植物というのは繊細だ。気難しく、面倒にも思えるが、手をかけた分だけ応えてくれるような気がしている。ドゥドゥーには他人と関わるよりもずっと、植物の世話をするほうが気が楽だったし、心地もよい。
ガルグ=マク大修道の温室に足を運ぶことは、ドゥドゥーの日課である。士官学校の課題やディミトリとの鍛錬などの合間を縫って、ドゥドゥーは今日も温室を訪れる。両開きの扉を押し開けると、暖かく明るい室内がドゥドゥーを迎えてくれた。人気のない静けさと草木の香りは、ドゥドゥーにとっては好ましい。
見知った温室管理人が「こんにちは」と声をかけてくれるので、ドゥドゥーは会釈を返す。
厳つい顔に図体の大きい自分に、花など似合わぬことは承知している。はじめこそ怪訝そうだった管理人も、足を運ぶうちにこうして顔見知りになった。
ドゥドゥーはいつものように、花壇の一角に近づいていく。
どの植物も大事に育てているが、中でもこの花は一等大切にしているつもりだ。故郷に咲いた花は馴染みのあるものであり、そして思い入れもあるものでもある。
蕾が少しほころび始めている。ドゥドゥーは葉に視線を落として、眉をひそめた。
「…………」
葉に雫がついている。
土に触れると、湿っているのがわかった。
ダスカー産のこの花は乾燥を好む。水をやりすぎると根腐りを起こす恐れもある。
いつだったか、ベレトには「世話が難しそうだ」と言われたが、ドゥドゥーはそこも含めてこの花を気に入っている。
水やり当番の生徒は、恐らくよかれと思って水をやったのだろう。珍しい花だ。無知を責めるつもりはないし、水をやったことに対して腹が立つということもない。
キイ、と小さく音を立てて、温室の扉が開く。ドゥドゥーは反射的に振り向いて、入り口に立つ姿を見つめた。女生徒がじょうろを手にしている。水やり当番ならばこの花の性質を教えてやろう、とドゥドゥーは立ち上がった。
足を踏み出した瞬間、彼女の手からじょうろが落ちる。
声をかける間もなく、脱兎の如く女生徒が走り去った。ドゥドゥーは訝しみながら、じょうろを拾い上げる。
「あら、どうしたんでしょうね?」
管理人も首を捻っているが、ドゥドゥーも訳がわからずかぶりを振るのみだ。
何かをしたつもりはないのだが、もしや己を見て逃げたのだろうか。ダスカー人を快く思わない者は多い。とはいえ、顔を見て逃げられる筋合いはない。
「……今日の水やり当番は、彼女だろうか」
「ええ、そうですよ。黒鷲の学級の生徒さんだったと思いますが、名前までは……」
「いや、十分だ」
ドゥドゥーは礼を言い、日課の花の手入れに励んだ。
「どうした、ドゥドゥー。悩み事か?」
頬杖をついたディミトリが、どこか楽しげに顔を覗き込んでくる。
態度に出したつもりはなかったが、長い付き合いのディミトリには違和感を与えてしまったのだろう。
「いえ……」
ドゥドゥーは言葉を濁す。
温室での一件が気にかかってはいるが、あえてディミトリに言うことではない。
ただでさえ、ディミトリはダスカー人であるが故の偏見や差別に胸を痛めている。目が合っただけで逃げられた、と知れば、自分のことのように憤慨するのは明白だ。その生徒探しに乗り出すかもしれない。ドゥドゥーは彼女を糾弾するつもりはない。謝って欲しいわけでもない。
「そうか。俺はいつもお前に助けられている。もし何か力になれることがあれば、言ってくれ」
「……身に余るお言葉です」
ディミトリが小さくため息を吐く。ドゥドゥーの言葉遣いが気に食わないのかもしれないし、頼られないことが不満なのかもしれなかった。つまらなそうな顔をして、食事を再開する。頬杖をついたままだ。
「殿下、肘をついて食べるのはいかがなものかと」
