してから、深い口づけへと変わった。舌先がの唇を割り入る。
 ぎゅっ、とはサレフの法衣を掴んだ。

「…………」

 強張った指先を解くようにして、サレフがの手を取り、指を絡めた。
 は閉じていた瞳をあけ、サレフを見つめた。

 言葉にしてしまえば、本当に離れられなくなる気がした。吐息が触れ合う距離で、の唇が戦慄くように震えた。
 互いの呼吸だけが聞こえる。サレフがやけに恭しい仕草でを抱き上げ、寝台に下ろした。何か言わなければ、とは思いながらも、何ひとつとして声にならなかった。

 視線が絡まって離れないせいで、瞳を閉じることすらままならない。


「お師匠さま~、こんにちは~」


 は、と息を呑んだのは、かサレフか定かではない。
 は慌てて身体を起こし、それほど乱れてもいない身なりを整える。「あれれ? いないや」と、幼い声が聞こえるほうを向いて、サレフがため息を吐いた。
 この間の悪さもまた、の不運がゆえだろうか。

「……もう来ぬほうがいいと言ったはずだ。私は使命を帯びた身だ。また出かけねばならない」

 そうだ、サレフには使命がある。それを引き止めることなど、にできるはずもない。やはり、この想いは口にするべきではないのだ。
 サレフの後ろから部屋の様子を見たは、目を丸くした。

「ラーチェル?」
「あら? ではありませんの」

 サレフが怪訝そうにを振り返る。何故、こんな人里離れた地にラーチェルがいるのだ。はあちこち探し回った労力を思って、脱力した。


 の探しびとであるラーチェルは、もはやロストンに戻る気はなく、ルネス王女エイリークとこのまま旅を続けるつもりらしい。ポカラの里に戻ったサレフとはここで別れるのだ──と、は覚悟を決めてサレフを見あげた。

「サレフさん、どうかお元気で」
「……聞いていないのか?」
「聞いて? あの、」
「私も彼らと共に行くことになった。またしばらく、よろしく頼む」
「…………」

 聞いていません、と答えた声は蚊の鳴くように小さかったし、細かく震えていた。
 小さく笑みをこぼしたサレフの指先が、の目元に触れる。「君の眼は雄弁だ」と、サレフが呟くように告げた。恥ずかしさから目を伏せたの耳朶を撫でるみたいにして、サレフの声が落ちる。

「……私の気持ちも伝わっているだろうか」

 はサレフの瞳を見つめて確かめることができなかった。





 ひとりで街に繰り出すと、必ずと言っていいほど柄の悪い輩に絡まれることをすっかり忘れていた。ここしばらくは、常にサレフやその他にも誰かが隣にいたため、久しぶりの事態だった。
 は困り顔で、行手を阻む二人組の男を見あげた。

「ちょっと酒に付き合ってくれるだけでいいんだって」

 ニヤニヤと笑う男の腕が、の肩に伸びた。それを躱してもよいものか、と逡巡するの腕を掴んで引き寄せる手があった。

「おっと、悪ぃが先約があるんでな」

 顔に傷跡を刻む、筋骨隆々な男を目にした途端に、謝りながら二人組は慌てて散っていく。

「まあ、ジストさん。助かりました」
「そりゃよかった。昔なじみの連れにはやさしくしないとな」

 昔なじみ、とはサレフのことだ。親しげに話す様子を見たことはあるが、改めて紹介されたわけでもない。は曖昧に微笑んだ。

「もう、隊長! 急に走り出してどうしたの……あら?」

 駆けてくるテティスが、の肩を抱くジストの手を見て、怪訝そうに眉をひそめる。咎めるような視線を受けて、ジストがパッと手を離した。

「勘違いするなよ? 俺はただ、を助けてやっただけだ」
「勘違いって何のことかしら?」

 テティスの口元は微笑んでいるが、声音には刺がある。
 自分をほっぽったかと思えば、他の女の肩を抱いていたとなれば、嫌な気持ちにもなるだろう。

「すみません、お二人の邪魔をしてしまって。わたしはもう戻ります」

 は慌てて口を挟んだ。ジストとテティスが顔を見合わせる。

「待ちな。戻るまでにまた絡まれやしないか?」
「そうね、心配だわ……」

 まるで迷子を見るような眼差しを向けられ、は首を竦めた。がよくいざこざに巻き込まれることを聞き及んでいるのだろう。
 は苦笑を漏らす。

「心配には及びませんので、どうかお気遣いなく」

 丁寧に断りを入れて、それでもなお心配そうな顔をする二人に向かって頭を下げる。
 ちょっとしたいざこざなら、あしらうのも慣れたものだ。他人の手を煩わせてしまうことのほうがよほど、には心苦しい事態だ。

