朝日を瞼に感じて、は身を起こした。まだ薄ぼんやりとした意識で、隣の布団が畳まれていることを認識して、ハッとする。まただ、と諦めにも似た気持ちが、胸の内に広がっていくのをは感じる。
は寝巻き姿のまま、縁側へ出て庭で薙刀を振るうツバキの姿を見つける。
いつからそうしていたのか、にはわからない。首筋を伝う汗を拭ったツバキが「あ、おはよう。」と、爽やかに笑んだ。は慌てて三つ指をつく。
「おはようございます」
「そんな格好じゃ寒いでしょー。ほら、着替えておいで」
ツバキにやさしく背を押される。
は着替えながら、彼はいつ寝ていつ起きるのだろう、と考える。リョウマが王位を継ぎ、天馬部隊の長を命じられたツバキが多忙を極めるのはわかっている。だからこそ、は妻として彼を支えてあげたいと思っているのだ。
祝言をあげて、床を同じくするようになって、すでに半年が過ぎていた。けれどもその間、は一度だってツバキの寝顔を見たことがない。
ツバキは自他共に認める完璧主義だ。だからと言って、これではまるで、他人行儀だ。
彼にとってこの家は、気の休まる場所ではないと言われているような気がしてならない。は小さくため息を吐く。
「すみません、すぐに朝餉の準備をします」
「急がなくてもいいよー。まだ寝ててもよかったのに、俺が起こしちゃった?」
近づくツバキからは、清涼感のある香りがした。先ほどまで汗を流していたとは到底思えない。服の乱れもなければ、髪の毛先まですべて完璧に整っている。
は思わず、目を伏せて視線を逸らした。
「いえ、そういうわけには……」
ツバキの手がの頬に触れて、視線を合わせるように顔を覗き込む。天馬武者であるツバキの手のひらは硬いが、指先は滑らかでささくれのひとつもない。
は無意識に、自身の手を胸に抱いて指先を隠した。荒れた手が恥ずかしい。
「寝癖、ついてるよー」
ふふ、とツバキが笑って、やさしい手つきでの髪を撫で付ける。「ほんとうに、急がなくていいんだよー。まだ早いんだから」と、ツバキの声はどこまでも穏やかだ。
髪を撫でた手が耳元に伸びて、指が耳朶をくすぐる。
ひやりとしたが、ツバキの手は冷えているわけではない。の耳が熱を持っているのだ。こつん、と額が触れ合う。
「何か手伝おうかー?」
「と、とんでもない! どうかツバキ様はお座りになっていてください」
「そう? 遠慮しないでいいんだよ、夫婦なんだから」
はツバキを見つめる。
夫婦なんだから、と言われても、何だかひどく空虚な気がしてしまう。
「ツバキ様、」
瞬きの折に、ツバキの長い睫毛がくすぐるようにに触れる。けれど、それだけだ。
ツバキがさっと身を起こした。
「あはは、邪魔しちゃだめだよねー。ごめんね」
は俯いて、己の耳に触れる。耳以上に頬が熱い。
「今日は帰りが遅くなるから、先に寝ててねー」
「はい、いってらっしゃいませ」
ツバキを見送って居間に戻ると、いつも家の広さに無機質な冷たさと、虚しさを感じる。埃ひとつない室内は、整い過ぎて生活感がない。
──にとっても、ここは気の休まる場所ではなかった。
完璧なツバキに見合う妻でなければ、と何にも気を抜くことができない。本来なら、椿よりも早くに寝て遅くに起きるなど、許されることではない。寝癖だって、とは髪を押さえて、ツバキの手の感触を思い出す。
「……」
もっと触れて欲しい、と思うのは我儘だろうか。それこそ、夫婦なのだからと思っても、には到底口にはできやしない。身体を重ねたのは、初夜の一度のみだ。
は名のある貴族の娘ではあったが、特別な才はない。
遅かれ早かれ嫁ぐことは決まっていて、どこに出しても恥ずかしくないように、と厳しく育てられた。けれども、恥ずかしくないだけで、気立てがよいと言われるほどにはなれなかった。