「ん? ああ、そうだな……」
姿勢を正したディミトリがくつりと笑う。「これは過保護と言うべきか」と、可笑しそうに呟くディミトリに、ドゥドゥーは何と言えばよいのかわからずにただ口を噤む。
ディミトリがゴーティエチーズグラタンを口に運ぶのを、ドゥドゥーは黙って見ていた。
悩み、というほどのものではなかったのだが、ディミトリに指摘された以上は解決すべきことである。誰かに相談するにも相手がわからず、ドゥドゥーは考えた末に大聖堂に足を運んだ。目安箱への投書の返答によれば、しかめ面をしていたのではとの指摘があった。
ドゥドゥーは眉間を指先で押さえる。
大柄の男がしかめ面をしていたら、逃げ出したくなるほど怖いだろうか。
もう少しで花開きそうな蕾を前に、ドゥドゥーは口角をあげる。幸いなことに根腐りの心配はなさそうだ。
「あ、あの……」
そのか細い声が自分に向けられたとは、すぐには気づかなかった。
「ドゥドゥーさん」
名を呼ばれ、ようやくドゥドゥーは顔をあげた。
女生徒が「先日の非礼を詫びさせてください。申し訳ありませんでした」と、ドゥドゥーに向けて深々と腰を折る。背中を流れる髪は、確かに走り去る際になびいていたものに違いない。
ドゥドゥーは立ち上がった。頭を下げた女生徒の姿が、ひどく小さく見える。
「……顔をあげてくれ。あの程度、非礼でも何でもない」
「ドゥドゥーさんは寛容なのですね」
顔をあげた女生徒が、長い睫毛を揺らして瞳を瞬いた。
寛容──物は言いようだ。ドゥドゥーはただ、罵詈雑言に慣れてしまっただけだ。嫌そうな顔をされるのも、明らかな敵意を向けられることも、ドゥドゥーにとっては“普通”のことだ。
「お前は、黒鷲の学級の……」
「申し遅れました。わたしは=フォン=です」
お見知りおきください、と裾をつまむ仕草は、どこからどう見ても貴族令嬢に他ならない。帝国では名のある貴族なのだろう。
「もうすぐお花が咲きそうですね」
がしゃがんで、ドゥドゥーを見あげた。そうして「ドゥドゥーさんが大事に育てていらっしゃるんですよね」と、どこか申し訳なさそうに告げる。
「管理人さんに聞きました。このお花は、あまりお水をあげないのだと……そうとも知らず、すみませんでした」
しゅん、とが項垂れる。
見下ろすばかりでは悪いような気がして、ドゥドゥーもの隣に膝をついた。
「見ての通り、問題はない」
「よかったです。お恥ずかしながら、お花はいただいた状態しか知らず、種から育つことも知らなかったのです」
「……そうなのか」
信じがたいが、貴族ならば土いじりなどするわけもない。知らなくて当然かもしれなかった。
「薔薇には棘があったのですね……」
感心したふうに呟くの横顔を、ドゥドゥーは黙って見つめた。
生きてきた環境があまりにも違いすぎる。ドゥドゥーにとっての普通があるように、彼女の普通がある。それは、随分と異なっているのかもしれない。
しかし、まさか切り花しか知らず、薔薇の棘さえも知らないとは──ふ、と思わず笑みがこぼれる。
それを嘲笑と受け取ったのか、が恥ずかしそうに俯いた。すぐに違うと伝えられたらよかったのだが、口下手なドゥドゥーにはどう言えばよいのかわからなかった。
下げられた視線が、窺うようにドゥドゥーを見あげた。のまなじりがほんのりと赤い。ドゥドゥーは開きかけた唇を反射的に結ぶ。
「水やりの当番は終わってしまったのですが、お花を見にきてもいいですか?」
「……好きにすればいい」
ドゥドゥーの了承など必要ないというのに、がうれしそうに微笑んだ。
温室に足を踏み入れると、ちょうどベレトが出るところだった。ベレトに向けて深々と頭を下げていたが顔をあげて、頬を綻ばせる。