 踵を返したところで、駆け寄る見慣れた姿を見つけて、は足を止める。

、あれほどひとりで出歩かないようにと……」

 サレフの息が上がっている。それに気づいて、はしゅんと肩を落とした。

「すみません。ついうっかり」
「だから君は、危機感が足りないと言うんだ」

 小さくため息を吐きながら、サレフが無事を確かめるようにを抱きしめた。は恥ずかしさに身をよじった。

「サ、サレフさん」
「……おいおい、こりゃ本当にあのサレフか?」

 サレフの腕がわずかに緩むが、解放されることはなかった。「ジストか」と、サレフが呟くもやはり抱きしめる腕はそのままだ。

「彼女を助けてくれたようだな」
「いやまあ、そうだが……」
「あら、邪魔しちゃだめよ。隊長」

 なんとか首を捻って振り返れば、テティスが片目を瞑って微笑みかけるのが見えた。
 二人が背を向けて遠ざかっていくのを認識した途端にサレフの腕に力がこもって、は鼻先を胸板にぶつける。心配したからこそ、の不注意を怒っているのだ。

「本当にすみません。ご心配をおかけしました」
「……ああ」

 返事こそあれど、サレフの腕はしばらくそのままだった。



 街中で抱きしめられ、かつすぐに解放してくれなかったことは、にとって羞恥の極みであった。大抵のことはどうにかなる、と思ってきたが、あれ以来は肝に銘じて行動することを心がけている。

「ですから、サレフさん。そんなに心配なさらないでください」
「……君を大切に思うからこそ、心配している」
「わ、わかっています」

 サレフがこんなふうに言葉にして伝えてくることは、稀だ。
 だからこそは戸惑ってしまうし、恥ずかしくて堪らなくなる。それをわかっていて、意地悪しているというわけではないだろう。赤くなったの頬に、サレフの指が撫でるように触れる。
 宿の食堂にはとサレフしかいないが、いつ誰がきたって可笑しくはない。は身を捩って、サレフの指から逃れる。

「と、とにかく、四六時中一緒にいる必要はないはずです」
「それはどうだろうな」

 サレフが真面目くさった顔のまま、首を捻る。

「私を安心させると思えば、安いものだろう」
「それは、そうかも、しれませんけれど……でも」


 次第に落ちていた視線が、サレフの声によって引き戻される。は窺うように、サレフを見た。

「……ジストに、私は言葉が少なすぎる、と言われた」
「わたしは、それもサレフさんの美点だと思います。多くを語る必要なんてありません」
「だが、そのせいで君を不安にしている……」
「不安、」

 サレフの瞳は、の心の奥底までも見透かしてしまいそうだった。真っ直ぐ射抜かれて、は瞬きさえも忘れる気がした。
 ごくり、とが唾を飲み込んだ音がやけに大きく聞こえた。

「君が別れを告げた時、私は己の使命を捨てでも君と共にありたいと思ってしまった。そんなふうに思ったのは初めてだったし、私自身信じ難かったが──君と離れがたいというこの気持ちは、紛れもない真実だ」

 ガタッ、と椅子が音を立てて倒れる。
 勢いよく立ち上がったせいで、淹れてからほとんど減っていなかった紅茶が、ほんのわずかに溢れてしまう。
 は顔をあげられずに、濡れたテーブルを睨むように見つめた。

「……ポカラの里は、いつでも君を歓迎する」

 サレフの手が、やさしくの顔を持ち上げた。いまにもこぼれ落ちそうなの涙目を見て、サレフが柔らかく微笑んだ。

「本当に、君の眼は雄弁だな」

 瞬きと共に溢れた涙を、サレフの人差し指が拭い取った。
 パタパタと駆ける足音に気づいて、は慌てて倒れた椅子を元に戻す。「大きな音がしたけど、大丈夫?」と、入口からひょっこりと顔を覗かせたのはユアンだった。

「すみません、椅子を倒してしまって」
「あっ、紅茶がこぼれてるよ。僕が拭いてあげる」

 ささっと手慣れた様子でテーブルに布巾を走らせ、ユアンがにこりと笑ってサレフを見あげた。褒めて、と尻尾を振る子犬のような仕草だった。

「ああ。ありがとう、ユアン」
「えへへへ」

 ユアンがうれしそうに笑い、無垢な瞳を今度はに向けた。涙は引っ込んでいたが、はどきりとする。

「ねえねえ、さんってお師匠さまのお嫁さんになるの?」
「…………え?」
「だって、ジストさんとお姉ちゃんが話してたよ。二人が一緒になるのも時間の問題だ、って」
「ユアン」

 サレフに咎められてなお、ユアンの笑みは崩れない。
 は戸惑い、サレフを見た。サレフが皺の寄った眉間を押さえ、ため息を吐く。

「僕、そうなったらうれしいなって。だってさん、すごくやさしくて強くて、僕大好きなんだ」

 ユアンがニコニコしたまま続ける。

「いたずらがバレちゃった時も庇ってくれたし、戦いの時もあっという間に敵を蹴散らしちゃうし。大好きな二人が、ずっと一緒にいてくれたらなぁって思うんだ」

 ユアンが固まるの手を取ったかと思えば、サレフの手に重ね合わせる。「あっ、邪魔するなってお姉ちゃんに言われてたんだった!」と、ユアンがきた時と同様軽やかな足音共に去っていく。
 重ねられた手を離す機会を逸して、はそろりとサレフを見あげた。

「……弟子がすまない」
「い、いいえ。サレフさんの愛弟子に気に入っていただけたのなら、その、うれしいです」

 そうか、とサレフが呟く。
 いつの間にか重なっていた手の指が、絡まっていた。

ローダの純正

(あなたが好きだ、と君の瞳は伝えている)