よお、と気安い挨拶が自分に向けられたものだとは思わず、は俯かせた顔をあげようともしなかった。ふいに視界に入り込んだつま先は、を通せん坊するかのようだった。
 見慣れない足先だったし、聞き慣れない声だった。
 は怪訝に眉をひそめて、その足の持ち主に視線を向ける。

 見覚えのある顔だった。けれど、ここにいるはずのない顔でもあった。

「俺様を覚えてるみたいで何より。ま、この美少年を忘れるわけがねえけどな」
「……何故、あなたがここに」
「俺にも色々あるんでね。そういうお前は、まだヴァーリ伯の忠犬ってわけだ」

 皮肉げに口角をあげるその顔を睨みつける。
 はヴァーリ家に仕える使用人だ。ヴァーリ伯爵家の一人娘であるベルナデッタの士官学校での様子を逐一報告するため、もまた生徒の一人としてここにいる。

「実を言うと、俺もベレス先生に世話になることになったのさ。よろしく頼むぜ、
「な……」

 言葉を失うの肩を気安く叩いて、鼻先が触れるほどの距離に顔を寄せてくる。挑発的な瞳を縁取る睫毛が、やけに長い。

「俺のことはユーリス、と呼んでくれ」

 は肩に置かれた手を払い落として、一歩後ずさる。
 ベレスが担任を務めるのは黒鷲の学級である。アドラステア帝国の出身者──つまり、そこにはベルナデッタも在籍している。
 引き篭もってばかりのベルナデッタだが、授業には参加している。この休日が終われば、ベルナデッタは渋々ながら教室に足を運ぶことだろう。ベルナデッタとユーリスを合わせるわけにはいかない。

 は袖下に仕込んでいた暗器を手にする。「おいおい、こんなところで物騒なものを持ち出すんじゃねえよ」と、ユーリスの手が素早く手首を掴んだ。

「ベルナデッタ様に近づかないで。あなたが何をしたのか、それこそ忘れたわけではないでしょう」
「そりゃあ、十分痛い目にもあったしな」
「わたしはあなたを許す気はありません。生かしておくことさえしたくなかったくらいです……この悪党」

 細身に見えるが、きつく腕を押さえられて暗器を持つ手を動かすことは叶わない。ぎり、とは歯噛みする。

 ベルナデッタがユーリスのこと覚えていないわけがない。何せ唯一仲良くなった平民の男の子である。そして、その友人を突然失ったことは、彼女の心に深い傷を負わせたのだ。ユーリスの一件が、引き篭りの原因の一つであることは間違いない。
 ヴァーリ家の庭師見習いとなってベルナデッタと親しくなったユーリスの正体は、彼女を狙った暗殺者だった。の脳裏には、ユーリスがベルナデッタの首元に刃を添える姿が今なお焼き付いている。

「ああそうさ、俺は悪党だよ」

 ぐっ、と腕を捻られて暗器が手の内から落ちる。「みすみす殺されるわけにはいかないんでね」軽く肩を竦めて、ユーリスが暗器を拾い上げた。それを懐にしまって、美しい顔に美しい笑みを浮かべる。

「ベルナデッタがそんなに大事なら、監視なんて真似すんじゃねぇよ」

 かっと頭に血が上るのがわかった。
 力任せに手を振り解いて、ユーリスを突き飛ばす。けれど、ユーリスが反射的に身を捩ったためにの渾身の力は流れてしまい、ほんのわずかによろめいただけだった。無理に動かした腕が、少し痛む。

 驚いたような、戸惑ったような薄紫の瞳が、わずかに見開かれていた。は叫びたいのを堪えて、下唇を噛み締める。踵を返して逃げ出すが「おい!」という声が聞こえただけで、追ってくる気配はなかった。






 いつもなら鼻歌もついて軽快に刺繍針を動かすベルナデッタの手は止まりがちで、しまいには深いため息が吐き出される。は心配に顔を曇らせながら、ベルナデッタを見やった。
 手元に落としていた視線をあげて、ベルナデッタが困ったように首を傾げる。