「ドゥドゥーさん、こんにちは」
「……ああ」
ふいに、がドゥドゥーの手を引いた。細くて柔らかい指先は、ドゥドゥーの無骨な手には到底不釣り合いだった。
「実は、わたしもお花の種を植えてみたのです。ベレト先生が勧めてくださって」
ベレトが時おり温室に顔を見せるのは、自らも種を植えているからだったようだ。
が見せてくれた花壇には、野菜や花など雑多に植物が育てられている。何の種類かもわからずに、持っている種を植えたと言わんばかりである。の指が、小さな芽をやさしく撫でた。
「見てください。芽が出たんです」
が振り返る。存外、近くで視線がぶつかって、ドゥドゥーは慌てて身を引いた。もまた、さっと顔を俯かせた。
「そうか。よかったな」
「は、はい……」
ドゥドゥーからはの顔は見えなかったが、耳が赤く染まっている。
「そういえば、わたしがお水をあげてしまったお花が咲きましたね」
がはにかんだ笑みをドゥドゥーに向けた。白い頬が淡く、上気している。
「ダスカーのお花なのですね」
そこに、疎ましさなどなかった。
がファーガス出身者でなくとも、無知であろうとも、ダスカーの悲劇を知らぬわけがない。
向けられた眼差しが、温室に降り注ぐ日差しのように柔らかくて、眩しい。ドゥドゥーは思わず、目を眇める。
「あの、お花が咲いたら、ドゥドゥーさんに贈らせてください」
「……おれに?」
「はい。初めてなので、うまく育てられるかわからないのですけど……」
がわずかに視線を下げた。自信がなく、不安なのだろう。
「わかった」
ドゥドゥーが頷くと、がぱっと花が咲くように笑った。
不思議なものだ。他人との関わりなど面倒だと思っていたはずだが、こうしてと花を眺める時間は、ひとりで植物の世話をするよりも心地よく充実していた。
「……ひとつ聞きたいんだが、なぜおれの顔を見て逃げたんだ」
ふと気になって、ドゥドゥーは尋ねた。もし、目安箱の回答通りにしかめ面をしていたことが原因だったのなら、改善すべきだろう。
機嫌よくじょうろを手にしたが、振り返る。
「実は、ずっと前からドゥドゥーさんに声をおかけしたいと思っていたのです。だから、わざわざ当番を変わっていただいたんですが、いざご本人を前にすると驚いてしまって……思わず」
ごめんなさい、とが恐縮しながら頭を下げる。その拍子にじょうろから水がこぼれ、ドゥドゥーは咄嗟に手を伸ばして受け止める。
「きゃっ、すみません」
「いや……」
「ドゥドゥーさんのお袖が濡れて──」
慌てて顔をあげたの鼻先が、ドゥドゥーの胸に軽くぶつかる。沈黙が降りたのち、が顔を真っ赤に染めて、俯いた。つられるように、ドゥドゥーの頬も熱を持つ。
まさか、そんな理由だとは露にも思わなかった。
ダスカー人であることなど少しも関係がないばかりか、ドゥドゥーの表情さえ無関係だった。
「すみません……」
「いや、おれのほうこそすまない。大丈夫か?」
「はい、平気です」
「…………」
がおもむろに顔をあげた。頬も赤いが、鼻先もわずかに赤い。ドゥドゥーは思わず、小さく笑った。
両頬を手のひらで覆ってが視線を逸らす。
「ドゥドゥーさんの笑顔が素敵で、直視できません……」
が感嘆交じりに小さく呟く。「……可笑しなことを言うな」と、ドゥドゥーは背を向けたが、誰がどう見ても照れ隠しだっただろう。温室には、いつもの管理人しかいなかったことが幸いだった。
水をやりすぎて萎れてしまったり、肥料の与え過ぎなど小さな問題がありつつも、どうやら無事に花は咲いたらしい。
満面の笑みを浮かべて、がドゥドゥーの前に立つ。
「お約束どおり、ドゥドゥーさんに差し上げます」