まさか、ツバキのような眉目秀麗かつ頭脳明晰、さらには品行方正の完璧主義者が夫になるなど、には想像し得なかったのだ。母には「海老で鯛を釣るとはこのことね」と薄ら笑いされたものだ。
よろしくねー、と握られた手の美しさに驚いたことを覚えている。とても武者の手とは思えなかった。
結納を済ませたのち、ツバキは暗夜王国との戦いに身を投じた。には待つことしかできなかったし、気の利いた言葉のひとつも言えなかった。「御武運を」と告げたに、ツバキは笑って頷いた。
は心のどこかで、祝言が延期になったことにほっとしていた。彼の妻になるには荷が重く、覚悟もできていなかった。けれど、これが今生の別れになるかもしれないと思うと、途端に涙が溢れた。
大丈夫、とツバキは口にしなかった。
「絶対に帰ってくるから、待ってて」
ツバキの間延びしない口調を初めて耳にした。
はこの時、初めて彼の顔を真正面から見た。そして、これからはツバキのために生きようと思ったのだ。
ぎゅっとの手を包んだツバキの手は、相変わらず美しかった。
夕餉も湯浴みも済ませてしまえば、あとは寝るだけだ。は、敷かれた二組の布団を見下ろす。一緒に床に着いたのはいつだっただろうか。
寝巻きの上に羽織りを一枚重ねて、は縁側に腰掛ける。
「ツバキ様は、わたしを避けていらっしゃるのかしら……」
思わず、不安が口をついて出る。
帰りが遅くなる、と言葉通りに、すっかり日が暮れてもツバキが帰ってくる気配はない。今日こそは「おかえりなさい」と言うのだ。はいつもそう思っているが、ツバキを出迎えることができたことは、両手で数えるほどしかない。
これが夫婦のあり方だと言うのであれば、ちゃんちゃらおかしい。
ふわ、と鼻先に感じる食欲をそそる香りが、の意識を浮上させた。
やわらかな布団の感触がして、自分が眠っていたことに気がつく。
「え?」
は慌てて起き上がる。いつものように、隣の布団は綺麗に畳まれていた。しかし、いつもよりも窓から見える陽が高い。
「つ、ツバキ様!」
は身なりを整えることすら忘れて、襖を開け放つ。「おはよー」と、笑うツバキが割烹着を身に纏っている。はめまいがした。
手にしたお玉を置いて、ツバキが近づいてくる。
「ごめんねー、昨日は遅くまで待っててくれたんでしょ? もっとゆっくり休んでてよかったんだよー」
は自分で布団に入った覚えがない。ツバキを待っているうちに眠ってしまって、帰ってきた彼が布団まで運んでくれたのだろう。
「ご、ごめんなさい。ツバキ様のお手を煩わせて……」
「謝る必要なんてないよー。、まずは着替えてきなよ」
ツバキの手が、ずれた寝巻きの合わせ目を整えてくれる。は慌てて寝室へと逃げ帰った。
寝癖がついていないか確認して、今度こそ落ち着いて襖を開ける。すでに朝餉が用意されていた。それは、もちろん完璧な出来栄えである。
「すみません。御膳までツバキ様にさせてしまうなんて」
「だから、謝らないの。ほど上手じゃないかもしれないけど、中々完璧な仕上がりでしょー? いい息抜きになったよー」
「え……? お料理が、息抜きに……」
には理解できなかった。
は料理が好きでもなければ、得意でもない。花嫁修行として厳しく躾けられたにとって、料理に限らず家事と名のつくものには全て点数をつけられた。いつも満点には足りず、は常に己の至らなさを自覚させられた。
ツバキの作った料理を食べるのが怖い。は箸に手を伸ばすことができなかった。ほど上手ではない、なんて世辞だとわかっている。
「……ツバキ様」
やはり、完璧なツバキには、同じように完璧な妻がふさわしい。
──それは、ではない。