「ねえ、は覚えてる? 昔、ベルとと男の子と三人で遊んだこと……」
「勿論です。ベルナデッタ様のご友人は、後にも先にもその方だけですもの」

 くすくすと笑えばベルナデッタが唇を尖らせた。は笑いながら「士官学校で、ご学友が見つかれば良いのですけれど」と、続ける。

「あ、あたしだってやればできるもんっ。きっと……多分……」

 は笑うのをやめて、尻すぼみに消えていく声に耳を傾ける。
 ベルナデッタの言う通り、その気になれば友人の一人や二人すぐに作れるはずだ。黒鷲の学級の生徒たちは貴族が大半を占める。ベルナデッタが貴族令嬢らしからぬとはいえ、話してみれば気の合う者もいるだろう。

「そ、そうじゃなくて! 新しく学級に来た……ユーリスさん? その男の子に、似てる気がするんだよなあ。はどう思う?」

 はどう答えるべきか、すぐには判断できなかった。
 けれどが何かを言うより早く「そんなわけないか。だって、あの子はお父様に……ううう、きっと殺されちゃったんだああ!」と、一人で自己完結してベルナデッタが叫びながら頭を抱える。

「ベルナデッタ様、落ち着いてください。旦那様はそこまで無慈悲な方ではございません」
「……でもでも」
「その子が屋敷からいなくなったのは事実ですが、半殺しだ何だというのは噂に過ぎませんでしょう」
「う、うん。……はっ、じゃあやっぱりユーリスさんがあの男の子っていう可能性も!?」

 ほっと胸を撫で下ろしたかと思えば、青ざめた顔で刺繍針を握りしめる。ベルナデッタの百面相を眺めながら、は小さく息を吐いた。

「あっ、そうだ! 、前から思ってたんだけどね」

 ベルナデッタが背筋を正し、膝を揃えてに向き直る。も自然と身構えて、若干緊張を覚えながら言葉を待った。

「ベルって呼んで欲しいなぁ、なんて……ほ、ほらっ、ここにはお父様とお母様もいないし、昔はそう呼んでくれてたでしょ!?」
「分別のつかぬ子どもだったのです。わたしは言わば、エーデルガルト様にとってのヒューベルト様のようなもの。あくまでヴァーリ家の使用人、ベルナデッタ様の従者なのです」

 うう、と言葉に詰まるベルナデッタが寂しげに目を伏せる。

「……申し訳ございません」

 こんな顔をさせたいわけじゃない。
 ベルナデッタの意に反することばかりする自分だって、ユーリスに負けず劣らず悪党だ。



 扉を叩く音に、は筆を置いて立ち上がる。部屋を訪ねてきたのはフェルディナントだった。貴族らしい礼儀正しい所作で、会釈をしてみせる。

「すまない。ベルナデッタを見なかっただろうか」
「いいえ……お部屋にいらっしゃらないのなら、わたしにも見当がつきかねます。ベルナデッタ様がどうかなさいましたか?」

 ふう、と小さくため息ともつかぬ息を吐いて、フェルディナントが前髪をかき上げた。

「料理当番だというのに、姿が見えないのだよ。当番の相手が困っていてね」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。あとはわたしにお任せください」
「ああ。すまないが、よろしく頼む」

 フェルディナントが律儀にも一礼して去っていく。
 は首を捻りながら厨房に向かう。ほとんど部屋から出ない上に、同じ学級の生徒と話すことさえいまだに苦手であるベルナデッタにとって当番は苦痛に違いない。しかし、料理好きであるため、料理当番はそれなりに楽しくやっていたはずだ。

「遅ぇ」

 厨房で不機嫌に呟いたのは、ユーリスだった。「ベルナデッタのやつ、逃げやがったな」と、舌を打つ。
 ユーリスを見た瞬間に、はベルナデッタが居留守を使ったのだと気づいた。事前に相談してくれれば当番を代わってあげられたのだが、恐らくベルナデッタも直前まで悩みに悩んで、結局来られなかったのだろう。