「どうか、離縁してくださいませ」
ツバキの手から箸が落ちた。
「え!? ど、どうして」
「わたしにツバキ様の妻は務まりません。寝坊した挙句、夫に朝餉を作らせ、その上その朝食はわたしよりも美味しい」
「待って! 俺よりも、が作ったほうが美味しいに決まってるじゃないか」
「お料理だけじゃありません。掃除だって洗濯だって、ツバキ様はわたしなんかよりずっと……っ」
鼻の奥がつんと痛んで、声が詰まる。
ツバキが息を呑んだ。
「……、泣かないで」
ツバキの指が目尻に伸びる。はぎゅっと目を瞑った。こぼれた涙を、ツバキの親指の腹がやさしく拭う。
「わたしは、今もツバキ様のお帰りを、待ってる」
それは、途方もなく虚しい。ツバキのためにと努力を重ねても、報われることはない。
ツバキの帰る場所は他にあるのかもしれない。ただ、家柄のためだけに、と婚姻を結んだのかもしれない。そのほうがよほど納得がいく。
自分を選んでくれたなんて、そんな恥ずかしい思い上がりをしてしまった。
「ごめんね。を不安にさせていることに、全然気がつかなかった。駄目だなぁ、俺」
ふ、とツバキが自嘲する。初めて見る表情だった。
「の前では完璧にありたい、って思ったら、何だか変に緊張しちゃってさ」
は濡れた目を丸くする。まさかツバキがそんなふうに思っているだなんて、考えたことがなかった。
ツバキの腕がやさしくを包んだ。
「きっと、が思っているほど、俺は完璧じゃない。失敗だってする。そんな格好悪いところを見られて、に嫌われたくなかったんだ」
「……嫌いになんて、なりません」
はぎゅうと抱きついて、ツバキの胸に顔を埋めた。「何があったって、絶対にあり得ません」と、は囁くように告げる。ツバキの服からは、いつもと違って焼鮭の匂いがした。
「じゃあさ、俺がこんなことしても、許してくれる?」
ツバキの手がの顔を上向かせて、口づけた。触れるだけでは飽き足らず、舌先が唇を割り入って、の呼吸と思考を奪っていく。
「つ、ばきさま、こんな朝から」
図らずも吐息まじりの声が甘い。「今日はと二人でゆっくりしたいなー」と、唇が触れ合う距離でツバキが笑う。はツバキを見ることができずに、きつく目を閉じる。眦に涙がじんわりと滲む。
くす、とツバキの笑んだ吐息が口先に触れた。
「可愛い。ほんとうは、ずっとこうしてに触れたかった」
「……っ」
「に言ってなかったんだけどね、この縁談は俺が望んで君の家に申し出たんだよー」
「え?」
思わず目を開けた先で、すぐにツバキの瞳と視線がかち合う。
「だから、が不安に思う必要なんて、ないからね。俺、君のことがすごく好きだから」
「そんな、わけ……」
ツバキの真摯な瞳に、はその先の言葉をなくした。ツバキの手のひらがそうっと頬を撫でる。
「昔、ボロボロの天馬武者見習いに、おにぎりをあげたでしょー?」
「えっ? あ、えっと、荒天で部隊と逸れてしまったと……」
懐かしい記憶だ。
の屋敷の庭に、同じ年頃の少年が傷ついた天馬と共に倒れていたときは、度肝を抜かれたものだ。慌てふためいて癒し手を呼んだし、怪我があまりに痛々しくて泣きながら握り飯を作った。時おり、彼は無事に天馬武者になったのだろうか、と考えたりもした。
「そうそう、それ俺なんだよねー」
は思わずぽかんとツバキを見た。
「ね? その頃からのことが好きなんだから、俺の気持ちが本物だってわかってくれるよねー」
信じられない気持ちでいっぱいだったが、もはやツバキの想いを嘘だとは思えなかった。は目を伏せて、小さく頷いた。顔から火が出そうだ。
「ねぇ。目を閉じて、」
ツバキの言葉に従って、瞼を下ろし切る。「いい子だね」と、囁きと同時に唇が触れた。