「申し訳ございません」
「お前が謝っても意味がねえ。……まあいい、さっさとやっちまうぞ」

 言葉通りさっさと料理を作り終えて、ユーリスがの腕を掴んで歩き出す。あまりに突然のことに、は抵抗できなかった。

「おら、ベルナデッタ! いるんだろ?」

 ガン、と傷つかない程度にユーリスが扉を蹴りつける。ひぃっと部屋の中からベルナデッタの悲鳴が聞こえた。

「や、やめなさい!」
「あ? お前も迷惑被ってるだろうが」
「だからってこんな……もっと穏便にお願いします。ベルナデッタ様が怯えてしまいます」
「あいつは何したって怯えんだろ」

 ユーリスが吐き捨てるように言う。扉を叩きつけるために持ち上げられたユーリスの手を、は慌てて掴んだ。

「それでも! お願いだから、大きな声や音を立てて脅しつけるような真似はしないでください。そんなことをしなくたって、ベルナデッタ様はお部屋から御自身の意思で出られます」
「……だとよ、ベルナデッタ。さっさと顔見せろ」

 長いため息を吐いて、ユーリスが腕を下ろした。
 部屋の隅で、震えながら扉を開けるか否か葛藤するベルナデッタの姿が、容易に想像できた。は閉ざされたままの扉を、じっと見つめる。

「出てきやがらねえ……」

 扉を睨んでいたユーリスの瞳が、に向いた。睫毛が長くて、人形のように大きな瞳が、宝石の如く輝いて見える。す、と細められたそれに、は嫌な予感がした。
 無意識のうちに、半歩後ずさる。

「過保護が過ぎるんだよ。荒療治も必要だと思うぜ、俺は」

 ユーリスの手が素早く伸びて、跳び退こうとしたの手首を掴んだ。軽く捻られるだけで、あまりの痛みに動くことができなかった。は悲鳴を噛み殺す。

「っ……」
「やっぱりな。無理に振り解くから、腕を痛めたんだろ」

 馬鹿だなあ、と同情めいた顔をして、ユーリスが呟く。痛みに身を強張らせるを引き寄せて、ユーリスが「悪党は悪党らしく、やらせてもらうぜ」と耳元に言葉を落とした。

「ベルナデッタ。三つ数えるうちに出てこないなら、お前のお友達にちょっと痛い目を見てもらうぜ」
「へっっ!? ま、まままま待ってくださいいい!?」
「さーん……にーい…………」

 勢いよく扉が開かれて、ベルナデッタが文字通り部屋から転がり出てくる。

に酷いことしないでぇえええ!!!」

 ベルナデッタが腹の底から絞り出すように叫ぶ。
 は腕の痛みも忘れ、目を丸くしてベルナデッタを見つめた。「よしよし、やればできるじゃねえか」と、ユーリスがの腕を解放しながら、実に満足げに笑う。

「で? どう詫びてくれるんだ、ベルナデッタ?」

 ユーリスに笑顔で凄まれたベルナデッタが、先ほどよりも大きな声で謝るので「うるさい」と、駆けつけたベレスに注意されることとなった。ベルナデッタが慌てて部屋に引っ込んでいく。やれやれ、と肩を竦めてベレスが踵を返した。


 自分のために、ベルナデッタが自発的に部屋を出てくれた。
 ──うれしいはずなのにひどく胸が苦しい。

 立ち尽くすの腕を、ユーリスがやさしく手に取った。淡い光が前腕を包んで消える。確かめるように腕を動かされても、痛みはなかった。

「貸し、一つだぜ」
「……」
「何て顔してんだよ。あー、腹減ったな。ベルナデッタ、お前も飯食うだろ?」

 小さな悲鳴ののち「あ、ああたしは、あとで行きますから!」と、部屋の中から返事が聞こえる。

「ふーん……じゃあ、は借りてくぜ」

 は首を横に振る。けれど、痛みはもうないというのに、ユーリスに掴まれた腕を解くことができなかった。
 半ば引きずられながら、食堂に向かう道を進む。ふいに、ユーリスが足を止めた。

「俺なんかより、ベルナデッタを裏切っているお前のほうが、よっぽどあいつの敵だよ」

 は言い返すことができない。涙でぼやけたユーリスが、どんな表情をしていたのか、には知る術もない。

きらめく睫毛

(いつまで経っても腕は掴んだままで、)